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【音楽のロマンを探って】山本一輝×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第8回 後編

(前編はこちら

ーーその作品をなぜ自分が弾くのか

篠村 時代で言ったら、どの時代の作品に一番共感しますか?

山本 共感ということで言えば、自分に近い時代の作品ですね。あと邦人の作品にはすっと入れるような感じがあります。

篠村 作曲家にもよると思うけれど、どのあたりに共感しますか?

山本 僕は準備の段階で、たぶん(結果的には)意味のないこととかも考えながらいろいろやっていると思うんですが、割と新曲なんかは、余計なことを考えずに入れる。自分に演奏する負担がかからない感じですね。現代の作品が「一番好き」というわけではないんですが、「共感」という意味では、やっぱり自分も日本人なんだなあとか、自分も今という時代に生きているんだなあということを感じます。

篠村 それは、さっき(前編)の話と結び付けて考えてみると、作品が呼び覚ましてくれる自分の声が、作品自体が持っている声とすごく近いところにあるという感覚なのかもしれないね。逆に、過去の作品、近代以前の作品に取り組む時は何に難しさを感じる?

山本 以前、あるコンサートのときに、武満徹の『鳥が道に降りてきた』とブラームスのヴィオラ・ソナタ第1番を組み合わせたんです。そのときに、練習していて、ブラームスのソナタはそもそも難しい曲なんですが、武満を弾いているときのような感覚でブラームスも弾けたらいいのになとすごく思ったんですね。何が違うんでしょうね(笑)。古典の作品って、現代の作品に比べるといろいろな人の演奏を聴いているから、もしかしたらそのことが影響しているのかもしれません。

篠村 演奏史の長い作品に取り組むときに難しさを感じるのは、もちろん作品自体に寄り添うということが大前提にある上で、現代の演奏家として、その曲についた手垢を落として、像を更新していかないといけないと考えている部分があるのではないかなと思いました。つまり、自分がブラームスを弾く意味、自分がモーツァルトを弾く意味、というものを考えているのではと。

山本 確かにそうかもしれません。自分にしか見えないことがあるかというのは、生意気ながらすごく思っていて。演奏されてきた歴史が長い作品よりも、近作の方がその確信を持てるのかもしれません。僕はベートーヴェンが大好きなんですが、彼の作品についても自分にしか見えないものがあるとは思っているんですが、やっぱり難しいんですね。他の人の演奏を聴いて、もちろんまねはしませんが、(どう弾くか)考えてしまうというのはあります。

篠村 僕なんかも、衝撃的な演奏に出会うと、その曲を自分で弾こうと思わなくなってしまうことがあって(笑)。あまりにも自分にとって理想的で、弾けなくなってしまう。そういうことを言っている演奏家って何人かいて、以前はそういう話を聴いてもよくわからなかったのだけど、いろいろな演奏を聴いていくうちに、「素晴らしい」を超えた演奏に何度か出会って、その感覚がよくわかるようになってきました。演奏家って、その曲をなぜ自分が取り組むのかということを考えてしまうものだよね。

ーー作曲家への敬意、音楽のロマン

篠村 人が音楽を演奏したいとか聴きたいと思うのは、やっぱり、自分の想いとか声を、音律に乗せたいという思いが人間にはあるというか、音楽にすることで初めて満たされるものがあるから、人は音楽を求めるんじゃないかと思うのね。それが、たとえ自分の声で歌えないとしても、楽器でなら…と思う根源的な部分になっているのかなと思っています。

山本 難しいことを考えていますね…(笑)。でも僕は、自分の伝えたいこととか、そういうものを音楽で表現したいと思うのであれば、やっぱり曲を書かなきゃいけないんじゃないかなと思うんです。今(の時代)は演奏家と作曲家が分かれていますけど、本当に自分に伝えたいことがあって、それを音楽でやろうと思うなら曲を書くしかないと感じるんです。やっぱり演奏家、というか僕にできることは、作品に対する共感だと思うんです。

篠村 確かにそうかもしれないね。表現意欲がものすごく強い人というのが作曲家になるのかなと思います。演奏家は、さっきの「理想的な演奏に出会うと弾く気がなくなる」という話にも近いけど、誰かの書いた曲が、すでに自分の感じていることを表現してくれているように感じていて、せめてその作品に寄り添うことで表現できないかと考えているのかもしれないね。

山本 僕は、作曲を副科で2年間やっていたことがあったのですが、それは僕にとってものすごく大きなことだったんですね。その2年間が、今の自分を作っていると思うくらいです。ちょっと大変すぎて、2年で止めてしまったんですが(笑)。本当は続けていたらよかったと思うんですが、辛くて…。でも、その「辛い」という感覚を実感として知れたことがーー作曲家の方の辛さはこんなものじゃないですけどーー、すごく大きかったんですよね。

篠村 作品って、厳密な意味で本当にまっさらで新しい、というものではなくて、先人たちが築いてきた長い歴史の上に成り立っているものだけれど、それでもやっぱり、0から生み出すわけだからね、最初の1音から。そのエネルギーたるや、想像に余るものがあるよね。

山本 作曲の技術ということも、演奏と似ているというか、例えば、頭の中に鳴っているものがあっても、それを譜面に起こすには技術が必要なんだなと。楽器を練習するのと同じで、いろいろな曲を勉強したり、写譜をしたり、そういうことで技術を磨かないと、譜面に起こせない。そういう作曲における技術的な部分というものも、自分が作曲をやるまでは想像もしていなかったというか。センスとかではないんですよね。作曲家よりも演奏家の方が、センスみたいなものの割合は大きいと思います。作曲って、そういうことに思えるじゃないですか、アイデアとか。でも、作曲こそ、努力と知性、そういうものの結集なんですよね。例えば伴奏を決まった音型で書こうと思っても、メロディーとの関係でここが濁ってしまうのが嫌だなと思う、でもメロディーも犠牲にしたくない…みたいな、そういう細かい不都合がたくさん発生する。アイデアみたいなものだけでは絶対にできない。大作曲家たちは命を懸けてそういうことをやってきていて、それがいまここにあるということ。それが本当に音楽のロマンで、そういうすごいものに今自分が触れられるということは、当たり前じゃないと思うんですね。そういうことも作曲をやってみたからわかるようになりました。でも、「作曲やっていた」と言えるほどではないので、あんまり話さないんですけど(笑)。

篠村 何度も頷いてしまいました。作曲家じゃないけど、美術作家の菅実花さんも制作では「9割理性」と言っていたことを思い出しました。直感やインスピレーションは1割か2割だと。あるアイデアがあって、それを1つの作品世界として成立させるためには、ものすごい知性と構成力と教養と…そういうものが必要。ものすごく緻密な作業だよね。時に1週間かけて書いた1小節を書いて、でも結局その小節を消したり…。作曲家がそのようにして生み出したものに、時代を超えて、現代に生きる自分たちも演奏や聴取によって触れられるということって、奇跡的なことだよね。その作品が、200年300年後の私たちも共感できる世界を持っているというのは、改めて思いを馳せるとすごいことだなと感じます。

山本 作曲家って、天才的な頭脳の持ち主で、作曲家だというだけで、僕にとってはリスペクトすべき存在です。なぜベートーヴェンが好きかというと(彼に限りませんが、特に)、自分には到底理解できない、絶対解けないパズルみたいなものにずっと向き合える感覚があって、それが面白い。数学的ロマンと言うのかな、作曲家がやろうとしたことが何なのかということを考えるんだけど、それって絶対わからない、その絶対わからないものに向かっていく、それが音楽をやめられない理由だと思っています。だから、演奏するということの面白さもあるけど、音を出す以前に、作品に向かうということ自体に面白さがある。

篠村 音楽って神秘に満ちていて、音楽が神秘だということは、つまり人間がそれだけ複雑な存在だということだよね。幾重にも重なる謎や神秘、メッセージがあって、その世界に入れば入るほど広がっているものがあってどんどん深みが増していく。その汲み尽くせない領域の深さや広さが、その作品の素晴らしさを定義しているような気がします。やっぱり解が1つしかないような、すぐにわかってしまうような曲は歴史に淘汰されてしまう。汲み尽くせない深さを作品が持っているから、演奏者によって違う声が呼び起される。

ーー内面の追求がそのまま表現になる

篠村 聴衆と自分との関係性というものはどう考えていますか?

山本 それは自分にとって難しい課題で、よくお客さんに意識が向いていない、独り言みたいだって言われるんですよ。確かにそうなってしまっているなというのは感じています。音楽に向き合う上で、お客さんにどう受け取られるかということをあまり考えたくないと思っている部分があるんです。音楽の方に向き合っていたいというのがあるから…。

篠村 僕自身も感覚的にそれはわかります。自分の好みもあるけれど、あんまりオープンな演奏って好きじゃなくて(笑)。やっぱり内面的、内向的な演奏や作品の方が好きだし、どう弾けば聴衆に受けるかみたいなことが第一になっている演奏は好きになれない。でも演奏は、聴衆がいることで初めて成立することでしょう? それに、自分の世界だけで完結していたら、表現とは言えない。だからそれを両立させる難しさはよくわかるんだけれど、でも、内面を追求するということを本当に突き詰めたら、それ自体が表現になるはずだと思っていて。自分の世界に閉じ籠る、ということにならないで、自分の問題を突き詰めることが表現のレベルに達するくらいになれば、聴いている人の抱えている問題にも通じてくるんじゃないかと。無理に聴衆を意識するんじゃなくて、自分の問題を表現のかたちにまで洗練させていく。それができれば理想的だなと思う。
 あと、やっぱり誰かが聴いてくれていることで初めて降ってくる表現、つまりフレーズ感とか間の取り方、音色の変化とかがあると思う。いい状態でいられるときの演奏会って、一人で弾いているときには思いつかなかったものが降りてくることがある。そういう瞬間を感じられたときには、舞台で演奏する醍醐味を感じますね。

山本 いまの状況になって、1回コンサートがなくなってしまったことがあったんです。それで、そのあと3ヶ月ぶりくらいにお客さんの前で弾いたときに感じたのは、「弾きやすさ」でした。それは、今まで特に感じたことがなかったんです。その前に、配信の演奏会で無観客の中で弾いたこともあったんだと思いますが、お客さんがいるとこんなに弾きやすいんだ、演奏することの意味が大きくなるんだな、と思って。

篠村 関連して、よく「人を感動させたい」っていう言葉を使う人が結構いるでしょう? でも感動ってさせようと思ってさせられるものじゃないよね。やっぱりさせようと思っている時点で、好かれようとしているし。

山本 確かに(笑)。

篠村 そういう次元じゃないでしょう? 感動って。やっぱり自分は自分のベストを尽くしたうえで、それがある人に届くかどうかということには、人間性の問題もあれば、時の運もある。いろんな要素が組み合わさって、初めて感動って生まれるから、コントロールできるようなものではないんだよね。

山本 お客さんがどう思うかを考えたくないというのもそれと近くて、聴き手がどう受け取るかということは、もうこっちの問題ではないじゃないですか。誰が来ているのか、その人の精神状態とか、いろいろな要素があるから、お客さんがどう受け取るかというところまではコントロールできないと思っているんです。「感動を与えたい」というのはちょっと変ですよね。

篠村 正直な話、演奏って、6:4くらいの割合で苦しさとか辛さの方が大きいんだよね、僕にとって。純粋に楽しいだけの行為ではないというか…。自分にとって必要なことなんだけど、特に本番が迫っているときはやっぱり苦しさの方が大きいし、演奏中もうまくいっていても幸福感だけではないというか…。でも、これって僕の全く個人的な感覚ではないと思っていて、もちろん必ずしも僕と同じような割合ではないとしても、表現者ってやっぱり、どこかそういう苦しみを背負ってまで表現している部分があると思う。本当に表現行為がそこまで自分の人生にとって必要のないものだったら、表現なんてしないと思う。だからその苦しみを超えて表現しているというところに、その意味があると思っていて。

山本 僕は演奏するということに関しては、苦しいという感覚はほぼないですね。演奏するということは喜びがほとんどです。(でも)確かに準備の段階ではいろいろ苦しいこともあって、結局どこかでは苦しまないといけないと思っている部分があるというか、それを大事にしている部分もある。それがないとやっぱりできないじゃないですか、音楽って。結局自分がやりたいからやっているわけだから、苦しみなんだけど、苦しめることが喜びなのかもしれない。私生活でも、負の感情みたいなものはすごく大事にしているかもしれないですね。(負の感情について)考えないようにしようと思わないで、それを突き詰めることで解消していくというか。それは音楽に近いというか、そこから目を逸らさないで、むしろ突き詰めていく、そういうようなことですか?

篠村 そうそう。まさにそんな感じ。音楽に限らず、ありとあらゆる芸術表現は、自分の中の暗い部分を、表現することで解決している、昇華していると言えるよね。
 初めましてでしたが、いいお話がたくさん伺えて愉しい時間でした。ありがとうございました。

山本 ありがとうございました。    

(構成・文:篠村友輝哉)

(次回はマリンビストでモデルの野木青依さん)

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山本一輝(やまもと いつき)
5歳よりヴァイオリンを始め、18歳よりヴィオラに転向。クァルテット・インテグラのメンバーとして第8回秋吉台音楽コンクール 弦楽四重奏部門 第1位。併せて、ベートーヴェン賞、山口県知事賞を受賞。キジアーナ音楽院夏期マスタークラスにてクライブ・グリーンスミス氏に師事し、最も優秀な弦楽四重奏団に贈られる"Banca Monte dei Paschi di Siena" Prizeを受賞。フィリアホールや札幌コンサートホールKitara、サントリーホールブルーローズ等、各地で演奏を行うほか、堤剛、山崎伸子、練木繁夫、亀井良信各氏との共演でも好評を博す。ソロでは、横浜交響楽団とのバルトークのヴィオラ協奏曲を共演や、新曲の初演にも意欲的に取り組んでいる。ヴィオラを佐々木亮氏に、弦楽四重奏を磯村和英、山崎伸子、原田幸一郎、池田菊衛、花田和加子、堤剛、毛利伯郎、練木繁夫各氏に師事。サントリーホール室内楽アカデミー第5,6期フェロー。公益財団法人松尾学術振興財団より第29回助成を受ける。桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)及び桐朋学園大学音楽学部卒業。

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篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。自らが企画構成した演奏会も定期的に開催している。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、映画、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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