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通奏低音の響く街 修 6-(1)

 修は和泉いずみのやわらかい体を抱き寄せ、豊かな黒髪に顔を埋めた。ほのかなシャンプーの残り香が鼻腔をくすぐる。和泉は修の学ランの胸に両手を添え、顔を横にしてつけ、安心しきった子猫のように目を閉じた。修は狂おしいほどの愛おしさに胸を震わせた。和泉が「幸せ……」と満ち足りた声をもらす。修は抱き締める腕にそっと力を込めた。和泉は呼応するように両腕を修の背中にまわした。公園の前を行き交う車の音も、工場の騒音も、気の抜けるようなカラスの鳴き声も、喧騒の全てが二人の体をすり抜けていく。


 同級生の和泉とは、高校のボランティアサークルで知り合った。修の進んだ県下一の進学校は男子高で、文化系サークルは近くの私立女子高の同じサークルと交流していた。和泉は目が大きく、小柄で健康的な人懐っこい子だった。ぐっと背が伸び、母譲りの恵まれた容姿が際立ち始めた修は、和泉の心を一瞬で奪った。和泉は明朗快活なことを除けば、これという魅力のない平凡な子だが、「部員のなかで一番かっこいいと思いました」と交際を申し込まれた修は迷わずOKした。互いに初めての恋人で、真剣な交際を求めるニーズが合致し、瞬く間に、親密になった。初めて手をつなぎ、肩や腕を組み、キスやハグ、体を重ねる快感に溺れた。純粋すぎる二人はラブラブ状態が永遠に続くと疑わず、一月も経たないうちに結婚の約束まで交わした。


 その日は、両親の仲が悪く、一人っ子で淋しがり屋の和泉が、公園で修にこぼしていた。今朝、母親が父親の愛人のことを問い詰め、耳を塞ぎたくなる罵り合いを聞かされたという。和泉は帰る時間が迫ると、修の胸にしがみつき、「帰りたくない。修とずうっと、一生一緒にいたい。離れたくないよ……」と切なそうに訴えた。
 和泉の両親は互いに顔を合わせたくないので、夜更けまで帰らず、和泉も九時頃まで友人や従姉妹の家で時間を潰す。だが、修には七時半という門限がある。時間の流れをこれほど早く感じたことはなかった。和泉がいじらしく、堪らなく愛おしかった。彼女を苦しめる全てのものから守ってやりたいという思いが修を貫いた。感情がない、冷たいと言われてきた自分に、こんなにも人を愛する力があったことは驚きだった。
「修と結婚できたらな……」和泉は修の腕のなかで瞳を閉じ、かすれた声で言った。
 修の頭の奥が、電気で打たれたようにしんと痺れた。
 中学では、不器用で運動神経が鈍くても、成績がいいことで一目置かれていた。だが、県下の秀才が集まるC高は研究所組の巣窟で、必死で勉強しても平均点に乗せるのがやっとだった。何のとりえもない不器用なやつになり下がったことは、プライドの高い修にとって耐え難い屈辱だった。サークルに入ったのは、ボランティアに興味があったからではなく、友達ができず、ただ人恋しかったからだ。
 そこで思いがけなく恋人ができ、彼女からここまで求められたことに、溢れんばかりの歓喜が全身を貫いた。貶められた日々、報われなかった苦い記憶が、体の温もりに溶け、昇華されていく。和泉の鼓動を感じながら、生まれてきてよかった、生きていてよかったと今まで感じたことのない生への賛美が満ちてきた。
 その言葉は、驚くほど自然に出た。                「和泉は俺と結婚しゅるんだろ?」修は懸命に平静を装いながら、上ずった声で言った。                              和泉が修の胸から顔を離し、「え、それって……?」と大きな目を見開いて息を飲んだ。                                 修は真っ赤になって頷き、「責任とれるようになったら、ちゃんと申し込むから……」とぼそりと言った。二人の左手の薬指にシルバーのリングが光ったのはクリスマス・イブだった。
 修は幸福の絶頂にいた。灰色がかった世界が、鮮やかな色彩を帯びて迫ってくるようだった。コンプレックスとマイナス思考の塊だった修は、愛されたことで得た自信が頭から爪先まで満ち溢れ、人間のレベルが一段上った気がした。


 修が最後に投げたボールはレーンをそれ、横の溝を転がっていく。修はそれを無気力に見送り、深い溜息をつく。見上げたモニターのスコアは30。120の和泉とは較べものにならない。ゲーム中から気まずかった空気は呼吸をするのも重苦しいほど淀んでいた。あまりの情けなさに、修は口を聞く気力さえも絞り出せない。恋人ができ、一歩高みに登ったことで、色々なことがうまくいく錯覚に陥っていたが、運動神経の鈍さはそのままだった。
 和泉は、不機嫌な修を持て余し、ボールと靴を返そうと受付に歩き出した。修は、和泉が自分の好きなことを共有したくてボーリングに誘ってくれたのに、楽しめなかった自分に腹が立った。ボーリング場には、お年玉で懐の潤った高校生があちこちに見られる。小柄な男が細身の女の子の脇に立ち、手取り足取り投げ方を教えていた。女の子の投げたボールは、見事にストライクを出し、二人はハイタッチを交わした。修は和泉が彼らを見ないでいてくれることを願った。
「修、歩き方が曲がってるから、ガーターばっかなんだよ。助走つけないで、止まってから投げろって言ったのに」受付に向かいながら、和泉がぶつぶつ言う。止まって投げたのに、真直ぐに投げられなかった修は、憮然として歩き続けた。和泉は併設するゲームセンターに寄ろうかと足を止めて思案していたが、諦めたように、受付に向かって歩き出した。修はゲームセンターのやかましい音とちかちかした画面が我慢できず、頭痛を催してしまうのだ。
 二人は気まずさを払拭できないまま、ボーリング場の外に出た。ボーリングが終わると、カラオケボックスに流れるのが高校生の定番コースだった。だが、ボランティア部でカラオケにいき、修が気の遠くなるほど音痴だと判明して以来、避けていた。修の声は苦笑を招くほど甲高く、何を歌っても極端に音程がずれていた。部員は、初めは必死に笑いを堪えていたが、そのうち黙って聴くのも苦痛になったのか、露骨に顔をしかめたり、腹を抱えて笑うようになった。見かねた和泉が一緒に歌ってくれて、どうにか場を繕った。


「あたしの家、行こうか」和泉は修の機嫌を直そうと、ぴとりと体を寄せた。和泉の体の温もりに、ささくれだった修の心が嘘のように鎮まっていく。それを察したように、和泉が修の腰に手をまわすと、修も呼応するように和泉の肩を抱き寄せた。二人は寄り添って自転車置き場に向かう。冷たい北風が吹きつけ、和泉が黒いミニスカートの裾を押さえた。
「Oh my little girl 冷たい風が二人の躰すり抜け……」                            修が調子外れに歌いだすと、和泉が微笑んでそれを受けた。「いつまでもぉ いつまでもぉ 離れられなくさせるーよー……」                                                 二人は顔を見合わせて微笑み、うっとりと見つめ合うと、口づけを交わした。人の視線など気にならなかった。体を離した二人は、はやる思いで自転車をこぎ、和泉の家に向かう。


 並んで自転車をこぐ二人に気まずい沈黙が訪れる。二人には、愛をささやく以外、実のある会話がない。会っているときも電話で話すときも、沈黙を埋めるために、「腹減った」、「眠い」などの空虚な言葉を繰り返すのがいつの間にか習慣になっていた。修は、作文を書かせれば、豊富な語彙を駆使し、流麗な文章を生みだす。だが、瞬発力が求められる会話となると、脳内の引き出しから必要な言葉を取り出すのが遅いのか、言いたいことを口にするのに時間がかかる。とりあえず何か言わなくてはと焦るので、出てくる言葉は驚くほど稚拙だったり、的外れだったりした。おまけに忘れっぽいので、一度言ったことを何度も話題にしてしまう。そんな調子なので、友人といるときも会話が続かず、重苦しい空気を作りだしてしまう。誰とでもたちまち話が弾む和泉が、そんな自分に違和感を抱いていないかは修を常に不安にした。修は話題を探して頭を巡らせ、動物好きの和泉に「あのハスキー可愛いね」と左手の家の軒先にいるシベリアンハスキーを指さした。「それ、もう何度も聞いたよ」と和泉が白けた声で言った。むっとした修が、何か別の話題を見つける前に、和泉が「そこの家のニワトリのことも、もう何度も聞きました」と不機嫌に言い放つ。修は憮然として口を噤む。数分後、修はあまりにも気まずい沈黙を埋めようと流行歌を鼻歌で歌い始めた。最近の自分は、よく歌うようになったと思った……。


 和泉の家に着くと、二人はソファの上で、夢中で抱き合う。体の温もりは、先程の気まずさなどなかったかのように二人を結びつける。和泉は修のシャツのボタンをいじりながら「次の試験休み、ディズニーランド行こ。春菜はるな龍一りゅういちくんも一緒に」と無邪気に提案する。
「ああ、うん……」修は体を強張らせ、曖昧に頷いた。
「行きたくないの? 龍一くんと春菜にも、四人で行こうって言ってあるのに」
  和泉は修を見上げ、表情豊かな瞳に不安を宿して尋ねた。
「いや、金がないと思ってさ……」修は取り繕うように答えた。
「泊まるとことか節約すればどうにかなるよ!」
「えっ、と、泊まる? うちの親、許してくれないよ」修は頓狂な声で言った。和泉と付き合いだして以来、両親との関係が悪くなったのが悩みの種だった。家族は始めこそ、修に恋人ができたことを喜んだ。だが、和泉との付き合いで家を空けることが増え、試験の成績も下がると、両親は口を揃えて小言を言いようになった。体調の悪い祖母も、「いい子に戻っておくれよ」と涙を流して懇願する。そんな家族に、同性の友人と行くと嘘をつき、一泊旅行を申し出ることなど死ぬほど気が咎めた。
「パレードまで見たら、帰って来れないでしょ。親にはボランティアの合宿って言っとけば平気だよ。龍一くんも春菜もボランティア部でしょ」
 気が進まない修に、和泉は甘えた声で訴える。「あたし、一番好きな場所で、大好きな人と最高の思い出作りたいの。ねえ、一緒に行ってよ」和泉の瞳の不安の影がますます濃くなる。修は和泉にそんな顔をさせていることが堪らなくなり、宥めるように髪を撫で、額に優しく口づけた。三半規管の弱い修には、遊園地など拷問でしかない。無駄にびかびか電気をつけるパレードなど見るのも不快だった。ディズニーのキャラクターも好きになれず、そんな俗っぽい場所が好きだという和泉を安っぽい女だと馬鹿にする思いもあった。そもそも、自分はカラオケやボーリングなど、和泉の好きなものに付き合うが、和泉は修の敬愛するルイス・カーンや安藤忠雄の建築物の写真集を見せても興味を示さず、市内の建物について語ってもつまらなそうに聞き流す。黙って引き下がるのは、和泉のほうが高校生としては「普通」で、それを否定して愛想を尽かされたくないからだった。
  だが、それは修にとって些細な問題だった。そんなことよりも、自分が行かないことで、和泉の心が少しでも離れてしまうほうが怖かった。自分がいない場所で、和泉が他の男性と親しく言葉を交わすことなど嫉妬で耐えられそうもない。
  和泉は修の尖った顎を優しく撫でた。「私、修と、大好きな人と好きなものを楽しみたい」胸がきゅんとなった修は、「俺もだよ」と囁いて目を閉じ、顎を撫でる和泉の手に身を委ねた。先週のスケートを思うと、今度こそ和泉の思いに応えたいという思いが湧きあがった。


  先週末、ボランティア部の活動で河原のゴミ拾いをした後、龍一と春菜と四人でスケートリンクに行った。スケートは、幼稚園の頃、父が車を二時間ほど運転して連れていってくれたとき以来だった。つかまる場所のないスピードスケート用のリンクで、修は滑るどころか、転んだまま立ち上がれず、氷上に立つこともできなかった。なす術もなく、氷上に座ったままの修を父は持て余した。無骨な父は、手を引いて、足の動かし方を教えてくれるほど気が回らない。父は無気力な息子に溜息をつき、修は落ち込み、二人は帰りの車で口をきかなかった。父は母に「せっかく連れてったのに転んでばかりで全然滑らない」と愚痴をこぼした。修は平均的な運動神経に恵まれた父に、自分の気持ちなどわからないとヒステリーを起こした。
  修には、あの頃よりはうまくいくという根拠のない自信があったが、いざ靴を履いてみると、細い刃の靴でリンクまで歩いていくのも、えっちらおっちらだった。恐る恐る氷上に出ると、フェンスにつかまらなければ、とても立っていられない。和泉は転んだまま立ち上がれない修を助け起こし、自分につかまらせた。だが、すぐによろけて転んでしまう修を見て、自力で立てるよう手取り足取り教え始めた。なかなか立てない修の両手を引きながら、和泉は「左足が遊んでる」、「足の動きがばらばら」、「蹴ってないほうの足に体重かけて!」と檄を飛ばし続け、汗びっしょりになって特訓した。図体のでかい男が、声の大きい小柄な女の子に手取り足取り教えられているのが滑稽なのか、周囲の人が好奇の視線を投げる。そろそろ大丈夫かと和泉が手を離すと、たちまち転ぶ失態を何度も繰り返した。プライドの高い修は、情けなさと申し訳なさでやり切れず、一人で練習するからと和泉を解放した。
  スケートが大好きな和泉は、リンクをすーいすーいと縦横無尽に滑り、スパイラルだと両手を広げ、左足を後ろに上げて滑って見せる。一つ先輩の龍一は、長い手足を存分に生かし、美しいフォームで滑っている。春菜は初心者だったが、すぐにつかまり立ちを卒業し、龍一に手を引かれて足の動かし方を覚えると、一時間もしないうちに一緒に滑りだした。春菜が転ぶと、龍一が優しく手を差し伸べて助け起こす。笑いの絶えない龍一と春菜を見て羨ましくなったのか、和泉が修のところにやってくる。相変わらずフェンスにつかまっている修の両手を取り、「思い切って滑れば大丈夫だよ!」と勢いよく滑りだした。修はしばらく和泉に引きずられていた。だが、リンクの真ん中あたりで、和泉を巻き込んで豪快に転んでしまった。立てない修は恋人を助け起こすこともできず、恋人に支えられて立ち上がり、手を取られてフェンスに戻る始末だった。和泉は、少し滑っては修のところに来て特訓を続ける。龍一や春菜も、たまに修のところにきて、足の動かし方や体重のかけ方を親切に教えてくれる。だが、言う通りにやってもできない修に、二人は「何で、できないのかね」と困惑し、憐れみの視線を残して離れていく。
  疲労困憊した修は、フェンスにもたれ、深い溜息を吐いた。夕闇がリンクを包み、フェンスの水滴が凍結し始めている。修の手足も凍りそうに冷え、悪寒が全身を走る。顔を火照らせて滑る三人との温度差が悲しく、自分は何を無理しているのかと空虚な思いに襲われる。和泉は午後から閉園まで練習しても滑れない修に、「頑張って。それしか言えないから……」と言い残し、残り少ない時間を惜しむように滑りだした。


  「修、何考えてるの?」和泉は、泳いでいる修の視線を自分に向けようと、ソファに膝をつき、修の顔を両手で挟んだ。「本当にハンサム。こんな格好いい人と付き合えるなんて夢みたい」と濃厚な口づけを浴びせてきた。我に返った修は、もどかしいほどの愛情を口づけに託し、和泉を失神させる勢いで貪った。股間の高ぶりを感じ、和泉の白いセーターの中に手を入れ、柔らかい肌を愛撫し、やがて二つの膨らみにたどりついた。修は低いうめき声を上げながら口づけと愛撫を続けた。和泉の息も荒くなる。この柔らかく温かい体が永遠に自分のものであるという歓喜が湧きあがり、修を興奮させた。 修は和泉のセーターを荒々しくめくりあげ、柔らかい突起に顔を埋めた。和泉の「修……」という甘い声を合図に、修は愛する女を抱き上げ、彼女の部屋に運んだ。両親が留守の家は二人の楽園だった。互いが胸の底に秘める物足りなさは「ずっと一緒」という甘美な言葉と体の温もり、快感に飲まれていく。
  二人は、違和感を覚える度に、「好きだよ」、「愛してる」、「死ぬまで一緒」と甘い言葉をささやきあい、体の温もりに逃避した。体の相性は驚くほどよく、それが互いを運命の相手と思わせた。修の愛情は止まるところを知らず、甘美な時間が永遠に続くと信じて疑わなかった。ディズニーランドのスペースマウンテンで修が気分を悪くし、ベンチで寝ている羽目になった後も、和泉の愛は変わらないと信じていた。和泉が肩身の狭い思いで、龍一と春菜と行動を共にしなければならないやりきれなさに気付かなかった。