【音楽の可能性】濱島祐貴×山本一輝×篠村友輝哉「音楽人のことば」第14回 前編
前回に引き続き、過去に対談していただいた方の再登場を中心とした鼎談回をお届けします。今回は、第6回の濱島祐貴さん(二胡、作曲)と、第8回の山本一輝さん(ヴィオラ)をお招きいたしました。濱島さんと山本さんは大変親しい間柄で、音楽家としての共演も多いこともあり、この鼎談シリーズを思いついた頃からこのメンバーでお話できたらと考えていました(それぞれのご紹介は、お二人のお名前をクリックしていただくとご覧いただけます)。
今回の鼎談では、9月6日に濱島さんが開かれた、山本さんの所属するクァルテット・インテグラを迎えての演奏会のお話を中心にしつつ、音楽の可能性という根本的なテーマについて語り合いました。この問いに常に弛まず向き合い続けているお二人のことばと私のやり取りが、改めてそれについて考えるきっかけになれれば幸いです。
濱島祐貴(はまじま ゆうき)
幼少よりピアノ、11才より二胡を始める。第13回長江杯国際音楽コンクール民族部門、および第11回大阪国際音楽コンクール民俗楽器部門に第2位(1位なし)入賞。2019年、山下一史指揮 桐朋アカデミー・オーケストラとの共演で自作の二胡協奏曲を初演、自らソリストを務める。
桐朋学園大学音楽学部作曲専攻卒業。同校研究生を経て、桐朋学園大学院大学音楽研究科演奏研究専攻(修士課程)修了。第25回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位。
山本一輝(やまもと いつき)
5歳よりヴァイオリンを始め、18歳よりヴィオラに転向。第8回秋吉台音楽コンクール 弦楽四重奏部門 第1位。併せて、ベートーヴェン賞、山口県知事賞を受賞。第41回霧島国際音楽祭にて、堤剛音楽監督賞及びに霧島国際音楽祭賞を受賞。横浜交響楽団とのバルトークのヴィオラ協奏曲を、水星交響楽団とヒンデミットの白鳥を焼く男を共演。また新曲の初演にも意欲的に取り組んでいる。これまでに、ヴィオラを佐々木亮氏に、弦楽四重奏を磯村和英、山崎伸子両氏に、作曲を石島正博氏に師事。公益財団法人松尾学術振興財団より助成を受ける。
──「人間的」であることと「音楽的」であること
篠村 音楽とは何か、音楽に何ができるかということを、私たちは毎日考えているわけですけれども、ある意味、作曲や演奏することそれ自体、音楽とは何かを考えることですよね。なので、山本くんは濱島さんの作品をたくさん演奏されていますし、9月6日に初演された新作《栞‐Shiori‐》に至るまでのここ数年の濱島さんの作曲の歩みを振り返ることから始めて、お話を広げていければと思います。
まず、私自身の印象を長々とお話させていただくと(笑)、濱島さんは、人間の生死や祈りといった、非常に観念的、哲学的な問題に、その切り詰められた音で正面から取り組まれていらっしゃいます。2017年~2018年の《書‐Calligraphy‐》、あるいは《Aura》は、そうした方向性において一つの節目になるような作品だったのではと感じました。そして以前エッセイに取り上げた2019年の二胡協奏曲を経て、山本くんが初演された《白の領域》(2019)、《蜜/毒》(2020)あたりから、濱島さんの作品に非常に官能的な、肉感的な音使いが増してきたように思いました。弦楽器の音色に対する偏愛と言いますか、肌で聴くような質感を感じるんですね。それはある意味、2018年までの観念的で抽象度の高い世界と対照的なようでいて、しかしそうしたものを具体的な身体感覚に接続させていこうとされているような印象を受けました。
この度書かれた《栞》は、まさしく濱島さんのそうした要素が凝縮された、非常に静謐だけれども大変に密度の濃い傑作でした。それだけに、実演が聴けなかったことが大変残念です……。(《栞》を含む濱島さんの作品はこちらからお聴きいただけます)
山本 話を聴いていて納得してしまいました(笑)。確かにそうですね。今回の《栞》は、弾いていて、濱島くんがどういう作曲家なのかがわかったような気がしたんです。これまでに4曲弾かせてもらっていて、割と全部違うタイプのような気がしていたのですが、《栞》はなぜか今までより「濱島くんらしいな」って思ったんです。これが濱島くんの感じだよね、という(笑)。
篠村 濱島さんの音色、というものが確立されているよね。僕はよく「粛然とした」と言っているのだけれど、聴いていて背筋の伸びるような(笑)、そういう印象があります。
山本 あと、ちゃんと各楽器においしいところが必ず(最低でも)一回はあるのがいいなって思う(笑)。
濱島 《栞》にもあった(笑)?
山本 ありましたよ(笑)。前も濱島くんに言ったけれど、気持ちの入れどころがあるというか、音楽的現象を作るのではなくて、もっと根本的な人間らしさというか、そういうのがあるのかなと思います。
濱島 恥ずかしいですね(笑)。話を聴きながら自分のことを客観的に見れて、どれも自分の中では繋がっていることなのかなと思いました。
僕たち三人は、「人間らしさ」というものを音楽の中で大切にしている人だと思うんだけれど、一方で、そういう「人間らしさ」とか哲学的なテーマとかが、「音楽らしさ」であるかどうかはまた少し別なのかなとも思う。「人間らしい」ということと音楽の醍醐味、存在意義ということは、どこまで関係しているのか。「人間らしさ」がないと音楽ではない、ということにはならないと思うんだけれど、お二人はどう思いますか? 例えばいっくん(山本さんのニックネーム)がそういう作品を演奏しなければならなくなったら、どうアプローチする?
山本 うーん、結局、無理矢理人間らしさとか、自分が共感できる部分を見出そうとしてしまうかもしれない。そうじゃないと弾けないかな。気持ちの上ではいつも同じアプローチをしているから、やりづらいだろうけど、そうするかなあ。作曲家の人間らしさを捕まえようとするというか。
濱島 しのむー(篠村のニックネーム)は演奏家でもあるけれど、受け止める側としての、聴き手としての立場からはどう考えますか?
篠村 どういうものを「人間的」と考えるかということ自体人それぞれ異なる、という問題もありますが、それは別として僕の考えを言うと、まず、人間的でない表現でも可能になる、それくらい音楽という世界は懐が深いというか、人間が生み出したものでありながら、人間以上に広い世界を持っている面はあると思います。その上で、僕が聴き手として、あるいは書き手として肯定的に捉えられない作品は、その音を書く必然性がその作曲家に合ったのだと感じられないものですね。必然性というのは、内面的な必然性の方で、音楽の構造や秩序にとっての必然性ということではありません。その作品が好きか嫌いかという判断と、作品として真実味があるかそうでないかという判断は違うものですよね。僕自身は共感できないし、好きでもないけれど、この人はどうしてもその音を書かなければいけなかったんだなと感じられれば、作品としては「ホンモノ」だと思っています。
濱島 僕の考えていることに似ているかもしれない。よく、物理的なものや数学的なものを作品に当てはめて表現していて、それがコンセプト的には成功しているという例があるけれど、(重要なのは)それを音楽で表現しなければいけなかった必然がその人にあるか。実際に出ている音とその考えが結び付いているなら、共感できる部分は多分にあると思っていて、その人の「耳」が感じられれば、それ以上の「人間らしさ」を作品に求めない姿勢も、ありだと考えています。
──抽象性と作曲家の生きた跡
濱島 非日常的な営みの中に自分自身を投影する、その中で自分自身と向き合うというのが、音楽の一つ大事な要素としてあると思っています。だから、僕はそうではないけれど、作曲家の中には、人間的な自分の側面を落とし込むというより、もっと自分から遠いところで音楽を自立させたい、音楽が自分から独立していてほしいという人もいるのかなと思う。自分から離れたところで音楽が語るもの、ということを考えているんじゃないか。自分から遠いということが、音楽が音楽である意味だと考えている人もいるんだと思います。
山本 関係あるかわからないんですが、今度OTOの会という演奏会で、故・佐藤公一郎先生の『西風の見たもの』という弦楽四重奏曲を追悼演奏するんですけれど、最後にコラールがあって、そこを弾いているとすごく佐藤先生を感じてしまうんです。佐藤先生とは、最後の4、5年くらいの間に何度かお会いさせていただいたのですが、作曲家が亡くなっても、音楽はそのまま生きているということなんだなと思ったんです。コラールの前の部分は、佐藤先生自身というより、先生の音楽に対する思想のようなものを感じるんですが、コラールになると、本人の息遣いを感じてしまう。それはリハーサルをしていてすごく感動的でした。
篠村 たとえ「自分から離れたところにある音楽」という思想のもとで作曲していたとしても、作品にはその作曲家の息が宿る、宿ってしまうということだね。濱島さんは、作曲をされているなかで、曲を書くということは自分の存在の痕跡を残すことなんだと感じる瞬間はありますか?
濱島 うーん……、あるかもしれない。書き終わった作品がどうなるかとかを考えてはいないけれど、音符を書いている最中、自分の思っていることとか無意識に考えていることが、全て「音符」という形になって目に見えてくる。形として整理しながらその瞬間を生きているというか、その瞬間の自分の生きた軌跡を紙に書き落としているというか…。今回、いっくんも曲を書かれたから(9月6日の演奏会では山本さんの新作「二胡とヴィオラのためのショートショート」も濱島さんと山本さんご自身によって初演された)、同じことを訊いてみたいな(笑)。
山本 僕のはそんなに大層なものじゃないですよ(笑)。今話しているような哲学的なことを考えるのは好きだけれど、書いている間はそんなことを考える余裕なんてなくて(笑)。結局、書いている時も演奏家としての目線の方が強くなってしまったような気がします。それは演奏家として弾くときに(自分で書いた)譜面を客観的に見て思ったことです。ヴィオラに効果的に書けたわけではないんですが、「これ、自分が書いたのかあ」という感じというか…。そういう意外性がありました。自分の一番好きな音楽を書くのかなと思っていたんだけど、そうはならなかったんです。意味わかんないですよね(笑)。
篠村 いや、濱島さんも作曲でそうなのかもしれないですけれど、僕なんかも文章を書いていて、書き始める前に「これだ…!」と思ういくつかの文章や単語が浮かんでも、いざ書き始めてみると、それらは破棄したり、別の形に書き変えたりしてしまうことがしょっちゅうです。むしろ、最初に想定していたことは本当に言いたかったことではなくて、書いていくうちに本当に書きたかったものが見えてくる。演奏でも、最初に譜読みを始めた時に頭で鳴っていた理想と、最後に仕上げた時の演奏はたいてい違うものになっている気がする。やっぱり芸術ってすごいですね、自分の意志などほとんど通用しなくて、ただ音や言葉に導かれるしかないんですねえ…(笑)。
濱島 本当に。書き始めると、敵の首を取ってきたみたいに「これはいけるぞ」と自信満々に持ってきたフレーズの入る余地がなくなっていて、「あれ、これが書きたかったのに」と思うことはしょっちゅうある。でも、そこで無理矢理入れようとすると、音楽として成立しない。
佐藤先生がどうだったかはわからないけれど、「コラール」って、あまり作曲家が自分を出すような音楽ではないよね。むしろ天から聞こえてくるような音楽で、そこに佐藤先生を感じるというのは不思議だけれど、例えば「ソナタ」とか「弦楽五重奏」とか、そういう一番抽象的なタイトルを与えて、具体的な表現を避けるほど、作品自体の中身の具体性は強くなるのかもしれない。現代の作品は、《栞》のように具体的なタイトルを付けることも多いけれど。
篠村 山本くんは昨年の対談で、曲に物語をつけるアプローチは好きじゃないと言っていたけれど、そのお話とも重なる気がしました。抽象度が高いということは、それだけ表現に余白があるということだと思うんですね。余白と言うのは、受け取り手が作品に入っていけるスペースのようなもののことで、僕もレビューやエッセイを書くときに、どのくらい詳しく具体的に書くのかということはよく悩むポイントの一つなんですが、それはあまりに自分の思っていることを書きすぎてしまうと、その余白がなくなってしまうからなんですね。かといって筆を省きすぎるのは甘えですが。
山本 少し逸れますが、演奏家って、作曲家に比べて、音楽に対して受け身になってしまう部分が大きいと思う。どうすれば上手く聞こえるかとかを追求することも間違ってはいないんだけれど…、作曲家って、もっと音楽の奥にあることを考えている人たちだと思う。音楽には、音を楽しむだけではわからない世界があって、僕はそういうものにちょっとでも触れたいと思ってやっています。楽しみたいからやっているんじゃないんですよね。
篠村 言葉にならないものだからこそ、何とか言葉にしてみようとしないとその「言葉にならなさ」ってわからないんだよね。何でもそうで、何かのわからない領域、できない領域って、まずはそれをやってみようとしないと本当にはわからない。音楽という、究極的に抽象度の高い表現を扱っているからこそ、自分の実存の具体的な実感から出発しないと、そもそも抽象化できない。そこから出発しなければ、余白どころかスカスカな表現になってしまう。
後編につづく(こちら)
(構成・文:篠村友輝哉)
《併せて読みたい》
【想像力をめぐって】濱島祐貴×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第6回 前編 https://note.com/shinomuray/n/nc585bb1dc4a4
【想像力をめぐって】濱島祐貴×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第6回 後編 https://note.com/shinomuray/n/n1541013a1988
【音楽のロマンを探って】山本一輝×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第8回 前編 https://note.com/shinomuray/n/n3b13fbdaa454
【音楽のロマンを探って】山本一輝×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第8回 後編 https://note.com/shinomuray/n/n87fc6f04ec7b
濱島祐貴(はまじま ゆうき)
東京都出身。幼少よりピアノを習い、11才で二胡、17才で作曲を始める。
第13回長江杯国際音楽コンクール民族部門、および第11回大阪国際音楽コンクール民俗楽器部門に第2位(1位なし)入賞。2015年、台湾にて劉天華の生誕120周年を記念した演奏会にゲスト出演。2016年、上海にて行われたカンファレンス「造就Talk」に出演、演奏はライブ中継で全世界に発信された。2018年、東京にて初のソロリサイタルを開催。2019年、富山にて、山下一史指揮 桐朋アカデミー・オーケストラとの共演で自作の二胡協奏曲《Altair》を初演、自らソリストを務める。
桐朋学園大学音楽学部作曲専攻卒業。同校研究生を経て、桐朋学園大学院大学音楽研究科演奏研究専攻(修士課程)修了。第25回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位。第36,37,39,40回桐朋学園作曲科成績優秀者による作曲作品展に出展。2014年、韓国ソウルの韓国芸術総合学校で開催された “Nong Project 2014”に派遣生として参加し、研鑽を積む。そのほか学内選抜により、調布国際音楽祭(2015年)、桐朋学園オーケストラ定期演奏会(2016年)、音大作曲科交流演奏会(2017年)にそれぞれ出品。作曲家グループ「きりぽんてる」のメンバーとして、2015年より同人主催の「7人の作曲家展」にて定期的に作品を発表し、これまでに4度の公演を実施。2020年、全音楽譜出版社刊行「発表会のための名曲ライブラリー スタジオジブリ曲[初級]」および「同[初中級]」に、編曲作品4曲の譜面が掲載される。
作曲を石島正博、二胡を許可(Xu Ke)、ピアノを吉田真穂、岡田博美、鶴見彩の各氏に師事。Lei Liang、Stefano Gervasoni、Tambuco Percussion Ensemble、野平一郎各氏のレッスンを受講。
現在は東京を拠点に、二胡奏者として慰問演奏から新作初演まで幅広い演奏活動の傍ら、作曲・編曲活動にも精力的に取り組んでいる。作品と演奏は、YouTubeとSoundCloudにて視聴可能。
公式HP▶︎ http://yukihamajima.mystrikingly.com
山本一輝(やまもと いつき)
5歳よりヴァイオリンを始め、18歳よりヴィオラに転向。クァルテット・インテグラのメンバーとして第8回秋吉台音楽コンクール 弦楽四重奏部門 第1位。併せて、ベートーヴェン賞、山口県知事賞を受賞。キジアーナ音楽院夏期マスタークラスにてクライブ・グリーンスミス氏に師事し、最も優秀な弦楽四重奏団に贈られる"Banca Monte dei Paschi di Siena" Prizeを受賞。第41回霧島国際音楽祭に出演し、堤剛音楽監督賞及びに霧島国際音楽祭賞を受賞。フィリアホールや札幌コンサートホールKitara、サントリーホールブルーローズ等、各地で演奏を行うほか、堤剛、山崎伸子、練木繁夫、亀井良信各氏との共演でも好評を博す。ソリストとして、横浜交響楽団とのバルトークのヴィオラ協奏曲を、水星交響楽団とヒンデミットの白鳥を焼く男を共演。またリサイタルでは新曲の初演にも意欲的に取り組んでいる。NHK Eテレ「ららら♪クラシック」、NHK FM 「リサイタル・パッシオ」、テレビ朝日「題名のない音楽会」等に出演。これまでに、ヴィオラを佐々木亮氏に、弦楽四重奏を磯村和英、山崎伸子両氏に、ヴァイオリンを木野雅之、森川ちひろ両氏に、作曲を石島正博氏に師事。サントリーホール室内楽アカデミー第5,6期フェロー。公益財団法人松尾学術振興財団より助成を受ける。
篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
桐朋学園大学音楽学部卒業、同大学大学院音楽研究科修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
専門のピアノ音楽から室内楽、弦楽器、オーケストラ、歌曲、コンテンポラリーに至るまで幅広いジャンルで音楽・演奏批評を執筆。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間エッセイ・演奏批評の連載を担当した。同紙2021年8月号から新連載「耳を澄ます言葉」が開始。曲目解説の執筆、演奏会のプロデュースも手掛ける。エッセイや講座、メディアでは文学、映画、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。修士論文はシューベルト。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/
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