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澪標 [完結]

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「ピアノを拭く人」の番外編です。彩子の同期 鈴木澪が主人公で、コロナ禍の恋愛も描いています。
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2022年1月の記事一覧

澪標(みおつくし)   プロローグ

澪標(みおつくし)   プロローグ

 スクリーン越しに、同期の彩子と透さんの笑顔がはじける。彩子は白無垢から純白のウエディングドレス、透さんは紋付羽織袴からタキシードにお色直しして画面に現れた。長身の2人には、和装も洋装も映える。

 透さんの右腕と左腕には、白豆柴犬の胡桃と、茶白猫の柚子が、安心しきった眼差しでそれぞれ収まっている。彩子が2匹の頭を撫でながら、注意を画面に向けようとする。子供を持たないと決めた2人が、保護団体から迎

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澪標 1

澪標 1

 3年前のその日は、休日出勤だった。

 私は試験運営を請け負う会社で営業部に所属していた。試験が目白押しの2-3月は、他の部が試験運営部のサポートに動員され、休日出勤するのはめずらしくなかった。

 18時を回り、各試験会場のリーダーから、終了報告のメールや電話が相次いでいた。本社のフロアは、安堵の空気と、トラブルが生じた会場への対応に追われる緊迫感が入り混じっていた。運営部の竹内くんは受話器を

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澪標 2

澪標 2

 私の人生で、「恋に落ちる」という言葉が、あれ以上ふさわしい瞬間は、これまでも、そしてこれからも訪れない。私はあなたと出会った瞬間、理由など考える余地もなく恋に落ちた。

 何年か前、彩子と帝国劇場でミュージカル「レ・ミゼラブル」を見た。理想に燃える青年マリウスが、コゼットに一目ぼれし、その気持ちを歌う「プリュメ街」という歌があった。あのときは、彼の高揚感に、暗い客席で苦笑いを嚙み殺した。だが、あ

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澪標 3

澪標 3

「聞いて下さいよ。俺、やっと彼女できたんです」

 竹内くんは丁寧にほぐしたホッケの塩焼きに醤油を垂らしながら、声を弾ませた。流行の髪型を好み、一見すると軽薄そうに見える彼は、食べ方がとてもきれいで、子供のころ厳しく躾けられたことが垣間見えた。

「おー、良かったじゃないか。どんな子だ?」手もとがあやしくなり始めていた志津課長は、飲み干した生ビールのグラスを置くとき、小皿にかちんとぶつけてしまい、

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澪標 4

澪標 4

 コンビニを一歩出た瞬間、湿度の高い熱気に襲われ、息苦しさを覚えた。私は店内に引き返したい衝動に抗い、昼食に買ったおにぎりとサラダの袋を持ち直すと、会社に戻るために炎天下を歩き出した。

 交差点まで数メートル歩いただけで、汗でブラウスが背中に張り付きそうだった。今朝吹き付けた石鹸の香りの制汗スプレーなど、何の役割も果たしていなそうだった。交差点の対岸に陽炎が立つのが見え、ますます気が滅入った。

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澪標 5

澪標 5

 あなたは霧にけぶる海を凝視していた。私は傘を打つ雨音を聴きながら、黙って寄り添った。あなたの濃紺の傘が邪魔をし、表情はよく見えなかったが、声を掛けてはいけない気がした。

 高台から眺める横浜港やベイブリッジは霞み、輪郭が揺らいでいた。小さな観光船が、霧に飲まれるように視界から消えていった。あなたと陽光を浴びてきらきらと輝く海を眺め、吹き渡る潮風を頬に感じたかった私は、生憎の天気が恨めしかった。

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澪標 6

澪標 6

「笠原さん、この日付、どういうことですか?」

 運営部の柴田さんが、電話を保留にしたまま、営業部の笠原さんのデスクにつかつかと歩いてきて詰問した。

「Y大学に下見に行く日時、11月16日 午前9時とありますよね。先方は、6日、つまり明日のつもりで確認の電話をかけてきているんです」

 笠原さんは、ファイルをひっくり返し、必要事項を書き込んだ書類を取り出した。私は作業の手を止め、彼女の見つけた書

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澪標 7

澪標 7

 東京に帰る新幹線の座席に落ち着くと、あなたは膝の上で手を組み、背筋を伸ばして切り出した。

「これから話すことは、あなたの胸に収めて、絶対に口外しないでほしいんです。志津にも話していません。あなたが、口外するような人ではないことはわかっていますが」

 私は「約束します」と答えた。何も言わなくても、あなたに伝わっている確信があったが、敢えて言葉にした。

「妻と出会ったのは、修士課程を修了して就

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澪標 8

澪標 8

 送別会の宴席を抜け出し、障子を後ろ手で閉めると、喉に酸っぱいものがこみ上げてきた。朝から喉がいがいがし、胃のむかつきもあったのに、上司に注がれたビールを無理に飲んだからだった。

 しんと冷えた廊下の空気を深く吸い込んだ。宴の喧騒を背中に、私は化粧室を探そうと廊下を歩いた。ほのかにライトアップされた形ばかりの中庭に、小さな石灯篭が据えられていた。それを見て、あの宮島の夜を思い出した。もうすぐ、宮

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