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【古典を見つめ直す】寺内詩織×篠村友輝哉 「音楽人のことば」第1回 後編

(前編はこちら

ーー演奏家の個性

篠村 楽譜に忠実に、とは僕も思っていて、楽譜から大きく逸脱してはいけないと思います。作曲者は自分ではありませんから。だけど、演奏家が無個性になっていいということではない。では、演奏者の個性とは一体何なのか? 単純に言えば、別の人間が弾いている時点で、おのずとそれぞれ違った表現になり、それが個性、ということなのですが、こういう風にも言えると思います。
 作曲家は道をつくって、いろいろな景色を見せてくれるわけですが、その道には、開拓した本人が気づいていないかもしれない景色や、花が咲いていたりすることがあるんですよね。演奏者は、作曲者ではないからこそ、それを見つけることができる。それが、様々な人が演奏する意義でもあると思うんです。名作には膨大な、それも偉大な録音もたくさんあるのに、なんでわざわざ現代の人が演奏するのかというと、やっぱりその作品にまだ新たな魅力があるからというのがある。作品に新鮮な命を吹き込んでいくことが演奏家の役割で、引き出してくる魅力の違いが、演奏家の個性だと言うことができるとも思います。
 演奏家の個性というものを、寺内さんはどう考えていらっしゃいますか?

寺内 すごく難しい問題だよね。学生のころからずっと悩んでいる話なんだけど…作曲者が意図したことを再現しなさいと言われて育つけど、演奏会やコンクールでは演奏者の個性も求められる。作曲家の意図を汲みつつ自分の個性も出していくというのは、本当に微妙なバランスを保っていないと崩れるものじゃない?

篠村 そうですね。

寺内 ただ、いつも思っているのは、やっぱり最初は楽譜通りに弾いてみる。作曲家が書いた通りにまずやってみる。そこから、毎日練習していると、(自分なりの)いろんなアイデアが浮かんでくる。作曲家がこう書いているけどそうかな?と思ったり。そういう発見をするためには、楽譜通り弾くという作業がやっぱり必要。
 それから、やってることは楽譜に書いてあることだけれど、スラーの掛け方とか運指の違い、ペダルの踏み方とかは人それぞれ違って、そういう細かい技術も個性の1つ。それらは、私たちみたいに専門的な教育を受けた人でないとわからないレベルのことだけど、個性に繋がっている。

篠村 つまり、専門的にやっている人が聴けば、どのようにしてその個性が生まれているのか、分析できるけれど、そうでない人も、その工夫には気が付かないけれど、演奏者間の差異、つまり個性には気づき得るということですね。

寺内 そうそう。「ああG線で弾いてないな」とか、そういうことまではわからないけれど、音色が違うなとか、この人の方が好きだなということは、専門家でなくてもわかる。そういうものが個性なのかな。

篠村 そういう、高等な技術で生み出されているけど、それに気づくことなくというか、難しそうとか複雑だとか思わないで単純に素直に感動できるものが、優れた芸術だと思います。僕みたいに専門的にやってる人間でも、ものすごく心動かされたときって、そういう技術的なことはまったく忘れて、音楽の世界だけにのめり込んでしまいます。

ーー作品についた手垢を落とす

篠村 古い作品ほど、作品に手垢がついていきますよね。必ずしも楽譜には書かれていないけれど、歴代の演奏家によってそう弾かれてきたことが慣習になっていたり。それを取り払って、古い作品であってもいま書かれた新作のように作品に接することが大切だと思うのです。

寺内 それこそが本当の意味で楽譜に忠実に向き合うということだよね。あまり弾かれない曲の方が、楽譜から入っていけるけど、逆に、例えばこの間のシャコンヌ(*バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終楽章)なんかは腐るほど弾かれていて、どうしても自分の音楽というものが保ちづらい。どうしても聴いてきたもの、教えられてきたものに引きずられてしまう。だから常に楽譜に戻るということを意識している。今年から始まるベートーヴェンのソナタ全曲演奏会シリーズ(6月13日追記:昨今の状況を受けて中止が決定)に向けても、自筆譜から見直したり、資料を調べたりして…そのなかで自分の思うことを見つける。ただ、その慣習を頭に入れておくことも大事。なぜみんなそう弾くのかを考えて、それで納得できれば、自分の演奏にも取り入れる。

篠村 過日のシャコンヌの演奏は、この曲がダンスだということに改めて気づかされる演奏でした。この楽章はどうしても精神性の深みの方に注目してしまいがちだけど、舞曲の律動が感じられて、本当に手垢が落とされていました。

寺内 シャコンヌっていうのはもともとはチャコーナっていうスペインのダンスで、私はスペインに留学していたから、スペイン人というのをよく知っていて。スペイン人は本当に踊るのと歌うのが好きという印象があって、学校の横にある広場でも、定期的に町の人がみんなで、結構激しく踊ってる。だから、そのチャコーナとしてのかたちを取り戻したかった。それに、パルティータは舞曲の集まりだから、一曲一曲の舞曲のキャラクターを出していかないといけない。そこでシャコンヌだけ舞曲調で弾かないというのは、どうしても自分のなかで許せないというか。
 実は大学の卒業演奏会でもシャコンヌを弾いたんだけど、そのときもああいう感じで弾いて、「変わったシャコンヌ」ですねって言われたんだよね(笑)。

篠村 えぇ、そうなんですか(笑)!

寺内 やっぱりみんな(他の人の演奏を多く)聴いてるからね。

篠村 でも、そういう信念の強さみたいなものがないと、説得力が生まれませんよね。

寺内 私たちは表現者だから、自分がこうって思わないと、伝わらないよね。

ーークラシック音楽、古典を聴くことの価値

篠村 これは小説家の平野啓一郎さんが言っていたことですが、今はすべてが「不滅の小説」の時代だと。昔は、読まれないものや駄作は絶版になって自然淘汰されていたけれど、ネットが登場したことで、どんな駄作でも、読まれなかった作品でも、堆積し続ける。未来永劫、データ上に出たものは残り続けるから、本を読むときの選択肢はこれから無限に増え続ける、増え続けてしまうと言っていて、まったく音楽業界も同じだなと。ポップスなんかはクラシック音楽よりもはるかに速いスピードで生み出され、世に出ていて、データ上に蓄積されます。そうすると、音楽を聴くときの選択肢として、クラシックが埋もれがちになる。私は古典もコンテンポラリーも聴かれるべきだと思いますが、古典がなかなか聴かれにくいのも、コンテンポラリーはもっと聴かれにくいのも、こういうことが背景にあると思います。

寺内 CDだったら廃盤になったりとかーー特にクラシックは廃盤になりやすいけど…ーーあるけど、データはそういうことがないからね。本当の意味でいい作品がピックアップされにくい時代なんだよね。クラシックをやってる人間としては、その選択肢のなかから選ばれているのがほとんどポップスというのは悔しい(笑)。

篠村 近代ーー1900年代初頭くらいまでの音楽、(広い意味での)古典を今聴いて心が震えるってすごいことだと思うんです。例えば自分の苦しみが周りに理解してもらえないときに、それこそバッハとかを聴いて、「ああ、みんなはわかってくれないけどバッハがこの苦しみを包み込んでくれる」と感じられること、時代も国も遠く離れた音楽を今聴いて、安っぽい癒しなんかじゃなくて、救済を感じているというのは、やっぱり何か特別な感慨がある。一度その体験をしてしまうと、もうのめり込んでいくしかないし、それを知らないのは、押し付けがましい言い方ですけど、ちょっともったいないなと思ってしまいます(笑)。

寺内 私はいろいろ悩んだときはやっぱりバッハを聴いちゃうんだよね。ヴァイオリンの曲だけじゃなくて、受難曲とかも…それでいろいろ整理されるというか、精神が安定するというか…それはバッハに限らず、クラシック音楽全体に言えること。
 今は聴き手が新しいものを次々と求めている時代じゃない? 特に日本人がそういう感じがするんだけど…古いものを聴きこんでいくよさとか、そういうものに精神的な落ち着きを求めるとか、そういう感覚自体が現代人にはあまりないのかなと。日々いろいろな新しいものが売られて買われている時代で、音楽も大量生産のようになってしまっていて、だから、ポップスがすべて悪いと言うつもりはないけれど、同じように聞こえるポップスが多い。「現代音楽」がわかりにくい一方で、逆にポップスはわかりやすさを極めている印象がある。だから人気があるんだろうけど、たまたま歌詞でヒットするとか、大御所が歌ってるからとか、その売れてる、流行ってる理由がすごくつまらない。(そのなかで)クラシックの奥深さを知ってもらうにはどうしたらいいのか、日々思うけどね(笑)。

篠村 それはすべての音楽家が考えるべきことです。現代人は、その時々の流行りに乗ることで、自分が安定しているという幻想を抱いているようなところがある。その場しのぎ的なものが連続しているだけで、根底にはストレスや、鬱屈したものがあるのに、流行りに乗ることでそれを見ないようにしているというか。でも、クラシックには、その根底にある鬱屈としたものを融解してくれたり、逆にそれを見つめさせたりするものがある。

寺内 モノも音楽も溢れている時代で、主体性が失われているような気がする。いまトイレットペーパーが大量に買われている問題があるけれど、あれを見て、(現代人は)本当に自分でものを考えないんだなと。普通に考えれば、マスクとトイレットペーパーの原材料の違いくらいわかるはず。パッと見た情報にいつも踊らされていて、それは音楽でもそう。いいか悪いかを自分で判断していなくて、SNSのいいね!の数とか売れているとか、周り全体がいいって言ってるものが、いい。そういう時代にクラシックは難しい。クラシックは個人の何かに訴えるものだから、ものを考えない習慣になってしまっている現代人にとっては、受け取りずらいのかもしれない。

篠村 結局芸術って、なかなか世の中に馴染めないと感じている人にこそ開かれている面があるとも思うので、難しいところですね。それにしてももう少し注目されてほしいとは思いますが…(笑)
 でも、現代に生きる人の何割かは、古典(広い意味での)を演奏し、聴くことで救済されている。ということは、クラシック音楽は十分現代的だとも言える。数百年前の作品でも、共感し理解でき、まだ新たな魅力が見出せるということは、どこかで問題意識が共通しているということですから。人口のなかで、クラシックが好きだという人の割合は確かに小さいものかもしれない。でもその人たちは心の底からクラシック音楽を必要としている。そのことに希望を持っていないといけませんね。

寺内 そうだね。本当にそう。

篠村 話は尽きませんが、いろいろなお話が伺えて、楽しかったです。ありがとうございました。

寺内 こちらこそありがとう。楽しいお話でした。

(構成・文:篠村友輝哉) 

*次回はピアニストの守永由香さん

寺内詩織(てらうち しおり)
桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学、同大学ソリスト・ディプロマコース、スペイン(マドリード)のソフィア王妃高等音楽院、桐朋学園大学大学院修士課程を修了。これまでに、ヴァイオリンを故工藤千博、辰巳明子、ザハール・ブロンの各氏に、バロックヴァイオリンを戸田薫、寺神戸亮の各氏に師事。
全日本学生音楽コンクール、日本音楽コンクール、東京音楽コンクール、ヴィエニアフスキ&リピンスキ、レオポルト・モーツァルト、フリッツ・クライスラー、シュポア、ボリス・ゴールドシュタイン等、数々の国内外のコンクールにて入賞。東京交響楽団、ブルガリア国立ソフィアフィルハーモニー、ニューヨークIMFオーケストラ、桐朋学園オーケストラ等と共演している。
シャネル主催「ピグマリオン・デイズ」のアーティスト。
オリジナル楽器オーケストラ「バッハ・コレギウム・ジャパン」のメンバー。
徳島県より「とくしま芸術文化奨励賞」を最年少で受賞。現在、徳島商工会議所に委嘱され「とくしまクチコミ大使」を務めている。
2019年4月より桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室講師。

篠村友輝哉(しのむら ゆきや)
1994年千葉県生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了。
在学中、桐朋学園表参道サロンコンサートシリーズ、大学ピアノ専攻卒業演奏会、大学院Fresh Concertなどの演奏会に出演。また、桐朋ピアノコンペティション第3位、ショパン国際ピアノコンクールinASIA(大学生部門)銅賞、熊谷ひばりピアノコンクール金賞及び埼玉県知事賞、東京ピアノコンクール優秀伴奏者賞など受賞。かさま国際音楽アカデミー2014、2015に参加、連続してかさま音楽賞受賞。
ライターとしては、演奏会のプログラムノートや音楽エッセイを中心に執筆している。東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」では2019年の1年間連載を担当した(1月号~6月号『ピアニストの音の向こう』、7月号~12月号『音楽と人生が出会うとき』。うち6篇はnoteでも公開)。エッセイや、Twitter、noteなどのメディア等で文学、美術、社会問題など音楽以外の分野にも積極的に言及している。
演奏、執筆と並んで、後進の指導にも意欲的に取り組んでいる。
ピアノを寿明義和、岡本美智子、田部京子の各氏に、室内楽を川村文雄氏に師事。

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