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ピアノを拭く人 第2章 (7)

 エアコンが温風を送り出す音と、冷蔵庫の低くうなる音が、夜の静寂しじまに溶けていく。
 彩子はソファに横になり、時間を忘れて本のページを繰っていた。ユヴァル・ノア・ハラリのパンデミックに対する提言をまとめた新刊は、あらゆる方面から知的好奇心を刺激する。同時に、自分の携わっている仕事への長期的影響についても深い思索を促す。
 彩子は、それを仕事仲間だけではなく、透とも共有し、議論したいと思った。強迫症に苦しんでいる透に、それを求める時期ではないとわかっている。だが、自分は透とそうしたことまで分かち合いたいほど、彼を求めていると気づく機会になった。

 LINEの通知音が鳴り、スマホに手を伸ばすと、フェルセンにあるピアノをアイコンにした透からのメッセージが入っていた。添付ファイルを送りたいので、PCメールのアドレスを教えてほしいという。はやる思いでアドレスを送り、ノートパソコンを立ち上げた。メールボックスを開くと、彼のメールが絶妙のタイミングで飛び込んできた。


To    Saiko MIZUSAWA
From   Toru Yoshii
Title   最初の日  

 
彩子へ
 しばらく会えないけれど、俺がどんな治療を受け、何を感じているかを知ってほしいから、たまにメールを送るよ。
 入院とは言っても、日中は外に出られる動きやすい服装で過ごしているので、パジャマは夜しか着ない。同室は、一緒に強迫を治療している日系ブラジル人のカルロスさん(仮名)と会社員のタクミさん(仮名)。

 今日から、3名の患者と一緒に治療が始まった。

 午前は赤城先生による治療。
 強迫症(Obsessive-Compulsive Disorder   OCD)を発症した人は、脳のどのあたりに原因があるのかを解明されている範囲で図示してくれた。そして、強迫観念は、エラーを起こしている脳が送ってくる誤信号だと認識することを強調した。
 強迫観念に襲われたとき、それに振り回されたり、寝てしまうのではなく、「そうですか」とありのまま受け入れ、五感を動員して今起っていることに集中するマインドフルネスを全員でやってみた。他の患者、赤城先生や桐生心理士とペアになって互いの容姿や服装、話しているときの目や身体の動きを観察しあい、互いの手に触れて感想を言い合った。昼時には、ベランダに出て、風の流れを感じたり、中庭にいる人々を観察して、特徴を言ったりした。
 病気になって以来、目の前のことに精一杯で、他人を観察し、自然を感じる余裕などなくしていたから新鮮な経験だった。俺は、聴覚をフルに生かして、他人の声域や、鳥のさえずりがどの音域なのかに注意を向けてみた。 人と接することが怖くなった俺にとって、先生方や他の患者と濃厚な時間を過ごせたことで、壁が低くなったことは大きかった。

 赤城先生は、アメリカ帰り(UCLAやハーバードの専門家に薫陶を受けたらしい)で、言葉の端々に知識と経験からくる自信がにじみ出ているかっこいい人だ。

 けれど、正直言って、先生が教えてくれる方法で、俺が気になることを忘れられるとは思えない。そんなことで忘れられるのなら苦労しない(笑)。他の患者は、強迫観念に襲われたとき、いま起こっていること、つまり手足や身体の感覚に意識を移したり、風の流れや周囲の音に意識を向けるマインドフルネスで、不安が消えていったとえらく感動していたが……。

 俺は過去の記憶が侵入してきたら、これは脳のエラーだと言い聞かせ、「俺はそれを無視して好きなことをやるぞ」とピアノを弾いたり、歌ったり、本を読んだり、映画を見たり、筋トレをしたり、料理をしたり、何か生産的なことに集中して、時が記憶をぼかしてくれるのを待つほうが効くかもしれない。赤城先生が教えてくれた方法は、買い物をした後に気になったことが出てきたとか、比較的小さい観念から自由になるために使えると思う。

 

 

 午後は、桐生心理士の指導で、各自が赤城先生に出してもらったERP(Exposure and Response Prevention)の課題に取り組んだ。

 消灯まで時間があるので、他の患者の症状、ERPの課題、俺の感想等を忘れないうちにまとめておくことにした。彩子にも添付ファイルで送るから、時間があったら見てほしい。


ファイル名 最初の日

患者名(プライバシー保護のため俺以外は仮名)と症状
・カルロス(50歳 工場勤務 涜神恐怖)
 敬虔なカトリック教徒だが、5年前に教会でミサの最中に、キリストや聖母マリア、聖書を侮辱する考えが、意思に反して浮かぶようになった。そんな自分に、天罰が下るのではないか、妻や娘にまで罰が当たるのではないかと恐れ慄いている。何年も教会に近づけず、キリスト教に関わるテレビ番組も見られず、ロザリオに触れることもできずに遠ざけている。キリストや聖母マリアを冒涜する考えが浮かぶたびに、心の中で謝罪の言葉や祈りを際限なく繰り返してしまう。[ひどくなったのは、5年前だが、20代の頃から、軽い症状はあった。]

・シオリ(15歳  高校1年生  不潔恐怖、新型コロナウイルス恐怖)
 4年前に、ERPで不潔恐怖と洗浄強迫を克服したが、新型コロナウイルスの感染拡大で再発。
 自分が無症状でも新型コロナウイルスに感染していないか、知らないうちに誰かに感染させて重症化させていないかが気になり、外に出るのが怖くなった。特に病院、学校、満員電車など、人の多い場所が怖い。帰宅後は風呂で体を洗い続けるが、何時間洗っても洗えた気がしない。自分が感染していないことを確認するために、親に頼んで、自費で受けられるPCR検査を何度も受けさせてもらった。
 家族にも、帰宅したら、すぐに入浴し、入念に体や髪を洗うことを要求してしまう。家のあちこちににクレベリンを置き、自分と家族の衣類や寝具などを除菌スプレーで頻繁に消毒してしまう。

・タクミ(24歳  会社員[休職中]  加害恐怖)
 昨年、仕事でストレスが溜まって疲労困憊しているとき、会社の車で、飛び出してきた子供をひきそうになったことがきっかけで、車で人をひかなかったかが心配になり、何度も確認するようになってしまった。仕事が終わった後、会社の車で通った道を自分の車でたどり、事故が起こらなかったかを確認してから帰宅していた。心配になって、警察に電話して確認してしまったことも何度かあった。会社の車と自分の車にドライブレコーダーをつけ、帰宅後に何度も見直さないと安心できなくなり、精神的にも肉体的にも疲労が蓄積していった。
 現在は休職中で、車に乗っていないが、気になることが次々に広がってしまった。買い物に行った先で店員を殴らなかったか、老人とすれ違ったときに危害を加えなかったか、駅のホームで電車を待つ際に前の人を突き落とさなかったかなどが浮かび、そのたびに確認が止まらなくなってしまう。

・トオル(45歳  声楽家&ピアニスト  加害恐怖、不完全恐怖)
 2年ほど前から、過去に他人に迷惑をかけて謝らなかったこと、世話になったのに御礼を言わなかったことが頭にすうっと浮かび、気になってたまらなくなり、手紙を書いて謝罪や感謝を伝えるようになってしまった。手紙の内容、文字の大きさや形、点やはね、手紙の折り方、封入の向き、切手を貼る位置などが完璧でないと満足できず、何度も書き直しを続け、疲労困憊してしまう。
 人と話した後、失礼な言動がなかったかが気になり、気になることがすっと侵入してくると、戻って感謝や謝罪をしつこく伝えてしまう。そんな自分が嫌で人を避け、買い物さえもできなくなってしまった。どうしても人と接しなくてはならないときは、後で気になることが出てこないように、過剰に感謝や謝罪を伝えてしまう。
 自分の触れたもの(ピアノ、スーパーのかご、電車のつり革、自動販売機の取り出し口など)や、座った場所を何度も拭いてしまう。        [ひどくなったのは2年前だが、中学生の頃から、軽い症状はあったかもしれない。生活に支障が出るほどではなく、いつの間にか忘れてしまっていた。]



午後の課題
●カルロス
・ロザリオと十字架を踏む。→躊躇いながらも成功。→何も起こらなかったが、踏んでしまったことを考えるとぞわぞわする。

・踏んだロザリオと十字架を持って教会に行き、わざと冒涜的なことを考え、絶対に心の中で謝罪したり祈ったりしない。→ 息が荒くなり、冷や汗が出て、逃げ出したいと思いながらも、トオルが教会のピアノで奏でる「羊は安らかに草を食み」を聴きながら、そこに留まった。→ 時間が経つにつれて、恐ろしさが弱まっていった。

●シオリ
・マスクを外して、院内を歩きまわる(医師と心理士の立ち合いのもと全員で)。→ 息を止めたくなりながらも耐えた。→ 最後のほうは少し楽しくなってきた。

・病院のトイレの便器の水に手を入れ、軽く拭っただけで洗わずに過ごす。→泣きながらも水に両手を入れた。→ 素手でおにぎりやパンを食べられた。

●タクミ
・院内で、年輩の患者さんの横を通りながら、その人が自分に殴られて意識不明になった姿を鮮明に想像し、絶対に振り返って確認しない。→ 怖がりながらも継続。→ 3人目とすれ違ったときから、もうどうなってもよくなってきた。

・ポケットにカッター、かばんに木槌を入れてスーパーやコンビニに行き、店内を歩き回り、レジで会計をする。店員に危害を加えたかを確認せずに店を出る。→ 普通に店内を歩き、会計できた。→ 自分が何もしないとわかった。

●トオル
・便器の水に入れた両手で、教会のピアノを弾く。ピアノを拭かず、汚したことを謝罪せずに教会を出て、絶対に戻らない。→問題なくできた。→ 課題としてやったことのせいか、不思議と気にならなかった。


・便器の水に入れた手で、スーパーとコンビニで商品を選び、会計する。→ 問題なくできた。 → 買い物に対する不安が小さくなった。


 これらの課題は、本人だけではなく、できる限り全員が一緒に挑戦した。他の患者が嫌がることを自分は簡単にでき、その逆もあった。他人の症状を観察することで辛さを共有でき、エクスポージャーに挑戦する姿が励みになり、自分も負けられないと思った。

 全員が症状の改善を実感できた1日だったと思う。明日は各自がさらに難しい課題に挑戦する予定だ。

※ (念のため書いておくけど)俺以外の患者の個人情報は外部に漏らさないでほしい。


 治療を始める前に、赤城先生が、1人1人に治ったら何がしたいかを尋ねたから、俺は以下のように答えた。
・恋人と外食やショッピングなどの普通のデートをして、彼女を幸せにしたい。
・勤務先の店(フェルセン)で、お客様のリクエストしてくれた曲を演奏し、コミュニケーションを楽しみたい。
・店の売り上げを回復させるために、できることをすべてしたい。

 俺は、強迫を治療しても、人生がうまくいくわけではないし、この病気に殺されてもいいと思っていた。俺がいなくなれば羽生さんも苦労して店を続ける必要もないし。
 でも、いまは、彩子のために、よくなりたいと思っている。彩子にもらった幸せを少しでも返したい思いが俺を動かしている。
 これからも、病気に振り回されて、取り乱し、嫌な思いをさせるかもしれないけれど、そのことだけは知っていてほしい。