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【音楽のロマンを探って】山本一輝×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第8回 前編

 前回に引き続き、今回も初めましての方との対談となりました。ヴィオリストの山本一輝さんです。
 山本さんとは面識こそありませんでしたが、この対談企画の第6回のゲスト、濱島祐貴さんから時々彼の話を聴いていましたので、前々からお話をしてみたいと思っていました。今回お願いしようと思ったのも、濱島さんのYouTubeで彼の演奏とお話を聴いたことがきっかけです。前回の五十嵐沙織さん同様、山本さんも快く打診に応じてくださいました。
 現在、クァルテット・インテグラのメンバーとしての活動を中心にされている山本さんは、そのクァルテット内ではもちろん、独奏においても、音楽への愛、ヴィオラへの愛に溢れる、静かな中にも情熱が光る真摯な演奏を聴かせてくれます。
 お話する前は何となく、寡黙なイメージがあったのですが(笑)、演奏同様の真摯さで、穏やかにしかしたっぷりと音楽への想いを語ってくださいました。今回は、一応、「器楽で歌う、語るとはどういうことか」というようなテーマを据えていたのですが、話を進めていくうちに、山本さんの言う「音楽のロマン」を、彼の音楽観を掘り下げながら見つめていくような内容になりました。

山本一輝(やまもと いつき)
5歳よりヴァイオリンを始め、18歳よりヴィオラに転向。クァルテット・インテグラのメンバーとして第8回秋吉台音楽コンクール 弦楽四重奏部門 第1位。併せて、ベートーヴェン賞、山口県知事賞を受賞。堤剛、山崎伸子、練木繁夫との共演でも好評を博す。ソロでは、横浜交響楽団とのバルトークのヴィオラ協奏曲を共演や、新曲の初演にも意欲的に取り組んでいる。ヴィオラを佐々木亮氏に、弦楽四重奏を磯村和英、山崎伸子両氏に師事。サントリーホール室内楽アカデミー第5,6期フェロー。桐朋学園大学音楽学部卒業。

ーー作品が自分の声を引き出してくれる

篠村 音楽が音楽であるのは、それを言葉にできないから、言葉にできるのならば音楽で表現する意味がない、ということは、この対談シリーズでも多くのゲストと共有できたことの1つなんですが、山本くんは、音楽や演奏の醍醐味はどのあたりにあると感じていますか?

山本 例えば演奏するときに、物語みたいなものを想像して作る人がいますよね。それはそれで1つの方法だとは思うんですけど、僕にはそのやり方はしっくり来ないんです。そうすると、「(その音楽が)それ(その演奏者が作り出した物語の通り)になっちゃうじゃん」と思うんです。何が起こるかはやってみないとわからないというところに、音楽のロマンがあると思っています。作品の持っている力を信じて、そこに自分がどれだけ共鳴できるか。結局、自分ではなくて作品がマジックを起こす。そこが面白いところ、音楽のロマンだなと思っています。

篠村 すごく山本くんの音楽への向き合い方は純音楽的ですね。音楽が音楽であることに対して自覚的なんだなということを感じました。「作品がマジックを起こす」というのは、その作品が、(演奏者が)自分では思いがけなかった「声」を引き出してくれるというイメージだよね?

山本 そうです。演奏会は調子のいい時もあれば悪い時もありますが、調子のいい時の感覚は、なんというか、自分がこう、作品の中に入っていくというか。自分から何かを出す、ということは僕にとってはあり得なくて、作品にすっと入っていって、そこに自分の身体や楽器が一体化している、そういう感覚。1曲ずっとそういう状態でいられるというのが、自分にとっての理想です。そういう感覚を得られているときに、「表現している」と感じます。その感覚を得るためには、どれだけ作品を理解できているかーー完全に理解することはできませんがーー、そこに尽きるのかなとも思います。

篠村 すごく共感しながら聴いていました。この対談シリーズの他の方との対談で何度も言ってきたんだけれど(笑)、僕は音楽の一番の魅力の1つは、作品世界と同化したような感覚を得られることにあると思っていて。人は、他なるものとは決して一体になれないものだけれど、音楽を聴いている間だけは、その感覚を得られるというか。演奏中に作品と同化していると感じられているときが一番いい状態というのもよくわかります。楽器も身体の一部であると感じられているのが一番理想的というか、どれだけ「自分が弾いている」ということを忘れられるかというか。

山本 そうです、わかります。

篠村 「弾いている」のではなくて、いい音楽を「聴いている」感覚でいられたら一番いいよね。作曲家も、楽器を身体の一部と捉えて作品を書いていたと思うのね。だから、ある作品をその編成で書いたということには、その作品の本質の一部があると思います。
 僕も、作品が表現していることを最大限に尊重する、作品に命を吹き込んでいくことが演奏家の仕事だと思っているけれど、でもそれは自分が犠牲になっているという感じではないんだよね。よく「音楽に身を捧げる」とか、そういう言葉を使う演奏家もいて、自分も結果的にはそうなんだろうけど、感覚としては、自分の欲求を押し殺して作品に寄り添っているわけではなくて、作品に寄り添うことこそが自分の在りたい姿と言うか。

山本 僕もまったく同じです。犠牲になるという感覚は0で、むしろそうすることで自分自身が解き放たれているというか。

篠村 ところで、山本くんの所属しているクァルテット・インテグラの演奏はとても熱くて素晴らしいですね。すごく素直なというか、4人が飾らない正面からの演奏をしているというか。ちょっとベテランぶってみたりすることがなくて(笑)、自分(たち)に正直な演奏だなと感じます。それで、すごくありきたりな質問なんだけど、クァルテットの中でのヴィオラの役割というのは何だと考えていますか?

山本 それについては、僕もよく考えるんですけど…。それはきっとグループごとにもきっと違うと思いますが、まず音域的・音色的に担っている役割は必ずあると思います。「第3ヴァイオリン」ではなく、ヴィオラであるということ。音色的にどちらかというとチェロの方に近い低音の魅力が求められる、そういうところで勝負できるヴィオリストに憧れます。
 音楽的には、よく第2ヴァイオリンとまとめて「内声」と呼ばれますが、結構立場や役割は(第2ヴァイオリンと)違うような気がします。タッグを組むことも多いですが、特性としては第2ヴァイオリンは音楽を動かしていく力をより多く持っていて、ヴィオラは逆に、音楽を引き止めて広げる力をより多く持っているように思います。
 最近になってすごく思ったのは、クァルテットって、4人が違う方がいいんだなと。1人の人間としての独自性みたいなものが、結局(そのクァルテットの中での)その人の役割なんじゃないのかなと思います。

篠村 そうなんじゃないかなと思っていました。クァルテットって、書法としてもポリフォニックでしょう? 4本の線の動きがよく見えて、もちろんホモフォニックな場面もあるけれど、作品全体としてはその4つの線がどう交わるかというところに面白さがあると思うんです。そのときに、その4つの線がそれぞれ独自の「声」を持っていた方が、クァルテットとして立体的で面白味のある演奏になるんだろうなという感じがします。

山本 そうですね。

ーー「歌う」という感覚がない

篠村 自分の「声」という話になりましたが、山本くんは自分が歌手だったらよかったのに、というようなことを思うことはありますか?

山本 あまりないですね。ヴィオラって、よく「人間の声に近い」って言われるんですけど、僕はそれがいまいちわからないんですよ(笑)。音域的なことでそう言われているのかもしれないですけど。「歌う」っていう感覚が自分にあまりないからのかもしれません。

篠村 「歌う」という言葉にあまりピンとこないというのは面白いね。そういうことを言う演奏家はあまりいないんじゃないかな。もちろん、音楽家は時に歌い、時に語り、時に踊るから、十把一絡げに「この音楽家は歌う音楽家だ」とか言うことはできないと思うけれど、それをわかった上で訊きますが、演奏しているときの感覚が「歌う」でないならば、「語る」であるという感覚はありますか?

山本 確かに、歌うよりは話すという感覚の方が、自分にも「できる」という感じですかね。歌うっていうことは、何だかできないんです。子供の時から、「もう少し歌って」とか言われてきましたけど、「歌う」って何だろうとずっと思っていて。でも、最近になって、歌うことができないなら、(無理に)歌う必要はないんじゃないかなと思ったんです。歌心があるというようなことを言われたこともあるし、歌わないようにしているというわけでもないですが、演奏するということに対して「歌う」という言葉がしっくり来ない、という感じですね。一般的に言う「歌う」ということを、僕もやっているのかもしれないですけど、自分としてはそういう感じではない、というか。だから絶対自分は歌手にはなれないと思うんです、いい声を持って生まれていたとしても。

篠村 やっぱり、山本くんがヴィオラに出会ったこともそうですが、僕たちが楽器を弾くという人生になったことには、運命的な面もあると思うんだけれど、他方で、やっぱり自分が楽器弾きであるということに何か意味を見出そうとしている部分もある。たまたま楽器弾きになった面もあるし、自分の意志で楽器弾きになった面もある。そのときに、歌うんだったら歌手がやればいいじゃないかというか、音楽は当たり前だけど音程があるから、歌うということとは切っても切れないわけだけど、必ずしも「歌」の範疇に収まらない表現が器楽で可能なのではないかということを思っている部分もあるのかもしれないですね。

後編に続く)
(構成・文:篠村友輝哉)

山本一輝(やまもと いつき)
5歳よりヴァイオリンを始め、18歳よりヴィオラに転向。クァルテット・インテグラのメンバーとして第8回秋吉台音楽コンクール 弦楽四重奏部門 第1位。併せて、ベートーヴェン賞、山口県知事賞を受賞。キジアーナ音楽院夏期マスタークラスにてクライブ・グリーンスミス氏に師事し、最も優秀な弦楽四重奏団に贈られる"Banca Monte dei Paschi di Siena" Prizeを受賞。フィリアホールや札幌コンサートホールKitara、サントリーホールブルーローズ等、各地で演奏を行うほか、堤剛、山崎伸子、練木繁夫、亀井良信各氏との共演でも好評を博す。ソロでは、横浜交響楽団とのバルトークのヴィオラ協奏曲を共演や、新曲の初演にも意欲的に取り組んでいる。ヴィオラを佐々木亮氏に、弦楽四重奏を磯村和英、山崎伸子、原田幸一郎、池田菊衛、花田和加子、堤剛、毛利伯郎、練木繁夫各氏に師事。サントリーホール室内楽アカデミー第5,6期フェロー。公益財団法人松尾学術振興財団より第29回助成を受ける。桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)及び桐朋学園大学音楽学部卒業。
篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。自らが企画構成した演奏会も定期的に開催している。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、映画、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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