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通奏低音の響く街 風子 11-(1)

  サンディエゴの朝のからっとした冷気が頬をかすめ、覚醒し切れていない頭に渇を入れる。日本を飛び出した風子が、カリフォルニア大学サンディエゴ校のエクステンション・スクールで語学研修を始めてから3カ月経つ。まずは、英語を実用レベルに高め、アメリカで働けるコースを修了し、それから自分にあった仕事、できれば自分しかできない特別な仕事を見つけたかった。


 風子はアメリカで就職したいので、1年間の語学研修の学費と生活費を出してくれと家族に頭を下げた。両親と祖父は「なぜ、わざわざ難しい道を選ぶ? どうして日本で働かない? 結局は、働きたくないんだろ?」と口々に責め立てた。風子は、わかっていないと癇癪を起しそうになるのを必死で耐えた。自分は日本で「働かない」のではなく「働けない」のだ。どこで働いてもクビにされることを年老いた祖父と両親に知られ、心配させたくなかった。


 家族を拝み倒して費用を工面してもらった風子は、何としても成功しなければという悲壮な覚悟を胸に、アメリカに乗り込んだ。渡米したての頃は、道行く人の体格、肌や髪の色、半分も理解できない会話、日本とは違う救急車や信号の音、食物の味や匂いなど、五感から侵入する異国に心と体が反乱を起こした。だが、生活パターンが定まると、身体が徐々にそれを受容し始め、ずっとここにいてもいい気がしてきた。


 風子は天に向けて伸びる椰子の木の下で、5分程バスを待つ。夏だというのに朝は冷え、バスを待つ学生は大学のロゴの入ったトレーナーや薄手のパーカーを着ている。毎朝、バスは学生でぎゅうぎゅう詰めだった。風子は15分ほどそれに耐え、弾き出されるようにバスを降りる。アメリカのバスのステップは日本より高く、降車するときは地面との距離を考えて一歩を踏み出さなくてはならない。風子は渡米から間もない頃、この距離感を誤り、2度も転んで膝を強打した。バスを下りた風子は、キャンパスの一番西にあるプレハブの建物群に向かう。
 風子は毎朝、セントラルパティオの売店で珈琲を買い、ミルクを多めに注ぐと、そこで会うすべての人々に、日本語なまりが強い英語で「グッ・モーニーン!」と声をかける。風子の溌剌とした生気は、珈琲から立ち昇るか細い湯気を吹き飛ばしてしまいそうだった。風子に肩を叩かれた友人は、思わず紙カップの上を掌で覆った。
「週末、トロリーに揺られてオールドタウンからサン・イシドロまで行ったよ。知ってるでしょ、メキシコとの国境に一番近い駅」風子は日本語でまくし立てた。「メキシコまで行くつもりだったけど、南下するにつれて車窓から見える家や街並が貧しそうになってくのを見てたら、悲しくなって、そのままオールドタウンに戻っちゃった。国境近くはメキシコ人が多いね。『エル・ノルテ』っていう映画あるじゃない。グアテマラ人の兄妹がアメリカに密入国して、頑張って働いてるんだけど、妹がネズミに噛まれたことが原因で死んじゃう話。あれを思い出して、やりきれなくなっちゃった」
 言いたいことをまくしたてて満足した風子は、教室にのしのしと入っていき、「グッモーニーン! ハワユー!」と元気よく級友に声をかけていく。授業が始まると、風子は底抜けに明るい女性講師の指示に従ってペアワークやグループワークをこなし、練習問題を解く。アメリカでは積極的に発言することを求められる。多くの日本人学生がそれに戸惑うなか、風子は語彙の限られた日本語なまりのきつい英語で発言し続けた。風子の日本人らしからぬ積極性と、一歩教室に入ったら決して日本語を使わない徹底ぶりは周囲から好意的に受け入れられていた。
 だが、英語力が上がった手ごたえを得られないまま、日々の課題をこなしているうちに3カ月が過ぎていった。それ以上に、風子を落ち着かなくさせるのは、自分しかできないことが見つけられないことで、体の中から突き上げてくる焦燥感だった。


 忙しない1日が終わり、バスから降りた風子は、カリフォルニアで時々見られる淡いピンクの夕焼けに見とれ、思わず足を止めた。通りの向こうの大きな教会から、ピアノが聞こえてきたのはそのときだった。久しくゆっくり音楽を聴く余裕など持てなかった。風子はいざなわれるように通りを渡り、教会の扉に耳をつけた。泣きそうになるほど切なく美しいのに、ずっと探していた光を見つけたような希望も感じさせる。1つ1つの音が明確な意思を持って奏でられ、無駄な音など一音もない。演奏者が描く優しく温かい世界が一音一音から浮かび上がる。ピアノを習っていた風子は、かなり弾きこんで曲を知りつくし、自分のものにしていなければできない演奏だと思った。


 いざなわれるように教会に入った風子は、はっと息を飲み、その場に立ち尽くした。赤ちゃんを抱く聖母マリアが描かれたステンドグラスから夕陽が差し込み、ピアノを奏でる男性を祝福するかのように降り注いている。信仰の「し」の字も知らない風子も、今この瞬間だけは神を感じないわけにはいかなかった。風子は目を閉じて音に身を委ねた。異国で将来の不安と焦りを抱えながら、孤軍奮闘してきた日々が、優しい音に溶けていく。今まで経験したことのない不思議な癒しに、鼻の奥がつんとし、瞼の裏が熱くなってきた。
 突然演奏が止まり、現実に引き戻された風子は、夢から覚めたように眼を開けた。白いシャツに黒いスラックス姿の男性が、グランドピアノの前に座り、自分を見つめていた。慌てて目頭の涙を拭い、目を瞬(しばたた)かせる風子に、男性は「ハイ」と憂いを含んだ声をかけた。彼は「ワーオ、とってもホットだわ!」と叫びたくなるほどハンサムだった。だが、目元に哀愁が漂い、はかなげで、抱きしめたくなるような母性本能を呼び覚ます。彼も全身からエネルギーを放つ風子を眩しげに見つめ、二人は時が止まったように見つめ合った。
 我に返り、火照った頬に両手をあてた風子は、はずみで持っていたリュックをどさりと床に落としてしまった。「ご、ごめんなさい、勝手に入っちゃって。ソーリーフォー、インタラプティングユー」
 男性は風子のいる扉のそばまで、長い脚でゆったりと歩いてきて、リュックを拾ってくれた。風子にリュックを渡すと、「日本人ですか?」と歌うような声で尋ねた。
「え、日本語……?」男性の瞳の色こそ黒だが、彫りの深い美しい顔立ちと白すぎる肌は、白人の血を思わせた。
「僕は日本人とアイルランド系アメリカ人のハーフ。12歳まで日本で育ったから、日本語はセミネイティブ。去年まで、日本で3年間英語を教えてた」
「アイシー。アイム、フウコ……」
 男性は親指を立てて自分を指し、「Kenzieケンズィー」と自己紹介した。「ケンジ?」と尋ねる桐子に、男性は「No、No、Kenzie マッケンジーのニックネーム」と歌うような声で言い直した。「ケンジィー?」と日本語なまりで言い直した風子に、彼は「まあいい、日本ではケンジ先生だったから。日本語で話して」と、とびっきりの笑みを見せた。
 そのセクシーな笑みを見た瞬間、風子は着古したグレイのTシャツに白いクロップト丈のパンツという実用一辺倒の服装をしていることを猛烈に後悔した。そのことを一時忘れようと、風子は「さっき弾いていた曲、何ていう曲ですか?」と尋ねた。
「日本語では『孤独の中の神の祝福』。気にいった? 僕の一番好きな曲だ」
 風子は激しく頷き、「祝福」と思わず呟いた。「ステンドグラスから光が降り注いでいて、それを浴びてピアノを弾いているあなたはマリア様から祝福されてるみたいでした。神様って本当にいるって思いました。弾いてた曲も祝福なんて、はまりすぎて怖いくらい。ピアノがきれいで優しくて、涙出ちゃいました。ピアノを聴いて、泣いたのは初めてで、びっくりです」風子は言葉が溢れるままに日本語でまくしたてた。                                           「君も神を感じてたの?」ケンズィーは熱を帯びた瞳で風子を見た。風子は真っ赤になって俯いた。ケンズィーは風子の顔を覗き込み、長い指で顎を優しく掬いあげると「飛び込んできた君こそが神の祝福だ」と甘い声でささやいた。                                                                                                                   恋愛経験ゼロの風子の全身はかっと熱を帯び、血液が怒涛のように全身を駆け巡った。彼の白いシャツが視界の中で揺れていた。雲に包まれたように意識がふわふわし、思わず彼の腕にすがりついた。リュックは腕を滑り落ちていった。

 同じ瞬間に神を感じた2人は、磁石のように惹かれあった。彼は教会専属のピアニストとして讃美歌の伴奏と聖歌隊の指導をするほかに、州内のオーケストラを渡り歩き、ピアノやチェレスタ、チェンバロの出番のある曲で演奏している。通訳ガイドの仕事もしていて、それが収入のかなりの部分を占めているらしい。


 風子は学校が終わると教会に直行し、彼が聖歌隊を指導するのを後ろで聴く。彼はいつも気難しげに眉間に皺を寄せていた。求める歌声が得られないと、青筋を立て、手がつけられないほど怒鳴る。その怒りは、聖歌隊に向けられているというより、何か別のものに向けられている気もした。彼の癇癪のせいで、どうしようもないほど聖歌隊と険悪になることもある。だが、彼がOKを出したときは、一人一人が確かに変化を実感できるほどレベルアップしていて、聴いている風子まで誇らしくなる。


 練習が終わると、彼は風子のためにピアノを弾いてくれる。サティの「おまえが欲しい」、天上の音楽と言われるベートーヴェン第九の第3楽章、リストの「愛の夢」、ショパンのノクターン20番遺作。彼が選ぶ曲は、どれも涙するほど美しい。青くさいと毛嫌いしていた「愛の夢」も、こんなにも美しい曲だったかと改めて思うほど、魅惑的な演奏だった。それが愛する人によって自分のために奏でられている奇跡に、風子は神の祝福を感じないわけにいかなかった。そんな気持ちが溢れると、風子は「孤独のなかの神の祝福」を弾いてとねだる。15分以上の長い演奏時間のあいだ、風子は鍵盤を走る彼の長い指や恍惚とした表情に見とれた。


 ケンズィーは、風子をピアノの椅子に座らせて肩を抱き、自分も隣に座って語りかけた。「この曲はリストが終生の伴侶、カロリーネ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人に捧げた『詩的で宗教的な調べ』というピアノ曲集の第三曲だ。学生のときに初めて聴いてから、いつか誰かに捧げようと練習してきた……」彼は風子を愛情に溢れた瞳で見詰め、「君は孤独な僕に神が与えた祝福だ。君の放つカリフォルニアの太陽のようなエネルギーが、僕を優しい男にしてくれる。君といるときの自分が好きだ……」と憂いを含んだ声でささやいた。
 風子は自分がそんな存在に祀り上げられたことに戸惑った。彼は食べるのもやっとの貧乏ピアニストだ。だが、エキゾチックな顔立ちと色気は何も言わなくても女性を惹きつける。風子といるときも顔見知りの女性にしょっちゅう声を掛けられる。嫉妬を剥き出しにし、不機嫌になる風子に、彼は「風子以外は興味ない」と甘く囁く。どんな女性でも思いのままの彼が、なぜ自分に魅力を感じるのか不思議だった。


 風子は、彼にありのままの自分を知られないよう、精一杯背伸びをした。落ち着きがなく、忘れ物ばかりしていて、感情的になりやすいことを悟られないように、普段から言動に細心の注意を払った。どんなに疲れていても、部屋の片づけには手を抜かなかった。数々の失敗から少しずつ学習していた風子は、うまくやれると信じていた。


 そんな風子といるときの彼は、神経質そうな目元が緩み、聖歌隊を教えているときとは別人のように優しくなる。彼がくれるキスやハグに愛情の感じられないものは一つもない。風子が処女を捧げたときは、女神のように崇め、敬意を持って愛してくれた。性欲のままに襲いかかることもなく、風子を気持ちよくすることで愛情を伝え続けてくれる。風子は自分がそんな彼を呼び起こせることに、少しずつ自信を深めた。彼といるときの少し大人びた自分が好きだった。