澪標 15
スクリーンの向こうのあなたは、無防備に疲れをさらしていた。目の下の隈が痛々しく、無精ひげが目立ち、身なりを整える余裕を欠いていることが伺えた。朝のミーティングでは、辛うじて身なりを整えていたことを思うと、日中にいろいろあったことが読み取れた。
「妻がますます悪くなっているんです。コロナ感染への不安だけではなく、僕が自分を捨てるんじゃないか、両親が死んでしまうのではないか、息子がコロナにかかるのではないか、さっき野菜の洗い方が不十分だったのでウイルスがついていたんじゃないかなど、不安が際限なく湧いてくるようで。見ているのが気の毒なほど、苦しんでいます……」
あなたは、無精ひげの生えた形のよいあごに手を当てた。
「奥様、オンライン診察は受けられたんですか?」
あなたは小さく頷いた。「主治医は全般性不安障害か強迫性障害だろうと。双極性障害の患者は、併発することがあるとのことです。コロナ禍で、不安が強くなる患者は増えていると言われました。処方薬が何種類か増えたのですが、副作用だけが強いらしく、まだ効いているのかわかりません」
「いま馬橋のアパートにいらっしゃるんですか?」
「ええ、いまは。でも、最近は妻が不安になるたびに電話をしてくるので、家に戻ってケアをすることが増えました。仕事中にも関わらず電話がかかってきて、宥めるのに苦労させられます。さっきも航平、息子と2人でようやく落ち着かせました。息子は小さい頃から不安定な妻を見ていたので、僕よりも扱いが上手です」
あなたは無理に口角を押し上げ、笑みをつくろうと試みた。
「メールをしていた相手とは……?」
「もう、それどころではなくなったようです。今度は、僕に離婚されるのではないかと不安になっています」
私が複雑な表情をしているのを見て、あなたは慌てて取り繕った。
「すみません。つい、あなたに甘えてしまいました……」
「いいんです。私は、そのためにいるんですから」
「あなたには苦労をかけてばかりで、すみません」
「気にしていません。早く会いたいです」
「ええ、僕も会いたいです。あなたの姿を見て、声を聞くときだけは、心が安らぎます。宮島で撮ったあなたの写真を毎晩眺めています……」
「私もです。寝る前にあなたの写真を見て、あなたが教えてくれた山崎豊子『二つの祖国』を読んでいます」
「あなたは、きっと気に入ると思いました。あなたに教えてもらった、ミシェル・ウェルベックの」
画面越しにスマホが振動する音が聞こえたのは、そのときだった。
「どうした?」
あなたは気づかわし気な声でスマホに応答しながら、目ですまないと訴えた。何かを激しくまくしたてる女性の甲高い声が、画面の向こうからかすかに聞こえてきた。
あなたの奥様の声を初めて聞き、息苦しいほど鼓動が早くなった。震える手でZoomを切断し、床にへたり込んで動揺が収まるのを待った。奥様の電話に答えるあなたの声には、私の知らない親密な響きがあった。
あなたと私は、前進したように思えても、当初からの状況は何も変わっていないと思い知らされた。コロナがもたらした波は、私たちが目を背けてきたことに正面から向き合うことを余儀なくさせた。
コロナ禍で、長岡の花火も土浦全国花火競技大会も中止になった。会社の方針で、出勤以外の県境を越える移動の自粛が決まり、宮島で着物を着て写真を撮ることも叶わなくなった。あなたとの約束が次々と流れていくのに、私はなす術がなかった。
★
がらんとしたオフィスで、一人で仕事をしていると、霧の中を漂う舟に乗っているような心細さに飲み込まれた。
「あれぇ、鈴木さん、出勤?」
スポーツメーカー製の黒いマスクをかけた竹内くんが、印刷した掲示物を小脇に抱えて入ってきた。
「うん。クライアントに資料を郵送するから出てきたの。竹内くんも?」
「大判プリンター使いにきたんだ。ご飯いかないの?」
「経理に寄った後、出ようと思ってたけど」
「ちょっと話したいことあるんだけど、お昼一緒にどう?」
「もちろん! 少し待っててくれるかな?」
気分が沈んでいるときだけに、彼の屈託のない明るさが嬉しかった。
会社を出ると、テイクアウトしたと思われる袋を下げたビジネスマンや制服姿のOLと何度もすれ違った。竹内くんは、ランチ営業をしている海鮮居酒屋を指し、どうかと尋ねた。私が、いいねと頷き、2人で暖簾をくぐった。店の前に小さなテーブルが出され、テイクアウト用のお弁当が並んでいるのが目立った。最近、あちこちで目にする光景だった。
安くて美味しいランチを提供していると評判の店で、コロナ前は店の前に列ができていたことを思い出した。だが、周辺のオフィスビルでテレワークが進んだせいか、待たずに入れた。
「俺、海鮮丼の松」竹内くんは海鮮丼3種類のみのメニューを見て即決した。少し歩いただけなのに、ノーネクタイのワイシャツの胸元が汗ばんでいて、体を鍛えている人に見られる代謝の良さを伺わせた。
「う~ん、悩む。松は魅力的だけど、高いからなあ。今日は竹にしておこうかな」
「松にしなよ。今日はご馳走するよ」
「本当!? ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えていただきます」
「そうこなくちゃ!」
竹内くんは手を上げて店員を呼び、注文を済ませると、店内を見回した。「久々に来たけど、テーブル数減らしたんだな……」
「うん。前はもっとテーブルが多くて、ランチタイムは相席も求められて、並んでいる人がいるから、食べ終わったらすぐ出なくちゃならない雰囲気だったね」
距離をとって並べられたテーブルは8割方うまっているが、並んでいる客はいないので、みなゆっくりと海鮮丼を楽しんでいた。
「追いまくられずに食べられるのは嬉しいけど、なんか淋しいな」
竹内くんはマスクを外し、喉を鳴らして水を飲んだ。
マスク生活になってからの外食は初めてで、マスクを外すタイミングに戸惑った。私は水を一口飲んで、マスクを掛け直してから尋ねた。
「話したいことって何?」
「うん。俺、すずにプロポーズして、OKもらったんだ」
「えっ? おめでとう! でも、随分急だね」私の部屋で愚痴を言っていた彼を思い出し、予想外の展開に驚かされた。
「ありがとう。コロナで在宅勤務になってから、すずのいいところに改めて気づいたんだ。それから、在宅勤務で時間に余裕ができたから、いろいろなことを話し合えるようになって、解決したことが多かった。それで、彼女を離したくないと思う気持ちが強くなったんだ」
「そうなんだ。コロナが幸せを運んできたんだね。前に飲んだときは、別れることも考えてたんだもんね」
竹内くんは運ばれてきた海鮮丼に、山葵をといた醤油をかけた。
「うん。俺が在宅勤務になってから、彼女は俺の昼食を用意してから出勤しているんだ。それに、俺は在宅勤務前は、帰って寝て出勤のような生活だったから気づかなかったけど、改めて部屋を見ると、床はゴミ一つ落ちていないほどきれいにされていて、風呂からトイレ、玄関まで掃除が行き届いていた。俺の使うシャンプー、ヘアワックス、アフターシェーブローションなんかも、切らさないように買い置きしてくれていた。あと、俺が在宅勤務になってから、彼女はZoomにきちんとした印象で映って、体を締め付けないオフィスカジュアルを何組か買ってきてくれたんだ。サイズもぴったり。彼女の帰りは20時を過ぎるし、仕事で疲れて大変だったと思うのに、ここまでしていてくれたのかと思って、惚れ直したよ。家事が得意なのは知っていたけど、本当にしっかりした女性なんだなと思った」
「在宅勤務にならなければ気づけなかったね。考え方の違いは解決したの?」
私は彼に食べながらでいいからと促し、自分もマスクを外して箸をとった。
「以前は、余裕がないこともあって、喧嘩になると面倒だから、ひっかかることも腹の中に溜めてしまってた。でも、違和感を感じたとき、自分はこう考えているから、そういう言い方をされると傷つくと伝えてみたんだ。そうしたら、彼女は、ああそうって。言ってくれないとわからないから、これからも、そういうことは言って。自分も伝えるからって。案外あっさり。記念日のことも、鈴木さんがアドバイスしてくれたように話し合って、何を祝うか決めたよ。なんか、俺が自分でいろいろなことを難しくしてたのかなって思ったよ」
「そうなんだ。本当におめでとう。コロナ禍で結婚の準備をするのは、いろいろ大変だと思うけど、2人で乗り切ってね」
「ありがとう。この状況だから、まだ福岡の彼女の実家に挨拶に行けていないんだ。式はコロナが収束するまで待って、とりあえず衣装着て前撮りだけしようかと話し合ってる」
「そっか。大変だけど、どんな式にするか考える時間ができたね。アウトドア派の竹内くんたちだから、自然を感じられる場所で式を挙げるのが似合いそう」
「よくわかってくれてるね。すずは、軽井沢あたりで、ガーデンパーティーみたいなのをやりたいと言ってるよ。いつになるかわからないけど、式挙げるときは絶対来てね」
「もちろん! 今から楽しみにしてるね。ガーデンパーティーなら、換気とか三密とか気にしなくて済みそうだね」
「うん、そうだね。何か自分のことばかり話しちゃってごめんな。鈴木さんは最近どう?」
「まあ、コロナのせいで、なかなかね……」
コロナが運んできた幸せに浸る彼に、コロナで現実と向き合うことを強いられた愚痴を聞かせるわけにもいかず、言葉を濁した。
「しんどいことがあったら、1人で抱えないで相談しろよ。何もできないかもしれないけど、話聞いたり、美味いものをご馳走するくらいはできるから」
「ありがとう。今日、竹内くんと話せて、すごい元気でたよ。今度、彩子と3人でお祝いしようよ」
「おー、すごい楽しみ。やっぱ、同期と話すのは楽しいよ。最近、ただでさえ、人と話したり、食事をしたりする機会が減ってるからマジ嬉しい」
「本当にそうだね。今日、久しぶりに対面で人と話したよ」
「俺も、すず以外ではそうだな。また、出勤が同じになったときは、飯食おうよ」
「ぜひぜひ。今度は私がお祝いにご馳走するね」
私と竹内くんは、さすがに長居しすぎたと、海鮮丼の残りをかきこんだ。松を注文しただけあって、酢飯に乗せられた鮪や甘海老、イクラ、烏賊、鮪のたたき、胡瓜と錦糸卵も、急いで食べてしまうのがもったいないほど美味しかった。