見出し画像

孤独ゆえの輝き――濱島祐貴の二胡協奏曲「Altair」

 この世界は、一人の人間が向かい合うにはあまりに広い。
 宇宙という途方もなく広大な空間にあるこの地球という星に、いま自分が存在していることの不思議。
 本当に自分は、「いまここ」に存在しているのだろうかという不安。
 世界の広さを前に、心は常に震え、慄いている。……
 存在をめぐる様々を述べたもののようだが(実際そうでもあるのだが)、これは、濱島祐貴さんの二胡とオーケストラのための協奏曲「Altair」を聴いていて浮かんだ言葉である。彼自身がソリストを務めた初演の録音を聴いた。共演は山下一史指揮桐朋オーケストラアカデミー(桐朋学園大学院大学)。
 タイトルの「Altair」は、鷲座の中で最も明るく、夏の大三角形の形成する恒星の1つの名前で、その語源は、アラビア語で「飛翔する鷲」を意味するという(本人解説より)。富山の地で空を眺めながら、大空を翔る鷲の姿に自らの姿を重ねて作曲したと彼は言う。それは言い換えれば、広い空を翔る鷲に、この世界に投げ出された彼自身の孤独を見たということだろう。
 曲は、決然とした、気魄に満ちたティンパニの強打によって始まる。そこから早くも二胡の音がまっすぐに立ち昇り、それが管弦楽の厳しくも柔らかい響きに包まれると、夾雑物のない透き通った静謐に満たされる。
 濱島さんの作品からは、音の行く末に粛然と耳を傾ける営みが感じられるが、この協奏曲の静謐は、これまでにはなかった類のものではないだろうか。それには、この作品が、都会を離れた富山という土地で作曲されたことも影響しているのかもしれない。協奏曲らしく二胡が技巧的なパッセージを聴かせたり、オーケストラとともに大きな盛り上がりを見せることもあるが、決して華美にはならなず、どの瞬間においても切り詰めた響きを破らない。
 作曲においては、本作もそうであるように、吟味された一音一音を慎重な集中力をもって五線に置く濱島さんだが、演奏者としては、ある意味対照的に、感興を大胆に迸らせてゆく。以前彼は、弦楽器の音は人の声に喩えられる一方で、物体同士の摩擦を発音のきっかけとしているがゆえに、掠れるような、ノイズや痛みのような音をも発する、それが人間の光と闇を演じているように感じられる、ということを話していた。一心不乱に擦られる二胡の音はそのまま、彼の心が軋む音でもあるのだろう。
 カデンツァでは、憑かれたように一層没入を深め、軋みが激しさを増す。しかし、その軋みは、絶望へと向かうものではない。彼の演奏する音の身振りは、希望を探し求め、もがいているように感じられ、その軋みから生まれる熱が、こちらの心をも燃え立たせる。
 カデンツァの終わりに、いつ入ってきたのかが曖昧なほど、フルートが二胡の音にすっと寄り添う。そこから幻想的な音が立ち込め、清澄な空気の中を漂っているような感覚がさらに満ち溢れ、曲中にかたちを変えて何度か歌われた、何かを希求するような旋律が遠くから聞こえてくると、突如、トゥッティが激甚な響きを轟かせる。そして、その残響が曳いてゆくなかで、星々が鏤められ、二胡の音が天高く消えてゆく。……
 広い大地を見霽(みはる)かすような二胡の音が、孤独ゆえに輝いている。    

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?