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「檜林に消える」1

 糸のような秋雨が、ようやく上がった。濃紺の空に浮かぶ朧月おぼろづきが、弱々しい光を放っている。雨で濡れたアスファルトが、街灯に照らされて光る。畑に囲まれた道は、怖いほど静まりかえり、聞こえるのは私と黒猫ネロリの足音だけだ。少し前まで交響曲を奏でていた秋の虫たちは、死に絶えたようだ。

 散歩用のひもをつけられたネロリは、道端の雑草の匂いや、電信柱にかけられたマーキング臭を嗅ぎながら、マイペースで進む。14歳という年齢もあり、食が細くなったが、毎晩の散歩は変わらず楽しんでくれる。看護師として殺伐とした日々を送る私は、この時間で、日中の心の乱れを鎮め、明日に向けて気持ちを立て直す。離婚をきっかけに、30代後半で看護師資格を取得した私は、年下で威勢の良い同僚と足並みを揃えなければならないのだ。

 見慣れた檜林ひのきばやしは、うすい月明かりの下で黒山のように盛り上がっている。誰の所有かは不明だが、私が物心ついた頃から、ずっとそこにある。子供の頃は林の中でかくれんぼや鬼ごっこに明け暮れ、高校時代には恋人と口づけを交わした。木の香りと葉ずれの音、木漏れ日が優しく、明るいときは心安らぐ場所だった。だが、蝙蝠こうもりの巣があり、夕方になると蝙蝠が周囲を飛び回った。それが気味悪く、暗くなると近づかなかった。

 雨上がりの檜林は、煙のような夜霧に包まれている。その脇に差し掛かったとき、持っていた紐がぐいと引っ張られる。体が前のめりになり、はずみで紐を離してしまう。ネロリは解き放たれたようにずんずん進み、檜林に吸い込まれるように姿が見えなくなってしまう。

「ネロリ!」
 慌てて林のなかを追いかけるが、闇に飲まれたかのように姿が見えない。月明かりの届かない暗闇で、黒猫を探すのは至難の業だ。蝙蝠の巣がもうないのは知っているが、何かが潜んでいるかもしれないと思うと、長居したい場所ではない。目を凝らし、光る二つの目を探すが、しんとした暗闇が広がるだけだ。湿気で強くなったひのきの香りが鼻腔をかする。
 そのとき、足元にネロリのひもが落ちているのに気づいた。
「え、ネロリ!?」
 ひもの先には、黒い躰が横たわっている。触れるとかすかに鼓動が感じられるが、口は半開きで、目を閉じている。尋常ならざる事態に、小さな体を抱いて走る。

 夜間診療の動物病院で、ネロリが目を開けることはなかった。あまりにも突然の衝撃が、悲しみの出口を塞ぎ、涙さえ出ない。

 翌日の夜、ネロリを飼うきっかけになった親友の「すずくん」こと、鈴木紳次しんじが来てくれる。すずくんは、持ってきた花を供え、冷たくなったネロリの身体を何度も撫でる。黒いシャツから、かすかに薬品の匂いが漂う。彼は私が勤めるS第二病院の院長で、私と同い年の45歳。自身がゲイなので、LGBTQに理解が深く、性別適合手術も手掛ける泌尿器科医だ。11年前、互いに苦しい時期に再会して以来、持ちつ持たれつの関係を続けてきた。

「すーちゃん、看取ってくれてありがとうな」

 彼の切れ長の目がかすかに潤む。年齢を重ねてまぶたがたるみ、目が小さくなったように見える。同級生に老いの印を見つけると、時間の流れを実感し、秋風が吹き抜けるような寂寥感を覚える。中学で同じクラスになり、彼も私も姓が鈴木なので、彼は「すず」、私は「すーちゃん」と呼ばれるようになったことが、時の彼方から脳裡をかすめる。

「ごめんね。私が、もっと気を付けていればよかったのに……」

「すーちゃんのせいじゃない。ネロリは5年の過酷な野良生活で、体にダメージを受けていたんだ。すーちゃんが大切に飼ってくれなければ、こんなに長生きできなかった。ネロリも俺も、すーちゃんに感謝してもしきれない」

 すずくんの思いやりに満ちた言葉に、鼻の奥がつんと痛む。彼に背を向け、檜の精油瓶をアロマディフューザーに取り付ける。

「ネロリ、檜の香りに包まれて旅立ったと思う。夜霧に包まれた檜林に吸い込まれるように……」

 ほんのりとした檜の香りにいざなわれるように、すずくんが口を開く。
「十年ほど前、俺が勤めてた間宮クリニックの駐車場で、こいつと出会った。俺が退勤して車に戻ると、こいつがナーと鳴いて、足元にまとわりついてきたんだ。そのうち、チュールを食べさせて、撫でてやるのが日課になった。そのうち情が湧いて、こいつが地域で邪魔物扱いされずに生きられるように、動物病院でワクチンと去勢手術を受けさせた」

「暴れて大変じゃなかった?」

 すずくんの眉尻が下がり、口角がきゅっと上がる。
「病院で怖い思いをさせて以来、車に乗せようとすると、全力で抵抗された。毎回、傷の一つや二つはつけられたな」

「私も同じ。病院に連れていかれると察すると、高いところに逃げられた。追い詰められて、そこの厚いカーテンに爪ひっかけて、ぶら下がってたこともあるよ。糸がほつれてるあのあたり」※1

「マジで? 俺も見たかったな」

 すずくんは、その姿を想像して笑った後、神妙な顔で私に向き直る。 
「俺が千葉の病院に移るとき、すーちゃんがこいつを引き受けてくれたから、こんなに長生きできた。本当にありがとう」

「こちらこそ、任せてくれて、ありがとう。離婚してどん底だったときも、看護学校で一回り以上も年下の子たちと一緒でしんどいときも、仕事がきついときも、ネロリと一緒だから乗り越えられた」

「あれから、互いにいろいろあったな……」
 すずくんはスクエアフレームの眼鏡の奥で目を細める。

 彼の横顔に視線を止める。端正な顔立ちは健在だが、全体的にふっくらとし、目元や口元にたるみが目立ってきた。刻まれた老いは、だらしなく見えず、人を率いる貫禄になった。かつて憧れていた相手が、良い老い方をしているのは素直に嬉しい。彼には、恥ずかしいところを散々見せてしまったので、もはや異性として意識していないが、その人柄に対する尊敬の念は深まっていく。恋愛感情に変わってもおかしくないが、それだけは避けたい。そうなったら、今の心地よい関係は終わってしまうだろう。

「すずくんは、千葉の病院で性別適合手術の研鑽を積んだ。確執があったお父さんとも和解して、昨年からS第二病院の院長を任されたね」

「和解というよりは、老いた親父が気弱になって、第二病院を継いでくれとすり寄ってきただけだろうな。親父と話し合うために帰ってくるたびに、ここに泊めてもらって、愚痴聞いてもらったな。助かったよ」

「私も離婚のときは散々お世話になったし、気にしないで。ネロリも、またすずくんと過ごせて嬉しかったと思う。院長業務、慣れてきた?」

 すずくんは、ふっと頬を緩め、小さく息をつく。
「今まで医者だけやってればよかったけど、経営や人事までふりかかってきて日々勉強。すーちゃんにも、うちに移ってきてもらって、苦労させてるな……」

「前の病院より給料上がったし、外来だから夜勤もない。声かけてもらって良かったよ。外来の師長は曲者だけどね」

「そう言ってもらえると救われるけど……、富永とみなが師長のことでは苦労かけてすまない。本院の事務長の姉だから、簡単に切れないんだ。本院で散々トラブル起こして、こっちに回されてきた。あと一年で定年だから、何とか辛抱してくれないか……」

 師長の横暴に耐えられるよう、外来ナースには若くて気が強い子が集められている。私は、院長の縁故で入ったので、最初から師長の風当たりが強かった。他のナースにも師長の息がかかり、四面楚歌状態の私はかなり堪えている。だが、院長業務で神経をすり減らしている彼を瑣末なことで悩ませるわけにはいかない。

「私、図太いから大丈夫。すずくんには借りがあるし、気に病まないで」

 私とすずくんは、ネロリと最後のお別れをする。箱に収めたネロリの周囲を花で飾り、好きだったおもちゃとチュールを入れる。お線香の代わりに、檜の香りが優しく寄り添ってくれる。

「すずくん、今夜は来てくれてありがとう。ネロリも喜んでると思う」

 すずくんは、小さく頷いた後、私の瞳の奥をのぞき込む。
「すーちゃん、ちゃんとネロリのために泣けた?」

「え?」
 私は反射的に小首を傾げ、口角を引き上げる。

 彼は端正な造りの顔をしかめ、溜息をつく。
「変わってないな、そういうとこ。泣きたいときは、ちゃんと泣け」

「だって、涙出ないんだよ! 感情が喉につかえたみたいに苦しくて……」

 腕をつかまれて、ぐっと引き寄せられ、すずくんの黒いシャツに視界を塞がれる。彼の胸は温かいが、ドラマのワンシーンのように号泣できない。薬品の匂いが残るシャツに、顔を横にしてつけ、細い背中に腕を回してみる。彼も抱きしめる腕の力を強めてくれるが、伝わってくる思いはどこまでも友情だ。それが悲しくて、目の裏にうっすらと涙が溜ってくる。私は、女として愛してくれる男性に、抱きしめられることに飢えている。そんな温かさからは、もう長いこと無縁だ。

               ★
 灰色の雲が垂れ込め、弱々しい晩秋の陽を閉じ込めている。気圧の変化に敏感な身体が反応し、今夜は降ると思った。雨の夜にネロリがいなくなってから、2週間が経つ。相棒を失くしたショックで食欲が落ちた。喉を通るのは、野菜ジュースとゼリー飲料、ヨーグルトくらいだ。

 ゼリー飲料だけの昼食を済ませ、休憩室を出ようとすると、20代後半のナースが険のある視線を向けてくる。 
「まだ、15分前じゃないですか。鈴木さんが早く出てくと、私たちが、さぼってるように見えるんです」

「すみません」

 悪いことをしたとは思わないが、事を荒立てたくないので、反射的に謝ってしまう。彼女は若くてもナースとしてのキャリアは8年で、外来でのキャリアも長い。私は年増でも6年目で、この病院に来てから半年も経っていない。外来には暗黙のルールが多く、先輩にヘソを曲げられたら教えてもらえなくなる。

 言った彼女も、重くなった空気を持て余しているらしく、不貞腐れたようにスマホをいじり始める。

「私、お茶飲んでから行きますね」
 努めて明るい声で言い、休憩室を出ると、首と肩が石のように固くなっていることに気付く。

 首をほぐしながら廊下を歩いていると、外来の富永師長が、鷹のように周囲を睥睨しながら歩いてくる。

「お疲れ様です」
 会釈してすれ違おうとすると、師長が立ちはだかる。

「鈴木さん、午前中、整形の狩野先生についたのあなたよね。放射線部の吉江技師長が、ナースがMRI室に患者を連れてこないと苦情言ってきたわよ」

「え、MRI予約の患者さんは、技師さんが待合室に呼びにくるんじゃないですか?」

 師長はぎろりと私をにらみ、口紅のはみ出た分厚い唇を開く。
「技師長が撮る患者さんは、外来ナースが連れていくことになってるのよ。狩野先生が技師長を指名した患者さんは、チェックしておくのが当然でしょう。文句言われる身にもなってよ」

「申し訳ございません」
 外来は不文律が多すぎる。明文化して共有しないと、いつか大きなミスが起き、患者さんを危険に陥れてしまうのではと恐ろしくなる。

「同じミスが起きないように、休憩室に貼りだして共有します」
 師長のヒラメ目を見据え、少々の嫌味を込めて言う。

「あなた以外は、みんな知ってるから、必要ありません!」
 師長は履き古したナースサンダルをきゅっと鳴らして去っていく。

 大きな溜息をつくと、師長が見とがめるように振り返る。
「鈴木さん、午後は処置室に入って。萩原さんが、子供の具合が悪くなって早退したから」

「かしこまりました……」
 外来処置室は戦場のように忙しく、診察に付くより神経を使う。だが、嫌なことを忘れるためには、集中して動き回っているほうが効果的だ。

 他の処置室担当ナースとともに、オーダー表と点滴の薬剤を照合していると、入り口に立った精神科の若葉先生に呼ばれる。

「鈴木さん、ちょっといい」

「はい」

「出入りの業者さんが倒れちゃったんだ。貧血だから、ひとまず診察室のベッドに寝かせたけど、外来始まっちゃうだろ。処置室に寝かせてもらえないかな?」

「わかりました。主任に許可を取ります」

「じゃあ、僕が主任に許可取っとくから、ストレッチャー用意して迎えに行ってくれる? 点滴のオーダー出しといたから宜しく!」
 先生は、奥で薬剤を確認している主任のほうに速足で行ってしまう。

 ストレチャーを押しながら、オーダー表の名前に目を走らせる。

「え!?」
 声が出そうになり、思わず口元を押さえる。

葉山圭介はやまけいすけ 男性  1977年1月13日生 56歳

 知人と同姓同名で、年齢も適合している! 急ぎストレッチャーを押し、精神科の診察室に向かう。カーテンの隙間から、診察ベッドに横たわる男性の顔を確認する。

 つり上がった目に細い眼鏡、尖った顎……。ひどく痩せ、顔色が悪いが、間違いなくあの人だ。彼とは12年前に婚活アプリで出会い、すぐに意気投合した。だが、私が子供を望み、彼が望まなかったことで悲しい別れになった。その後、私は結婚したが、子供ができないことが原因で離婚し、なぜあのとき圭介さんを選ばなかったのかと深く悔いた。

 とはいえ、午後の外来が始まろうとしているときに、旧交を温めている場合ではない。

「葉山さん」

 呼びかけられた彼は、弾かれたように目を開く。

「処置室で点滴をしますね。こちらのストレッチャーに横になれますか?」

「大丈夫です。歩いて行けます」

「転倒したら危ないです。遠慮しないで、乗ってください。こちら側を頭でお願いします」

 起き上がり、ネクタイを緩めてストレッチャーに横たわった彼は、高そうな紺スーツを身に着けている。増毛と白髪染めを施した髪は整髪料で固められ、眉は形よく整えられている。さすがに容貌は衰えたが、清潔感を意識しているのは昔のままだ。

 固定ベルトをかけ、脱衣かごに入っている彼のカバンとコートをアンダーバスケットに乗せ、ストッパーを外す。彼の視野が進行方向に向くように押し、処置室に向かう。

 一番奥のベッドに横になってもらい、オーダーされた薬剤を取りに行く。若いナースと一緒に、オーダー表と薬剤をダブルチェックする。最初は私がオーダー表を読み上げ、彼女が実際の薬剤を確認する。二度目は役割を交換して確認し、間違いを防ぐ。

「葉山さん、右腕をまくってください。アルコール消毒は大丈夫ですか?」

「大丈夫です。宜しくお願いします」

 静脈注射は一日に何本も打っているが、知人に打つとなると、普段以上に気が引き締まる。
 手袋をはめ、彼の細い腕を駆血帯で締め、親指を中にして手を握ってもらう。浮き上がってくる静脈から、針を刺しやすい静脈を見つけ、周囲をアルコール消毒する。静脈の流れに沿って皮膚を軽く引っ張り、15から20度の角度で翼状針を刺す。私には最も緊張する瞬間だ。血液の逆流を確認したら、翼状針を進める。針を押さえながら駆血帯を緩め、点滴のクランプを開く。刺入部の腫れや発赤がないか確認し、フィルムドレッシングで翼状針を固定する。針が抜けないよう輸液ルートでループを作り、テープで固定すると、ようやく肩の力が抜ける。

「痛くないですか?」

「大丈夫です」

 腕時計を見ながら滴下速度を調整し、彼の枕元にブザーを置く。
「点滴が終わったら、このブザーを押して、知らせてください。気分が悪くなったときも、これで教えてください」

 ベッドを離れようとすると、ためらいのにじむ声で呼び止められる。
鈴木澪すずきみおさん?」
 彼は私のネームプレートに視線を固定する。

「はい」

「私、葉山圭介と申します。覚えていますか?」

 彼が気づいてくれたことで、全身の細胞がさざめくような歓喜が湧き上がるが、さらりと流すように答える。
「もちろんです。不思議な御縁ですね。では、終わったら教えてください」

 本当は話をしたいが、戦場のように忙しい処置室で油を売っている暇などない。圭介さんの点滴抜去も、タイミング良く私が行けるとは限らない。後ろ髪を引かれる思いで、戦場に出ていく。オーダーに従い、採血、静脈注射に筋肉注射、輸血、検査前の処置を次々とこなす。

                ★
 圭介さんの点滴抜去には行けなかった。気づいたときには、彼のいたベッドで他の患者さんが点滴を受けていた。彼の点滴を抜いたナースに、私宛の伝言を残していないだろうか。処置室にいた6人のナースに聞いて回ろうかと思ったが、受け取っていたら伝えてくれるはずだ。誰も何も言ってこないことが答えだ。秋風が吹くような虚しさを胸に、処置室の片付けに集中する。

 シフトを終え、人がまばらな外来待合室を通り抜ける。ガラス窓についた水滴を見て、やはり降り出したかと憂鬱が増す。エレベーターに向かおうとしたとき、自分の目を疑った。

 エレベーター前のソファに、スーツ姿の中年男性が座っている。私の視線に気づいた彼は、さっと立ち上がる。

「圭介さん……」

 彼は痩せこけた頬を緩め、安堵したように微笑む。
「会えてよかったです」

 ソファに並んで座ると、彼が早口でまくしたてる。
「どうしても御礼を言いたくて、待っていたんです。今日は、本当にありがとうございました。せっかく会えたのに、迷惑を掛けしてしまって、お恥ずかしい……」

 彼が4時間近く待っていてくれたことを思うと、身体の芯がじんわりと温かくなる。神経発達症(発達障害)を抱え、不器用なところのある彼とは、肩肘張らず、素の自分で向き合えていたことを思い出す。

「仕事ですから、気になさらないで下さい。長い間、待っていてくださったのですね。体調はいかがですか?」

「休ませてもらって、すっかり回復しました」

 確かに、彼の顔色はいくらか良くなっている。だが、病的に痩せ、やつれていることが気になってしまう。
「良かったです。お忙しいとは思いますが、お身体は大切にしてください」

「そうします」

「これから、つくばにお帰りになるのですか?」

「ええ」

「降っていますし、小山駅まで車でお送りしましょうか?」

「いいんですか?」

「もちろんです」

「では、お言葉に甘えて」

「濡れないように、正面入口に車をつけます」

              
 風にあおられた雨粒がフロントガラスで弾ける。前の車のテールランプが、雨粒を宝石のように輝かせる。紺スーツ姿の圭介さんは、180センチを超える長身を軽自動車の助手席に沈めている。私は深緑色のパーカーに、デニム地のロングスカートという普段着なのが悔やまれる。

「澪さん、看護師になっていたのですね。驚きました」

「ええ。離婚したので、一人で生きていけそうな資格を取りました。圭介さんは、精神科の若葉先生のところに?」

 彼は頷く。
「スタークエストを世に出して、15年が経ちました。それを使って学んだ子供たちが、成長してどんな課題を抱えているかを調査しています。若葉先生のところにも、対象の患者さんがいるので、協力していただいています」

「そこまで考えていらっしゃるのですね……。素晴らしいです。
 スタークエストは、圭介さんが開発した神経発達症の子供のための学習支援アプリでしたね。それが会社の主力商品になって、当時の社長が圭介さんを社長に据えた。自身も神経発達症で、苦労した経験を生かして成功したベンチャー社長というイメージを押し出したのですよね。圭介さんには、スタイリストとスピーチコンサルタントがついて、清潔感のある容姿と切れのあるトークでメディアの取材を受け、広告塔としての役割を果たしていらっしゃいました」

 もともと長身痩躯で、メディア映えする容姿だった彼は、その役柄を見事に演じていた。当時はコロナ禍で、自宅学習が増えたことも手伝い、スタークエストの売り上げは爆発的に伸びていた。

「お恥ずかしい……。まあ、それしか存在価値がないので、突き進むしかなかったです」

「ここ数年は、病院と家を往復する日々で、テレビや雑誌を見る余裕がありませんでした。今でもメディアに?」

「いえ、最近はメディア出演を控え、追跡調査に取り組んでいます。スタークエストで学校の勉強を乗り切れたとしても、神経発達症の本当の試練はマルチタスクが求められる社会人になってからです。上司、同僚、部下、取引先などの多様な人間関係とそれに合わせた適切な言葉遣い、自分で優先順位をつけて臨機応変に対応しなくてはいけない業務……。今まで、勉強だけしていればよかった彼らは、それに適応できずに心身を病み、休職や退職を余儀なくされることがあります。私自身がそうでしたが、調査を進めるほど、似た傾向が見えてきます。
 私の残りの人生は、高等教育機関の就職部、職場、NPO、精神科医が連携し、彼らが職を得て、継続的に収入を得られる支援システムの構築に捧げます。働けなくなったときも、事務手続きが苦手な彼らが福祉の支援を受ける方法を教えたり、子育てに必要な支援を受けられる体制を整えています。スタークエストの売り上げの一部をもとに基金を立ち上げ、それに充てています」

「ご自身の開発した商品を売って終わりではなく、利用者のその後についても、責任を持つのですね。本当に尊敬します」

 彼は口元だけで小さく笑う。
「実は、そうすると決めたのは、あなたがきっかけです」

「え?」

「覚えているかわかりませんが、最後にZOOMで話したとき、あなたは言いました。神経発達症を持つ方が、不安にならずに親になる選択ができる日が来ればいいと。
 それを受けて私は、これからスタークエストに出会う子供たちの父親になる気持ちで仕事に取り組むと答えました。父親は、子供が自立するまで支援すべきだと思い、私に何ができるか考えました。
 彼らが結婚し、障害が遺伝するかもしれない子供を育てるには、安定した収入と支援が必要です。だからこそ、それを得られるようサポートする基金が必要だと思ったのです」

「そんな……。でも、すごく嬉しいです」
 
 いつの間にか、雨は止んでいた。この道を直進すると、小山駅に着いてしまう。彼を見送ってしまったら、二度と会えないかもしれない。何とかして、また会う約束を取り付けられないかと頭を回転させ始めたとき、彼が口を開く。

「澪さん、雨が上がったようなので、案内してほしい場所があります」

「え、どこですか?」

「澪さんは子供の頃、近所にあった檜林で、かくれんぼをしたり、彼氏と密会したと言っていましたね。そんな場所で、若葉の香りや木漏れ日など、自然の変化を感じながら育ったので、木の傍にいると安らぐと。その檜林が残っているなら、行ってみたい。私も木が好きですから」

「もちろん、そんな場所で良ければ」

 檜林の前で車を降りると、圭介さんは檜の匂いを胸一杯吸い込むように深呼吸する。
「檜の匂いがしますね。雨上がりで匂いが強くなっているようだ」

 あの日と同じように、檜林は夜霧に包まれている。圭介さんは、雨露で足が濡れるのも気にせず、檜林に向かって大股で歩いていく。彼のスーツの背中がネロリと同じように消えてしまう気がし、背筋に悪寒が走る。走り寄り、彼の腕を強くつかんだ。

 彼は私を振り返り、いぶかし気に首を傾げる。

「ごめんなさいっ。圭介さんが、檜林に消えてしまいそうで怖くなって……」

 彼が眼鏡の奥の目を細め、月光のように優しい眼差しを私に注ぐ。骨ばった指が私の頬に触れ、私はその手に自分の手を重ねる。彼の腕が私の背中にまわり、濃紺のスーツの胸が視界を奪う。抱きしめてくれる腕は力強く、温かい。鼻の奥がつんと痛み、喉元に熱いものが込み上げてくる。ネロリが死んだこと、師長と同僚ナースの敵対的な態度、離婚して一人で生きてきた年月で降り積もった孤独、出口を失っていた数多あまたの痛みが溶けていき、目頭からあふれ出す。

 私の嗚咽に驚いた彼が、体を離して尋ねる。
「すみません、嫌でしたか?」

「違うんです!」
 ポケットからタオルハンカチを取り出し、目元と鼻の下を拭う。
「9年間一緒に過ごした猫が死んで、職場で辛い日々が続いて、一人で生きてきた孤独が溜まっていて、心が悲鳴を上げていたんです。だから、圭介さんの胸がとても温かくて、優しくて、安心してっ……。あなたと別れたこと、ずっと後悔していました。私、結婚してから子供ができない体だとわかって、それが離婚の原因になりました。こんなことになるなら、どうしてあのとき、一緒にいると自然体でいられて、深く尊敬できるあなたを選ばなかったのかと……」

 彼の立場を考えず、こんなことをまくしたてたら困惑させるだけだとわかっていた。だが、いま伝えないと一生後悔する気がして、憑かれたように話し続けた。

 彼が私の両肩に手を乗せ、唇で私の口を塞ぐ。唇を離した彼は、恥じらいを浮かべた目で私を見つめる。
「あなたが看護師になって、あの病院で働いていると知っていました。だから、一目でも姿を見たかった。私はストーカーですね。まさか、ぶっ倒れて、お世話になるとは思いませんでした」

 次の瞬間、私は彼の胸にもたれ、子供のように泣いていた。彼は私の髪に顔を埋め、「もう離しません」とささやく。涙が止まらなくなった。嬉しくてこんなに泣いたのは、生まれて初めてかもしれない。

 檜の精油が香る部屋で、彼は霧が流れるように私を抱いた。しっかりつかまえていなければ、消え去ってしまいそうで、何度も細い背中を抱き締めた。

 明け方、彼がネロリに先導され、檜林に消えてゆく夢を見た。「行かないで!」と叫んで目覚めると、隣で眠っていた彼は消えていた。部屋中を探しても、連絡先を書いたメモの一つも見つからない。檜の精油の残り香が、かすかに鼻をつく。


扉絵は、さくらゆきさんが描いて下さいました。心より御礼申し上げます。


※1 ネロリの描写では、さくらゆきさんの2つの作品を参考にさせていただきました。厚く御礼申し上げます。