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【想像力をめぐって】濱島祐貴×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第6回 前編

 今回も作曲家の方にご登場いただきました。二胡の演奏家でもある濱島祐貴さんは、学年は1つ上ですが、普段からとても親しく、また尊敬している畏友です。お話するようになり始めた頃に、前回の向井響さんと3人で焼き肉を食べながら音楽談義をしたことを、時々懐かしく思い出しています。
 音の行く末に粛然と耳を傾けているような作品に感銘を受けてきましたが、意外にも初共演はつい最近、昨年の春のことでした。その共演もとても愉しい時間だったのですが、年末の共演ではさらに、誰かと合わせているということをほとんど意識せずに、濱島さんの二胡と一体となって音楽を共有できたと感じる瞬間があり、幸せな時間となりました。ごく最近では、昨年初演された二胡協奏曲についてエッセイも書きました(こちらからお読みいただけます)。
 普段からこういう話をしているので、改めてテーマを設けるのが難しかったのですが、今回は、芸術表現の源泉である想像力をテーマに据えつつ、多岐にわたって濱島さんの思索を伺うことができました。


濱島祐貴(はまじま ゆうき)
桐朋学園大学音楽学部作曲専攻、同研究生を経て、桐朋学園大学院大学(修士課程)修了。国内外で作曲作品を多数発表する傍ら、中国の擦弦楽器 二胡の演奏者として慰問演奏から新作初演まで幅広く活動。第25回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位。第13回長江杯国際音楽コンクール民族部門、および第11回大阪国際音楽コンクール民俗楽器部門に第2位(1位なし)入賞。

ーー経験と想像力

篠村 キェルケゴールは、『死に至る病』のなかで、「或る人がどれだけの感情・認識・意志をもっているかということは結局その人がどれだけの想像力をもっているかという点に懸っている、換言すればその人の知・情・意の作用がどれだけ反省されているかすなわち結局想像力のいかんに懸かっているのである」と言っています。人間力とは畢竟、想像力であると言うんですね。そして私たちが関わっている芸術表現の源は、想像力です。今日はその想像力をめぐってお話ができればと思います。
 まずは、経験と想像力の関係についてから話を始めたいと思います。人ができる経験ってすごく限られていますよね。一生のうちに出会える人の数も限られていますし、育った環境、経済的状況などで現実の人生でできる経験というものには個人差がある。でも芸術は、実際の人生ではできなかった経験を、想像上でさせてくれるものだと思うんですね。

濱島 描こうとしているものとか聴衆と一緒に経験を共有しようと思っていることって、直截的にダイレクトに描けばいいってことではなくて、いつの時代の人が聴いても共有できる価値っていうものを(表現の内に)持っている必要がある。作品に描こうと思っていることと同時にそういう普遍性を持っておく必要があると思っていて。僕はそれがなぜコンポジション、構成するということが必要なのか、なぜ作曲するのかという問いに対する1つの答えだと思う。作曲って、自由に音符を書けば音楽になるけれど、なんで音楽に秩序があるかとか、音の文法的な手続きみたいなものを踏まなきゃいけないのかというと、それがその普遍性を生み出す部分だからで、それを技術として作曲家は学んでいる。だからこそ、どういう状況の人にも(作曲家と同じような経験をしたことがない人にも)伝わる部分があるのかなと思っています。

篠村 なるほど…。仰る通りですね。非常に濱島さんらしいお言葉です。
 そのようにして、芸術は経験できなかったことを経験させてくれるわけですが、とはいえ表現者自身もいろいろな経験をしなければなりません。いろいろなことを知り、経験し、多面体でいなければならない。
 他方で、経験したことしか表現できないというわけではないと思うんです。例えば、ドビュッシーが「グラナダの夕暮れ」を、スペインには数時間滞在したことがあるだけなのに書いて、スペインの作曲家のファリャに「スペインを見事に描いている」と評されました。他にも、平野啓一郎さんの『決壊』という小説に、子供を殺された親の心情が書かれている場面があるのですが、当時平野さんはまだ結婚もされていなくてお子さんもいらっしゃいませんでしたが、結婚してお子さんが生まれてからそこを読み返すと、今書いたとしてもこうしか書けないだろうと感じるくらいよく書けていると自分で感じたそうです。逆に、いまは子供がいるから、そういう心情を書こうとしても途中からおかしくなって書けなくなると思う、とも仰っていました。だから、経験してないから表現できることもあるんだと。まさに想像力ですよね。芸術家たるもの(笑)、経験していないことを想像してそれを表現できるかということも勝負だったりするのかなとも思います。

濱島 僕は、自分が作品を書く上で、経験したことを描こうとしているということはあまりなくて。もちろんひとつの経験が、作品の発想の源になっていることもあるけど、いろいろなことを経験していくと、その中で自分がものごとをどう捉えてどう受け止めているのかということがはっきりしてくると思う。それを視座と呼ぶのかもしれないけれど、その視座が、作品を創る上で一番重要な部分なのかな。経験は過去のことだけど、経験を経て未来のことを想像することもあるし、その人にしかないものを培うものとして経験があって、それが視座とか視点になる。特に現代曲を聴くときは、いまリアルタイムで起こっていることをこの人はどう捉えているのか、そういうことに興味を持って作品を聴いていることがあって。

篠村 わかります。

濱島 そういう「視座」というのはひとつキーワードなのかなと思います。

篠村 経験ってむしろ、経験していないことを想像できるさせてくれるものなんですよね。
 経験と想像力に関連して、もう一つお話したいのですが、アロノフスキー監督の『ブラック・スワン』という映画がありますよね。自分が演じる役へ没入しプレッシャーのあまりに精神を崩壊させていってしまうバレリーナの話です。そんなに負担ならやめればいいじゃんという話ではなくて、それでも真に迫った表現をしたいという思いがある。そういう表現をするためには自分を追い込む必要もある。そういう危うさって、表現にのめり込む人にはどこかで心当たりがある話ですよね。表現のために経験が必要なのはもちろんですが、ある程度はそれこそ想像で補わないと、自分自身がもたなくなります。濱島さんは作曲されるなかで、そういう危険な状態になることはありますか?

濱島 僕はその典型な気がします…(笑)。短期集中型、向き合うべきことには短時間で向き合おうという悪い癖があって。僕は料理と食べることがすごく好きで、普段の生活でかなり大切にしている時間なんだけれど、作曲が佳境に入ってくると、そこにかける時間すらもなくなって、「どうでもいいや」となってしまう。生活習慣が荒れだして、人と会話するのも負担になるときがあって、(周りの人にも)作曲してないときは「健康だね」と言われて(笑)。それは「作曲しろよ」というメッセージでもあったりするんだけれど(笑)。

篠村 音楽を書くことでそういう危機を克服しているという面もあるんだと思うんですが、表現のために自分自身も滅ぼしてしまうこともあります。表現って、すごく危ないことでもあるんですよね。自分が保てなくなったら表現も何もなくなってしまいますから、気を付けたいところですね(笑)。

ーー孤独を見つめ直す

濱島 いま、特に若者って、生きる意味を見失いやすいというか、たぶん昔(の人)よりそういうところが多いんじゃないかな。僕自身もそういう経験があって、それを僕は音楽で救われたんだけど、なぜそういうことが起きるのかっていうと、やっぱり情報化、ネットの影響は大きいと思う。みんな同じネットの世界で同じように生きているから、自分らしさとか自分の個性に気づきづらい。だからみんなと同じ価値をもっていないと不安という感情が生まれてくると思っていて。自分で情報を選択できるから、興味のないことに目を向けなくていいし、そうなってくると自分の視点が狭まってきて、極論かもしれないけど、便利になるということは不便であったときにできた経験が減っていくことでもある。だから想像力も減っていく。

篠村 想像力っていうのは本当に広がっていくものなのに、それが消費されている感じがします。人間の悲しみや喜びっていうのは、本当は一度体験すると何日も反芻される、つまり想像するものだと思うんですが、それが一時の感情の処理のために消費されてしまって、そうするとやっぱり疲弊していってしまう。同じ図式で、ネット、特にSNSは、一見孤独や欠乏感を忘れさせてくれるもののように思えますが、のめり込むほどにその一時の孤独の忘却を追いかけ続けて、知らぬ間により大きな欠乏感を生んでしまうと思うんですね。
 孤独というのは人間の宿命だというのが僕の思想です。孤独だからこそ、相手の孤独を想像する、それが人のあたたかさだと思うんです。自分の孤独をどれだけ知っているかということが、相手の孤独を想像する原点だと思います。それはシューベルトやペヌティエの音楽から教わったことでもあるのですが、現代人はもう一度自分の孤独を見つめ直す必要があると思います。

濱島 僕は孤独は楽しいと思っていて(笑)。

篠村 わかります(笑)。

濱島 一部分でね(笑)。孤独って、この時代に捉えられているほど深刻な問題ではなくて、当たり前のことというか。だけど、SNSとかで孤独を塗りつぶして見ないようにしているから、それが爆発した時に受け止められなくなってしまうということが起きている。僕は絶対に、人は(完全には)分かり合えないと思っていて。

篠村 そうです。僕もいろいろなところで書いたり話していることです。

濱島 だからこそ想像する。僕は理解できないものに出会うと興味がわく。もっと知りたいっていう気持ちになるし、自分と違うものを持っていたり考えている人がいると、それが何なのかと興味がわく。それってある意味孤独を楽しんでいることになるんじゃないかなと。それは音楽を聴くときにもそうで、もしかしたら芸術音楽が受け入れてもらえないことの1つには、孤独の回避というものがあるんじゃないかなと感じています。

篠村 昔は、自分の私的領域というのは秘せられているべき、見られたくないものだったのですが、いまは私的領域が見られていないと不安になるということが起きています。大澤真幸さん(*社会学者)の指摘ですが、SNSやブログでなんでもない日常をシェアするということはそういうことで、見られていないことの方が不安なんですね。ということは、見られていない孤独な時間というものが少なくなっているということです。すべてが公的になってしまっていて自分だけの時間や空間が少ない。そうすると孤独を内省する時間も当然なくなります。    

後編に続く)
(構成・文:篠村友輝哉)
*濱島さんの二胡協奏曲「Altair」についての篠村のエッセイも、併せてお読みいただければ幸いです(こちら)。


濱島祐貴(はまじま ゆうき)
1993年東京都生まれ。桐朋学園大学音楽学部作曲専攻卒業。同校研究生を経て、桐朋学園大学院大学(修士課程)修了。第25回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第1位。これまでに桐朋学園主催作曲作品展、Nong Project(韓国ソウル)、調布音楽祭、桐朋学園オーケストラ定期演奏会、音大作曲科交流演奏会、7人の作曲家展等において作品を発表。
作曲活動の傍ら、中国の擦弦楽器 二胡の演奏者として、慰問演奏から新作初演まで幅広く活動。第13回長江杯国際音楽コンクール民族部門、および第11回大阪国際音楽コンクール民俗楽器部門に第2位(1位なし)入賞。2015年、台湾にて劉天華の生誕120周年を記念した演奏会にゲスト出演。2019年、山下一史指揮 桐朋アカデミー・オーケストラとの共演で自作の二胡協奏曲を初演、自らソリストを務める。
これまでに作曲を石島正博、二胡を許可(Xu Ke)、ピアノを吉田真穂、岡田博美、鶴見彩の各氏に師事。Lei Liang、Stefano Gervasoni、Tambuco Percussion Ensemble、野平一郎各氏のレッスンを受講。
作品と演奏は、YouTubeおよびSoundCloudにて視聴可能。HP▶︎ http://yukihamajima.mystrikingly.com

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。
https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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