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【想像力をめぐって】濱島祐貴×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第6回 後編

(前編はこちら

ーー「わからないもの」を丁寧に扱い、どう届けるか

濱島 目に見えないものとか言葉にできないものの面白さを伝えていきたい。そういうものに出会った時、予期せぬことが自分のなかで起きるというか、こういう自分っていたんだって気づくことが面白い。音楽の世界にずっといたり、音楽についてずっと考えていたりすると、煮詰まってくるときがあって、見えているものも見えないものも見えなくなる。そういうときに美術館に行って、音楽とは違う芸術に触れると、自分が裸の状態で、まっさらな状態で作品と向き合える。芸術とは何かと独りでずっと考えていることから離れて無邪気に作品と向き合える自分がいて、こういうことを感じるんだとか、こういうものにこういう感情を抱くんだとか知るときっていうのは、充実した感覚がある。

篠村 僕はやっぱり「わからなさ」をもっと丁寧に扱うべきだと思うんですね。何だかわからないけど面白い、深すぎてまだ完全には理解できない、数年たったらわかるのかも…というように。そういう「わからなさ」を粗雑に扱わないないで楽しむということ。わからないからこそ、想像するわけですし。ところが、今は大抵のことは検索すればすぐでてくるので、そのスピード感に慣れてしまうと、わからないことがストレスになるんでしょうね。だから、わからないものを前にしたときに、「わからないからつまらない」となってしまう。
 今必要なのは、答えではなくて問いだと思うんですね。答えを与えてくれるものもいいんですけど、今もっと必要なのは、やっぱり問いを教えてくれる表現なんじゃないかと。そういう表現に触れると、ものの見方が変わる。安易に答えを求めず、わからないなりにそれを考え続けることの意義を取り戻すべきですよね。ただ、今の時代にいきなり難解なものを提示しても難しいと思いますから、ある意味でのエンターテインメント性とそういう問いの深さをどう両立させていくかということを考えていかなければなりませんね。

濱島 わからないことに対して考える時間をもつ余裕がないんだと思う。それは、物理的に時間がないというのもあるけれど、精神的に余裕がない。でも僕は今の社会を見ていて、セクシャリティとかの多様な価値観を認める社会になっている。いろいろな価値観を認め合おうという時代になってきていて、だから、たぶん僕たちの世代にも自分がわからないものを受け止める度量というものはあるんじゃないかなと。わからないものを認め合うっていうことに敬意を持てるようになっていくといいなと思います。
 僕は学生時代が長かった分、自分と向き合う時間はたくさんあったけれど、逆に社会の流れに置いていかれた部分があると思っていて。いま学生が終わって、音楽をどう発信していくかということを考えるようになった。発信するということは受信する人のことを想像して、それに見合った発信の仕方を考えるわけだけど、自分が発信しようとしている人たちっていうのは、速いスピードの社会で生きている。だからそのスピードの時間の流れを体感したり想像する必要があって、ただ音楽をやればいいということではなくて、自分の音楽とその人との接点を自分でつくっていかなければいけないなと思っています。

ーー自分に見えている世界の小ささを知る

篠村 受け手のことを想像するということで、僕が懸念していることなんですが、音楽家、というか音楽界の見ている世界が、文学者や美術家に比べて狭いのではないかということです。現実社会でいま何が起きているのかということに対する興味や関心が薄いというか。そうすると、音楽にある程度理解がある人にしか表現が届かなくなると思うんです。やっぱり音楽の扉を開いていくためには、音楽的な素養がない人の心にも届けることを考えなければならないと思うのですが、そのときに、現実の社会で何が起きているのかということをよく知らない人の音楽や演奏にリアリティを感じられるのか。ただとにかく音楽は素晴らしいんだと言っているだけではだめで、今の人たちが何に苦しんでいるのか、そういう時代に必要とされている表現って何なのかと、自分も聴衆になったつもりで考えなければならないと思います。

濱島 でも、音楽だけと向き合っている人の表現も心を打つことがある。それはなぜかというと、その人の音との向き合い方、音楽との向き合い方に、真摯さというか、そういうものがあるからだろうなと思って。例えば自分の作品が、他人がどう感じるかとかどう伝わるかとかすごく考えて書いたとしてもまるっきり伝わらないということもあるけれど、それでも常に真摯である、素直であるということはすごく大事な気がしています。

篠村 社会からある意味距離を置いて音楽にすべてを捧げている人の表現が現代人に届くというのは、時代の空気というのを、その鋭い感性ゆえにやはり肌で感じ取っているからだと思います。それは、それだけ真摯に向き合っているから、感性も想像力も磨かれているということなんでしょうね。

濱島 自分は周りが見えていない、ということに対する自覚とか焦りが、せめて自分の音楽には真摯であろうということに繋がれば、それもそれで一つの答えなのかなと思います。

篠村 僕がよく思うのは、自分の知っていることの少なさをどれだけわかっているかということが重要だと思うんですね。そうすると、知らないからこそ想像する。自分の見ている世界がすべてだと傲慢になると、想像力も萎んでいきます。真摯であるということは、ソクラテスじゃないですけど(笑)、自分の無知さを知るということです。それが、想像の原点だと思います。

濱島 自分でもあるんだけど、世の中のことに興味が持てなかったり、いろいろな情報とか知識を得ようとしないときって、世界全体を自分がわかったような気になってしまっていて、だから自分の知らないことに目を向けなくなる。たくさん知識をもっていたり視野が広い人って、すごく貪欲で、それはたぶんいろいろなことを知れば知るほど、自分が知らないということを強く自覚するようになるんだろうなと。僕はまだそこまでいけてないんだけど(笑)、きっと知れば知るほど知らないという自分を知るんだろうし、そういう人ほどどんどん視野が広がっていくんだろうなと思います。

ーー作曲家、演奏家が自分では気づいていない魅力

篠村 「音楽から受け取ったメッセージは錯覚に過ぎない」という音楽観の方がいます。音の向こう側にあるものをこちらが想像したとしても、それは作曲家の意志とは関係ないと。でも、僕はそう言い切ることはできないと思います。僕は、例えば濱島さんや向井響さんの作品、寺内詩織さんの演奏についてエッセイを書いて、確かにご本人は必ずしも意図しなかったことを感じている部分もありますが、ご本人から「意図していたことが伝わっていて嬉しい」「作曲時の胸の裡を見透かされたような」という反応をいただいた経験があります。だから、「錯覚」と言われてしまうと腹が立つというか(笑)。
 濱島さんは作曲者として、このあたりのことをどうお考えですか?

濱島 僕は(自分の意図は)必ずしも理解されないだろうと思っていて、そのことに対して悲観的ではない。この前、ヴィオリストの山本一輝君との対談で、(そこはカットしてしまったんだけれど)作曲家が書いたプログラムノートを演奏家はどう受け止めるかという話をしたんだけれど、僕はプログラムノートというのは「答え」ではないと思っていて。作品というのは、作曲家が終止線を引いた時点で作曲家の手から離れて独立した存在になると僕は思っている。(だから)プログラムノートというのは、作曲家の視点から見た作品の側面であって、たとえ演奏家が楽譜を見たり練習して感じ取るものがプログラムノートに書いてあることと違ったとしても、それはそれでもうひとつの答えというか。それは聴衆が受け取るときでも同じ。だから僕は、作品のいろんな部分にスポットライトを当てて、自分が気づかなかった作品の魅力に気づかせてくれることは嬉しいと感じています。
 共感って、その人と考えていることと一緒になるというイメージがあるけれど、それって結局自分のなかで生み出しているものであると思っていて、「自分のなかに見出したその人との接点」というのが共感なのかなと。だから、本人が意図していないことが出てくるのも当然というか。優れた音楽家って人間として素晴らしいと僕は思っていて、その人自身にいろいろな魅力がある。本人では気づいていない、いろいろな面があるから、(聴く人によって違う)たくさんの魅力が見つけられるのかなと思います。

篠村 自分のことって自分が一番わかっているように思いますけど、第三者の視点で眺めた時に初めて浮かび上がってくるその人の魅力というものがありますよね。結局、それだと思うんです、表現者の意図せざる魅力というのは。寺内さんとの対談でも言いましたが、作曲した本人は気づいていないけれど、第三者ーー演奏者や聴衆ーーから見た時に見えてくる部分がある。それは、作曲家が気が付いていないということであって、その作品になかったもの、演奏家や聴衆が付け加えたものではない。滲み出てくるものというか、意図的に表出しているものではないから、自分では気が付かないけれど他人に伝わる。だから、本人が意図しなかったものを受け取っても、コミュニケーションが成立するんですね。やっぱり、「錯覚」という言葉は適切ではないと思います。

ーー音楽は「あなたただ一人のために語りかけている」

篠村 さっき孤独という話が出ましたけれど、芸術に携わる人は、人間の弱さや傷つきやすさを深く理解している必要があると思います。自分が今この時代を生きていることをどう納得するのか、というようなことを考えてしまうときに、芸術って求められると思うんですね。そのときに、表現者が人間の弱さに通じていないと、受け手を実存の危機から救い出すことはできない。

濱島 優等生でありたいというか、「間違えない」っていうことが強さであると思っている人って多いと思うんだけど、確かに完璧を目指すっていうのは、1つの長所みたいなものに繋がることはあると思う。でも、(さっきも話になったように)自分が知らないっていうことを知っているということが、僕は人間として一番強いと思っていて、だから完璧でいることが強いんじゃなくて、完璧ではいられない、完璧にはできないということを知って、それを認めているということが人間的に一番強い。誰も理解できない苦しみに想像を巡らせるっていうときに、共感なんていうたやすい言葉は使えなくて、ただ思いを寄せることしかできない。どういう苦しみを味わったのかと(自分の中で)考えることしかできない。芸術がそういう部分(相手にしかわからない内面)に寄り添うというのは、そういうことなのかなと。

篠村 本当の意味で寄り添うということは、相手の苦しみとか弱さは相手にしかわからないということを受け入れるということで、わからないまま、ただ寄り添う。そのときに、自分自身の弱さを知っていないとそれができない。自分のことも相手にはわからないし、相手のことも自分にはわからない。そのわからなさを丁寧に扱いながら、想像する。それが寄り添うということで、音楽は、そういう寄り添い、コミュニケーションができる可能性を持っていると思っています。それは作曲家に演奏家が向き合うときもそうだし、聴衆に音楽家が向き合うときも。

濱島 指揮者のユーリ・テミルカーノフがチャイコフスキーのオケを振ったときのインタビューで、「チャイコフスキーの音楽は、聴衆全員に向かっているのではなくて、あなたただ一人のために語りかけているのです」って言っていて。それがすごく印象的で、芸術音楽全般を指し示している言葉だなと思った。オーケストラって何千人と入る会場で演奏していて、演奏者の数も多くて大人数っていうイメージがすごくあるけど、作曲家はオーケストラの作品であっても、一人に語りかけている。その「語りかけている」っていうのもそうだと思うし、聴衆もすごく能動的に、個人として音楽に向き合っている、そういうコミュニケーションの上で成り立つ表現の豊かさをテミルカーノフは言っているのかなと思って。

篠村 すごくいい演奏を聴いているときって、文章に書いたこともありますけど、自分と音楽だけが世界に存在している感じというか、周りに何もなくて、自分と音楽だけがその静謐の空間にいるというか、そういう感覚になるんです。いまのお話を聴いていて、その体験を思い出しました。

濱島 本当にそれは、自分が生きている意味すらも感じさせる、かけがえのない瞬間だなと思います。

篠村 今、分断が煽られていますが、やっぱり相手の状況や心情を想像するということが人間の繋がりを生むと思うんですね。理解できないようなことが起こったときにも、立ち止まってその背景に想像を巡らせる。そういう想像力に繋がるのが芸術です。特に音楽は、その不可視性ゆえに、想像力に訴え、「ただ一人のために」寄り添ってくれるものがあると思います。

濱島 見えないものを扱っているから、寄り添えるのかなと思うよね。

篠村 本当に。今日はありがとうございました。

濱島 ありがとうございました。    

(構成・文:篠村友輝哉)

*次回はピアニストの五十嵐沙織さん

*濱島さんの二胡協奏曲についての篠村のエッセイも、併せてお読みいただければ幸いです(こちら)。

濱島祐貴(はまじま ゆうき)
1993年東京都生まれ。桐朋学園大学音楽学部作曲専攻卒業。同校研究生を経て、桐朋学園大学院大学(修士課程)修了。第25回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位。これまでに桐朋学園主催作曲作品展、Nong Project(韓国ソウル)、調布音楽祭、桐朋学園オーケストラ定期演奏会、音大作曲科交流演奏会、7人の作曲家展等において作品を発表。
作曲活動の傍ら、中国の擦弦楽器 二胡の演奏者として、慰問演奏から新作初演まで幅広く活動。第13回長江杯国際音楽コンクール民族部門、および第11回大阪国際音楽コンクール民俗楽器部門に第2位(1位なし)入賞。2015年、台湾にて劉天華の生誕120周年を記念した演奏会にゲスト出演。2019年、山下一史指揮 桐朋アカデミー・オーケストラとの共演で自作の二胡協奏曲を初演、自らソリストを務める。
これまでに作曲を石島正博、二胡を許可(Xu Ke)、ピアノを吉田真穂、岡田博美、鶴見彩の各氏に師事。Lei Liang、Stefano Gervasoni、Tambuco Percussion Ensemble、野平一郎各氏のレッスンを受講。
作品と演奏は、YouTubeおよびSoundCloudにて視聴可能。HP▶︎ http://yukihamajima.mystrikingly.com

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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