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連載小説「クラリセージの調べ」3-9

※ 治療シーンは一例です。治療については、専門医にご相談ください。

 朝日がほんのりと差す花房クリニックの待合室。長椅子に掛けると、膝上のコートから、かすかに芳香が立ち昇る。

 あの食事会以来、結翔くんは人工授精を前に心をかき乱された私に、不器用に寄り添ってくれる。一緒にアロマを楽しもうと、精油をブレンドし、「部活を終えたグラウンドを包む冬の闇の匂い」を調香してくれた。彼が大きな手で小さなスポイトを持ち、精油をムエットにたらして鼻を近づける仕草を思い出すと心が和む。柚子とユーカリに、ジュニパーベリーをほんのり加えた冬の香りに包まれると、彼が傍にいてくれるような気分になる。

 診察時間前の待合室は、新しい命を切望する女の気概で、ぴんと張った空気が支配している。私のように、これから精子を注入される女たちに、奇妙な連帯感を覚える。

 先ほど、結翔くんが4日間の禁欲後に採精した容器を無事に提出できた。
 いつもより少し早く起床した彼は、トイレを済ませてバスルームに入っていった。私は彼が何を想像して達するのかを考えないように努め、台所でおむすびをきつく握った。「これ頼むな」とリビングのテーブルに容器を置いた彼は、いつもの朝食メニューをお腹に収めて出勤した。

 精子は20度から25度の状態が理想だという。温度が下がらないよう、容器を即座にタオルでくるんで持参した。今頃、その精液が濃縮洗浄されているのだろう。

 昨日、目元がフサちゃん先生と瓜二つの院長に、卵胞が20ミリに成長したことをエコーで確認してもらっている。まもなく排卵が起こる。感染予防のために処方された抗生剤も服用し、準備万端の来院だ。

 一時間近く待たされて診察室に呼ばれ、内診台に案内される。フサちゃん先生の「リラックスして下さい」と言う声の周波が心地よい。膣が広げられ、細いチューブのようなカテーテルが挿入される。痛みはない。エコー画面で、精子が入っていく様子を見ているうちに、あっけなく終わってしまう。年輩の看護師に、今日は入浴や激しい運動、性交を控えれば普通の生活を送ってよいと説明を受け、診察室に戻る。

 先生は濃縮洗浄後の結翔くんの精子の濃度、運動率などのデータを見せながら、それが基準を満たしていたと説明してくれる。まれに出る副作用の説明を受けた後、排卵を確認するために2日後に受診すること、生理が一週間遅れたら来院することを指示される。最後に、「明日はセックスをして大丈夫ですよ。もしも授かったら、自然妊娠かもしれません」といたずらっぽい目で言われ、気恥ずかしさとともに診察室を後にする。

 オルゴールサウンドの「いつかのメリークリスマス」に送られ、一仕事終えた解放感と共にクリニックを出る。飛んできた落ち葉に視線を上げると、久々に見た青空にしばし見とれてしまう。消え残った白い月に、精子と卵子が無事に出会ってくれることを祈る。

 

                 ★
 すずくんがランチに指定した店は、駅に近いお洒落なイタリアンレストランだった。彼から、午前の診療を終えたら合流するから先に食べていてとLINEが入り、瑠璃子と二人でミックスサラダとシーフードピザを頼んだ。

 瑠璃子は、扇形にカットされたピザを両手で持ち、「美味しい」と頬を緩める。今日はカバー力のあるファンデーションとコンシーラーを使っているのか、肌がなめらかで、いつも気になる小さなシミは影を潜めている。いつになく美しいのは、私生活で心華やぐことかあったからか、すずくんとの再会に備えているためかは読み取れない。

「フサちゃん先生とどうなってるの? もう、お返事したの?」

「まだ、同じところにいる……。葉瑠のことを考えると、絶対にイエスと答えるべきだとわかってる。それから、先日、彼がどんなクリニックを作りたいかを熱く語ってくれて、尊敬の念はどんどん強くなったけど……」

 瑠璃子は決断できない苛立ちを発散するかのように、ピザにタバスコを大量に振りかける。そういえば、彼女は中学時代から、ぎょっとするほどの辛党だった。

「先生、何を語ってくれたの?」

「クリニックの二階に託児所を作りたいんだって」

 瑠璃子はタバスコを大量にかけたピザを口に入れる。真っ赤になったピザにぎょっとし、瑠璃子が火をふかないかと心配になったが、何もなかったようにナプキンで手を拭いて話し出す。

「あのクリニックの二階、分娩室と産科の患者さんのための病室が三室あるけど、そこで出産する人はほとんどいなくて、デッドスペースになってる。そこに、胚培養室と採精室を作るのは決めているけど、一番奥の部屋を防音室にして、そこを託児所にしたいんだって。フサちゃんの不妊治療外来の日、子供の同伴は禁止でしょ?」

「言われてみれば、注意事項に書いてあったかも。当事者なのに気づかなかった」

「不妊治療中の患者さんに配慮して禁止しているんだよね。でも、それだと、二人目、三人目が欲しくて治療をしたい患者さんは、上の子を預けないと来院できないよね。不妊治療って、エコーでの卵胞の成長確認とか、排卵誘発剤の注射とかで、何度も来院しなくちゃならないから、その都度預けるのは大変。実際、上の子を預けられないから、治療に通えなかったり、途中で断念する患者さんもいることがわかってるの。彼は近所の託児所と提携することも考えたらしいけど、近くに手頃な施設がないんだよね。だから、入り口を裏にして、他の患者さんと顔を合わせないように配慮した上で、二階につくろうと考えてる。それを聞いて、本当に患者さんのことを考えている先生だと益々尊敬の念が強まったよ」

「私、第一子を授かることで頭がいっぱいで、そこまで考えたことないけど、確かに第二子を授かるために治療をする人は大変だよね。フサちゃん先生は、本当に患者思いの先生だね」

 卵胞の成長や排卵のタイミングに合わせての受診を経験してみると、子供を育てながらそれを行うお母さんの大変さが理解できる。

「彼と一緒にクリニックを経営できると思うと、わくわくするよ。でも、そうなると、ここで一生暮らすんだよね。私、この狭い地域の濃厚で静的な人間関係とか、この地域しか知らない視野の狭い人たちに辟易することがある。東京の流動的で希薄な人間関係とか、多様なバックグラウンドと、様々な考えを持つ人が交じり合ってぶつかり合って新しいものが生まれるダイナミックなところに惹かれるんだよね。私は10年いたけど、すーちゃんはもっと長くいたでしょ? 仕事とかに未練はないの?」

「全くないと言ったら嘘になるけど……。いまは結翔くんと家族をつくること、両親と祖父母に孫を見せて喜んでもらえることが一番かな」

「そう……。すーちゃん、東京で人材派遣の仕事してたとき、いきいきしてて格好良かったけどな。あの家に縛り付けられるのはもったいないよ」

「本当は仕事したいんだけどね……。いまは、授かることを第一に考えないと……」
 結翔くん、両親、祖父母、市川のおじいちゃん、お義母さん、お義父さんの顔が脳裡に浮かぶ。私に子供ができることで、彼らを喜ばせることができ、付随する様々な問題が解決するのだ。

 そのとき、これ以上の踏み込んだ会話を阻止するかのようにLINEの通知音が鳴る。
「あ、すずくんから、いまクリニック出たってLINE来たよ」

「じゃあ、もうすぐ来るね。すずが来たら、改めてオーダーすればいいから、サラダは食べちゃおう」
 瑠璃子は残ったミックスサラダをフォークとスプーンでかき集め、自分の皿に移す。
 
 瑠璃子の指はすらりと長く、しなやかな動きが目をひきつける。自分の短い指が気になり、愛用するロクシタンのハンドクリームを塗る。ハーブの香りは、気持ちを押し上げてくれる。

「遅れてごめん。岩崎久し振り、すーちゃんは一か月ぶりくらい?」

 アーガイル柄のセーターにチノパン姿で現れたすずくんは、高そうなロングコートとマフラーを若いウエイトレスに預ける。ウエイトレスが、容姿端麗な彼の全身にさっと目を走らせたのに気づく。

「すずとは、同窓会以来だから10年ぶり? 土曜も診察あるんだ」
 瑠璃子は再会の挨拶もそこそこに尋ねる。

「土曜は激混みだよ。いつも1時間半は押すよ」

 すずくんは一旦言葉を切った後、眉間にしわを寄せる。
「訪問診療してる患者さんに、危ない人がいるから、悪いけど電話きたら失礼するよ」

「お看取みとりか。了解」
 同業者の瑠璃子は。すべて飲み込んだように頷き、彼の前にメニューを広げる。
「何食べる?」

「寒かったから、まずはエスプレッソ飲みたいな。あと、ヴォンゴレビアンコ。ここのは旨いよ」
 
「オッケー。あと、ピザとサラダ追加してシェアしよう」
 瑠璃子はメニューをめくり、ウエイトレスを呼んで注文を済ませると、すずくんを見据える。

「ねえ、すず。どうして、実家の病院出ちゃったの?」

 あまりにも直接的な物言いにぎょっとして瑠璃子を見るが、すずくんから目をそらす様子はない。

 すずくんは、不織布のマスクを外し、グラスの水をこくこく飲んだ後、頬を緩めて苦笑いする。
「相変わらず岩崎は直球で来るな……」

 中学時代から変わらない鋭角的な顎に髭の剃り跡が目立ち、彼がおじさんになったことを実感させられる。あどけなかった彼が、父親世代がかけるような大き目のスクエアフレームの眼鏡が似合うようになったことに、不思議な感慨を覚える。

「すず、いきなり聞いてごめん。悪く取らないでね。うちの父が、弟のほうの若先生がいなくなったと言ってたから、何があったのかと心配してたの」
 瑠璃子が小首を傾げて彼を覗き込む。

「すずくん、冷めちゃったけどピザ食べる? この年になると、みんないろいろあるよね。私なんか、東京で10年働いてたのに、失恋して地元に舞い戻って、見合い結婚だよ。自分の子供はできないのに、甥っ子の世話を頼まれてひいひい言ってるんだから」

 彼がピザの皿を勧める私に視線を投げ、唇の端で感謝するように微笑んでくれる。その表情にどきりとし、慌てて目をそらす。

「私だって、商社でバリバリ働いてて、セレブ婚して六本木に住んでたのに、旦那に浮気されて離婚だよ。実家に帰って、看護師資格とって、子供を育ててるシングルマザーだよ」

「三十も半ばに差しかかると、人生が思い通りに進まないことを思い知らされるな……」

 彼は遠くに視線を投げ、エスプレッソを優雅に口に運ぶ。その仕草は、写真に収めたくなるほど様になっている。給食の三角牛乳をずずずとすすっていたニキビ顔が不意に浮かび、何だか可笑しくなる。彼に憧れていた中学時代、そんな何気ない仕草を目に焼き付け、胸を熱くしていたのだ。

 瑠璃子は詰め寄るように問いかける。
「結婚は? その外見でドクターなら、もてないわけないでしょう」

 彼は戸惑うように視線を伏せた後、二人の目を順に見てから、意志のこもった声で告げる。
「俺、結婚するつもりはないんだ」

 その声があまりにも重々しく、私も瑠璃子も口を開けなくなる。

 しばらくして、瑠璃子がためらいがちに尋ねる。
「どうして……? すずなら、どんな女性でも思いのままじゃない」

 私も瑠璃子とまったく同感だが、明らかに居心地の悪そうな彼を見ると、何も言えなくなる。

 すずくんは、ピザの残りを手に取り、硬い表情で口に運ぶ。私たちも気まずさをやり過ごすように、それに倣う。

 熱々のマルゲリータとボンゴレビアンコ、サラダが運ばれてきたので、私はピザカッターでマルゲリータを切り分ける。
「熱いうちに食べよ。タバスコもあるよ」

 しばらくは料理を咀嚼しながら、当たり障りのない近況報告が続く。上滑りの会話の合間に、料理の美味しさを実感できることが救いに思える。

 料理がお腹におさまった頃、すずくんが心を決めたように口を開く。
「さっきの話だけど……、俺、中学のときからゲイなんだ」

 隣のテーブルでオーダーを確認するウエイトレスの声、離れた席で子供を𠮟りつける母親の声、厨房で食器が触れ合う音。様々な音が耳を素通りしていく。

「そうだったの。今ではカミングアウトもめずらしくないけど、いろいろ大変なこともあったでしょう」
 私がショックと動揺を押し込めて絞り出した言葉に、すずくんは唇の端で小さく笑みをつくる。そこに、彼が抱えてきた葛藤と苦悩が凝縮されている気がし、胸を締めつけられる。

「女は全然だめなの?」
 瑠璃子が強張った声で尋ねる。

「中学の頃は、女の子を可愛いとか、いいなと思うことはあった。自分はバイなのかと少し安心したけど、性的な魅力は男にしか感じられなかった……。今は完全なゲイ」

「生徒会室でよく恋バナしたじゃない。テニス部のメグが可愛いとか、ブラバンの透子が色っぽいとか言ってたじゃない」

「必死にノンケのふりをしてたんだよ。あの頃は、ゲイだと言ったら、からかわれて、気味悪がられて、変人扱いだろ?」

「まあ、そうだね。女の子の憧れの的の生徒会長がゲイだとわかったら、どうなったことか……。ショック受けた女の子は数知れないよね」

 瑠璃子の言葉に頷きながら、自分もその一人であることを心の奥底にしまう。生徒会長として、壇上でスポットライトを当てられたように輝いていた彼が人知れず抱えていた苦悩を思うと胸が痛む。

「ねえ、もしかして、実家の病院を追い出されたのはそれが原因?」

 瑠璃子の問いに、彼は複雑な表情で頷く。