私の英語習得法
-英語教師ではなく、ビジネスおよび学術研究の分野で英語を使ってきた立場で語る英語習得法-
私は外航海運会社に28年間勤務したのち、大学で海事経済学を教える身となりました。
ある時大学で、航海士を目指す学生が「僕、英語は苦手なんですよ」と言うのを聞いて愕然としました。いやしくも将来船長を目指す学生が、恥ずかしげもなく英語は苦手と言うその姿勢に憤りさえ覚えたのです。
外航船の航海士でなくても、日本の若者はもはや、国内だけで仕事をして一生を送ることは望めないと認識するべきです。製造業の技術者として長年国内の工場の中だけで暮らしてきた人たちも、今や海外に設立した工場に派遣されて、技術指導を行わなければなりません。ビジネスはそれほどグローバル化が進みました。
そしてアメリカやイギリスなどの英語圏に行かなくても、アジアなど世界中のほとんどの国で仕事をする場合、英語が使えれば何とか一定水準の仕事ができます。英語ができなければ、半人前の仕事しかできないのです。
しかし、中学高校で6年間、大学生はさらに少なくとも2年間、合計8年間以上も英語の授業を受けてきたにもかかわらず、ほとんどの日本人は英語を使って意思疎通をすることができません。なんと膨大な時間のロスをしてきたのでしょう。
私は、中学に入ると同時に英語に興味を抱きました。それ以来、特に学校以外で英語や英会話の学校に通うこともなく、留学の経験もせず、自分の工夫で英語を使えるようになりました。大学卒業後は国際業務がほとんどの海運会社に入りましたので、英語を使う仕事が多く、徐々に上達していきました。50歳の時に会社を早期退職して大学教員への道を歩み始めましたが、ビジネスとはレベルの異なる英語での学術論文執筆と研究発表に従事することになったのです。
このような人生経験を振り返って、これから諸外国で仕事をすることになる若者に、私の英語習得方法を参考にしていただこうというのが、本稿の趣旨です。
今、学校でいやいや英語の授業を受けている皆さん。あきらめるのは早すぎます。私の経験を参考に、試験対策ではなく、将来英語で仕事をするんだという覚悟を持って、英語の勉強方法を試してみてください。
1.中学での経験
私たちの時代は、中学1年生で初めて英語を習い始めました。入学したとき英語の教科書をもらって、なぜかわくわくしました。それはこういう理由からです。
英語ができたらカッコいい、世界中の人と話せる、世界で活躍できる、世界中の人と友達になれる、そして世界中に日本人の存在を知らしめることができる。何と単純な動機でしょうか。
しかし、「This is a pen.」で始まる教科書を基にした中学の授業は、あまり魅力的なものではありませんでした。試験のために覚えるという行為は、どんな授業でもつまらないものです。先生が話す英語も、とても英米人のようには聞こえません。こんな悠長なことをしていたら、いつまでたってもしゃべれるようにはならないなあ、などと思ったのです。
2.ラジオやテレビで英語を好きになる
そこで一計を案じたのが、テレビとラジオを使うことです。1963年当時、すでにNHKでは、国民の英語教育を側面から支援しようと、様々な英語(英会話)の番組ができていました。
中学一年生に適した番組はラジオの「基礎英語」(講師は芹沢栄氏)でした。昔のことですから、その番組の時間ぴったりにラジオの前に座る必要があります。朝6時はつらいので、夕方の再放送を聞こうとするのですが、柔道部の稽古から帰ってくると夕食が待っていました。夜9時からの再々放送は、部活の影響で眠くなってしまいます。サボりながらでしたが、学校の授業より楽しく学べて、1年間なんとか続けると結構実力が付くように感じました。
ちょっと背伸びしたのがラジオの「英会話教室」(講師は松本亨氏)でした。松本先生は中学時代にアメリカに留学されたという、当時としては稀有な経験をされたので、素晴らしい発音で憧れの的でした。松本先生の素晴らしい低音の魅力は今でも忘れません。
テレビの英会話教室(講師は田崎清忠氏)も視聴しました。テレビは画像も入るので、ラジオよりずっとリアルで、田崎先生のSkitと称する短文を一所懸命に覚えました。番組に出演しているアメリカ人のアシスタントが話すネイティブ英語の発音を、何度も真似をしたものです。
このように、ラジオやテレビの番組を活用することで、生きた英語を耳にし、アメリカやイギリスの文化に興味を持つことが、英語が好きになるきっかけとなりました。
今ならもっと番組制作も進歩して、子供から大人まで本当に楽しく英語学習ができるようになっていますので、試してみてください。
3.英語の歌を口まね
1960年代は欧米の流行歌が大量に日本に入ってきました。それらは、単に歌だけでなく、その国の文化やものの考え方まで、私たちに伝えてくれるものでした。
ビートルズ、プレスリー、アンディ・ウィリアムス、パット・ブーン、そして多くのフォークシンガー。彼らは私があこがれた新しい文化だったのです。思春期を迎えた私にとって、甘い恋の歌を歌う彼らは最高の英語の先生となりました。
新しく登場したテープレコーダーを使い、ラジオの歌声をマイクで拾って録音するのが、私の趣味になりました。そして、大きな声で、彼らの発音をまねるのです。LとRの違い、THサウンド、VやFの発音などは、彼らから学びました。
4.観光地へ行って「ガイジン・ハント(!?)」
私が育った京都市は多くの外国人が観光に訪れる街です。1960年代は今ほど多くはありませんでしたが、アメリカ人を中心にたくさんの訪問者に出会う機会がありました。
私は日曜日に神社やお寺に出かけて行って、彼らに声を掛けます。「英語の勉強のために、ガイジン・ハントをしている」と告げると、みんな一様に恐れおののきます。Huntingは文字通り「狩猟」ですから、何かされるのではないかと感じたのでしょう。そんな初歩的な失敗もありましたが、拙い英語でも外国人としゃべろうとすることで、度胸作りにはなりました。
5.高校での英語自習法
私はそんな中学時代を過ごした後、多少「英語が得意」という気持ちをもって地元の高校に入りました。
高校2年の時です。クラスメートに同じく英語が好きという同級生と仲良くなりました。そこで自分の自信を突き崩されることになります。同級生のH君は、私と比べてはるかに英語の語彙力が優れていたのです。彼はとても難しい英文解釈の参考書を使って、塾で勉強していると言いました。
塾は私には向いていないと思っていたので、考えた結果、英文解釈の副読本を買って、自分でコツコツ日本語に訳すという勉強法を採るとこにしました。まず大きな声で短文を何度か読む。そしてわからない単語は辞書で引いて、意味を把握する。次に、辞書を引いた言葉の単語帳を作成して、通学途上歩きながら覚えます。その単語が出てきた文章の場景を思い出すことで、覚えやすくなります。
英文法は苦手な人が多いと思います。ややこしいルールをたくさん覚えなくてはならないことに閉口することが原因でしょう。私もそうでした。そこでとった方法が、「易しい文法の参考書」を使うことです。
本屋には様々な英文法の参考書が並んでいますが、普通は一番もっともらしい、威厳のある難しそうな参考書を選びがちです。特に一流大学を目指そうというような生徒は、易しそうな参考書を選ぶことが威信を傷つけられるように思うものです。しかしそうではありません。易しい参考書をじっくり何度も勉強することで、最も重要な部分をしっかり頭に叩き込むことができるのです。そうすれば、難しい応用に属するような部分は、次のステップとして二次的にとらえることができると思います。
大学入試の英語などは、百分の一の確率で出るかもしれないような難しい部分を必死で覚えるよりは、重要な部分を完全にマスターすることを主眼に置いた方が、効率は高いと思うのです。
因みに、私はこのような勉強方法を採用した結果、英語の全国模試で3位の成績を取るようにもなりました。天才的な記憶力を持った秀才たちを押しのけて、凡人の私が好成績を収めたのです。
6.大学での英語学習
大学では英語クラブに入ろうと思っていましたが、偶然あるサークルの勧誘を受けて即日そちらに入ることを決めてしまいました。AIESEC(当時は日本語名を国際経済商学学生協会と呼んでいました)という国際的な学生交流の団体です。経済学や商学を学ぶ世界の学生が協力し合って、互いに勉強し交流を深めるという活動です。そこで必要となるのは英語力で、英語を使って専門分野を学び、同様の専門分野を持つ海外の学生と交流することが目的であるという趣旨に大変魅力を感じたのです。
AIESECでは学生が自ら企画する海外研修制度があります。それぞれ自国の企業にお願いして、外国人学生にインターンシップを提供してもらうのです。従って、日本人学生も外国の企業で研修を受ける機会があります。基本は、受け入れと送り出しとが同数であるように、世界レベルでマッチングをします。
私は3年生の時に選抜試験を受けて合格し、シカゴの銀行で半年間インターンシップの機会を得ました。初めての、あの憧れのアメリカの土地に一人立っているという感激は今も忘れません。
当時のアメリカでは、日本の存在は非常に小さいものでした。新聞にもほとんど記事が出ません。銀行のある人が家に招待してくれた時こう言いました。「私たちの以前の印象では、日本を象徴するものはアイスクリームに指してある傘の飾りだったんですよ」と。私は「今に見ていろ!」と悔しい思いをしたものです。
失敗談は数えきれませんが、一例をあげると、銀行到着早々に私の研修受け入れ担当の人が歓迎会を企画してくれました。「水曜日のお昼空けておいてね」と言われたのですが、当日私はコロッと忘れて、一人で社員食堂に行ってしまったのです。昼食を終えてデスクに帰ってくると、その人が怖い顔をして立っています。約束を忘れるなんて、社会人基礎力が出来ていないということです。平謝りでした。
英語で会話をすると、記憶力まで低いレベルになるのだと痛感した次第です。ちなみに、歓迎会のやり直しはありませんでした。
7.国際ビジネスに憧れて就職
アメリカでのAIESEC研修を経て、多少英語に自信がついた私は、研修後に半月グレイハウンドバスで、アメリカ北部およびカナダを旅行しました。本当は学生時代に企業研修ではなく大学に留学することが夢でしたので、シカゴ大学やノースウェスタン大学、そして旅行途上にハーバード大学に立ち寄って、学生募集パンフレットをもらいに行きました。帰国後いろいろ検討しましたが、当時の日本人の中産階級の家庭に、子供を留学させられるような財力はありません。
そこで一念発起して、国際ビジネスを営む企業に就職しようと決めました。私の人生目標は、世界の誰もが認める立派なビジネスマンになるということに定めたのです。
私は大阪の大学に通っていましたので、同地にある総合商社をすべて就活訪問し、そのどれかに入れるだろうなどと考えていました。
3年生の3月のある金曜日、ひとしきり商社回りを終えたとき午後4時でした。あと1時間あるのでもう1社回ろうかと思ったその時目に入ったのが大阪商船三井船舶(現商船三井)の看板でした。友人から聞いていたものの、鉄道のようにただ船を運航して貨物を運ぶだけの仕事にあまり興味を持ってはいませんでしたが、就活生に丁寧に説明をしてくれた総務課長に親近感を抱きました。
かれはこう言いました。「総合商社に行っても、海外では小間使いばかりさせられてつまらないよ。それに引き換え、船会社の駐在員はステータスが高く非常に大事にされるんです。当社では社員は希望すれば一人残らず海外駐在員になるのです。」その瞬間、私の心は既にこの会社で活躍したいと念じていました。
当時の総務課長にいいように言いくるめられたのかどうか未だに分かりませんが、とうとう私は、あれだけ行こうと決めていた総合商社を1社も受けることなく、商船三井に入社することになったのです。
入社早々は国内の営業をやらされてがっかりしましたが、2年後に重量物運搬船という技術の粋を極めた仕事について、船会社の真髄を経験することができました。船という手段を使って国際ビジネスをすることの喜びと重要性を実感できるようになりました。 その後、タンカーというスケールのさらに大きなビジネス、次いで財務という会社の根幹を受け持つ業務に従事するようになりました。
22歳で入社して以来、それぞれの職場で英語を使う機会がありました。徐々に上達をしていったと思いますが、自分のレベルを図るすべはありませんでした。現在のようにTOEIC試験を社員に受けさせるような制度もなく、海外留学制度はフランスの田舎でフランス語研修を受けるというもののみでした。 自分でお金を貯めて留学しようと思ったことは3度ありましたが、そのたびに子供が増えていて、経済的な理由で諦めざるを得ませんでした。
私に大きな転機が訪れたのは37歳の時です。財務部で外貨での資金調達と運用をしていた経験を生かして、ロンドンに金融子会社を作るという提案をし、それが採用されたので英国に赴任することになったのです。海運の分野では古くからロンドン支店を持っていたので、そこに間借りをして新しい会社を設立しました。
年の離れた上司と二人で一から築き上げました。実務はすべて私の担当でしたから、会社登記、帳簿システム構築、銀行口座開設、銀行・証券との取引開始、アシスタント採用・教育等々、何でもやりました。 ロンドンのシティは世界一の金融街です。世界中の銀行や証券会社が拠点を持ち、保険会社、弁護士事務所、会計事務所なども軒を連ねます。そこにオックスフォードやケンブリッジ大学の卒業生が就職するという知的レベルの高い都市を形成しています。
そこで着任早々恥ずかしい失敗をしてしまいました。金融子会社の活動を活発化するために、ロンドン支店の副支店長をしていたオックスフォード大学出の英国人社員の付き添いを得て、ある投資顧問会社を訪問した時のこと。
こちらは顧客の立場ですので、相手は非常に丁重に応対をしてくれるのですが、何やら言葉の端々に私の品定めをしているような感じを受けます。彼らはユーモアを交えながら格調の高いクイーンズイングリッシュでしゃべり続けます。実はあるユーモアが、ネイティブの英語話者でないと理解できないようなものであったにもかかわらず、私は分かったふりをして笑ってうなずいてしまったのです。
帰社の途上、その副支店長から厳しくたしなめられました。「あなたはあの時先方の冗談が理解できなかったに違いない。それなのに分かったふりをしましたね。それは絶対にいけません。あの手の人間は、英語を使って外国人をバカにするという悪い習性を持っています。分からないときは何度でも聞き返して、相手に配慮が足りなかったことを知らしめてやらねばなりません。」と。この言葉は非常に重く、私のその後の処世術を支配するものとなりました。
イギリスには合計6年間勤務しましたが、その間、多くの債券やCP発行、銀行借り入れ、資金運用などにかかわりました。すべて膨大な英文の契約書案を弁護士とともに検討したり資料を読む作業が伴いました。
また、営業部門が主導する海外の企業買収案件では、ロンドン在勤の財務のエキスパートとして、買収交渉、デューディリジェンスと呼ばれる買収相手の事業・財務精査にかかわりました。
これらを通じて、弁護士や会計士を起用しながら難しい仕事を英語でこなす能力が身につきました。
日本に帰国してからは、不定期専用船というばら積み船部門で海外プロジェクトや、買収企業の統括を行う仕事をしました。ここでは株主の立場をいかに提携先や子会社に反映させるかに腐心しました。
日本で5年勤務したのち、今度は過去に買収したオランダの物流子会社の社長として赴任しました。買収交渉の時に財務面から支援活動をして、何度も訪れた会社ですから非常によく知っていましたので、私が社長に起用されたようです。当時すでに48歳になっていましたので、立派な国際ビジネスマンになるという人生目標がここで達成できるかどうかの試金石になるように感じました。
その物流会社は日本の親会社が作った現地法人というものではなく、80年の歴史のある地場の会社を買収したものでしたので、日本人的な親子の関係性を理解する社員がいませんでした。オランダは欧州一の物流大国を標榜する国ですから、社員は東洋のはずれから来た日本人経営者を軽視しがちです。
日系企業の現地法人には、現地採用のイエスマンが多い傾向にありますが、ここは違いました。各部門の長は自己主張が強く、自分が主導権を持ってプロジェクトが進められないと梃子でも動きません。マネージャ会議をするといつまでも喧々囂々の議論を続けます。ある時など、6時間も会議をした経験があります。
そんな中、社長として方向性を定め、最終意思決定を下すことで議論を収束させ、全社一丸となって行動を起こすよう仕向ける必要があります。英語力と共に人間力が試される場面でした。
2年の任期を終えて退任する時、倉庫部門のマネージャが「あなたは本当の社長でした」と言ってくれました。また、トラック部門のマネージャは、全トラックドラバーからカンパを得て、「Shino Bedankt!(有難うのオランダ語)」という言葉と社屋の絵の入った、大きなデルフト焼きの飾り皿をプレゼントしてくれました。
常日頃ドライバーは、早朝出て夕刻帰社するとすぐに帰宅するので、なかなか会うことがない疎遠な人たちでした。私は彼らのことをいつも気遣っていると言い続けました。またある時、妻と共に年1回の社外実技研修に参加して、妻もフォークリフトの運転をやってみたりしたことが、心の触れ合いとして通じたのかもしれません。この飾り皿は、今も私の家のリビングに飾られています。
この時、先に記した人生目標が何とか達成したかなと感じられましたので、私はオランダに居ながら少し早めの早期退職を願い出て、商船三井を辞しました。
日本的経営は海外では通用しないと考えられがちですが、その良いところを国際標準の経営に取り入れて会社運営をすれば、日本人ならではの心の通うリーダーシップが発揮できると思います。
ただ、気を付けなければならないのは、「俺なんて英語は全然できなかったけど、何とか海外駐在員として任務を全うできたよ」という先輩の言葉です。その人は、英語ができないことで本来やるべきことが出来ず、半人前の仕事しかやってこなかったことに気が付いていないだけなのです。
8.研究者に転じ大学教員の道へ
実は、早期退職したのはオランダの物流子会社の経営方針について東京の本社と考えの違いが明白になったことがきっかけです。しかし、それ以前に中年以降の会社員人生に魅力を感じられなくなっていたことも要因としてあります。
大きな会社では、若いころは「良い仕事がしたい」と張り切っていますが、50歳ころになると、仕事は課長以下に任せ、自分はこれから先細りになる上へのポジションをいかに獲得するかに関心が移ります。
私が就活の時に定めた人生目標「世界中の人が認める立派な国際ビジネスマン」の追求とは別の力学で生きていかなくてはならないと悟ったのです。
そこで私はオランダで、経営コンサルタント業を開業するとともに、大学で勉強し直すことにしました。若いころに憧れた留学の夢が、諮らずもこのような形で実現してしまうことなりました。
正直を言えば、2、3年で修士号を取って、コンサルタントの肩書に箔をつけようという魂胆でした。ところがオランダの大学では当時オランダ語の授業が一部あり、英語しかできない私は入学を認められませんでした。
その決定に至るまで半年以上尽力をしてくれたS教授は言いました。「篠原さん、非常に残念だけど修士課程入学は無理のようです。しかし、博士号なら英語で論文を書けば取れますよ。やってみませんか。」
「ええ! それは無理だと思います。」私は即座に断りました。「そこまで勉強をし直すには歳を取りすぎていますし。家族も養っていかなくてはいけませんし。」
「しかしねえ、篠原さん、現在この経済学部には500人の博士候補者が論文を書いています。そのほとんどは社会人で、自分の職業の専門性を生かして、いつか博士にと頑張っているのです。先日も80歳の人が博士号を取得しました。あなたも頑張れば成就しますよ。」とS教授。
長い間私のために頑張ってくれた教授にここまで言われたら、それ以上断ることができなくなりました。「どうせ途中でケツを割るに違いない」と思いながらも、とりあえず初めて見ることにしました。それ以後5年半にわたる辛苦の日々の始まりです。
商用文を書くのと論文を書くのとは、まったく異なります。論文は何もなしに頭だけで書くことはできません。膨大な専門書と論文を読みこなして、そのうえで自分の研究テーマを設定し、あれこれ調査研究して独自の解明をしなければなりません。それは先行研究の上に自分の研究成果を重ねて、その分野に貢献をすることなのです。
詳しいことは別の機会に譲りますが、オランダの大学では、1章づつ論文を書き溜めて指導を受け、1冊の書物に相当する量になると大学の審査を受けます。審査会では学長以下8名の専門分野の教授が、私の論文発表に攻撃を加えます。そして一定の時間それに耐えることが出来たら合格です。指導教授からは「博士になるということは、独自の分野で誰にも負けない砦を築くことなんだ」と言われた意味がよく分かりました。
大学の研究者は、国際学会で研究発表をし、学術雑誌に論文を発表することが仕事です。しかし、日本の学者は得てして日本国内だけで活動し、英語で論文を書くことを避ける人が多くいます。国内の学会だけで十分実績になり、年を取れば理事になったりして功成り名を遂げることが出来てしまうからです。そのせいで、日本の大学の国際評価はどんどん低下し、世界から注目すらされない存在に成り下がってしまったと言えます。
国際学会で重要なことがあります。良い論文を発表して、その分野に貢献することは第一の目的です。その上で、多くの国から集まる同分野の研究者と仲良くなることです。個別に話をすることも重要ですが、食事会や休憩時間のコーヒータイムでどのように行動するかがさらに需要です。
そのような機会を通じて、共同研究グループが組成されたり、専門書の執筆依頼や研究協力の依頼が来たりするのです。つまり、日本には誰々という研究者がいるということを、世界の多くの研究者に認識してもらうということなのです。
日本人はとかく日本人同士で固まって、日本語で会話をし、その後彼らだけで外へ食事に出る傾向にあります。博士課程の自分の学生を連れまわって、親分のようにふるまっている人も見ました。それでは諸外国の研究者との交流は深まりません。
博士研究を通じて、英語で難しい論文を読む力と、自分の論文を英語で書く力を養うことが出来ました。その後も国際学会の舞台で研究を続けてきたおかげで、博士になったばかりの時と20年経った今を比べてみると、ずっと英語は上達を続けてきたように思います。
9.若者に伝えたいこと
このような人生を歩んできて、私は今72歳になります。国際ビジネスマンから大学教授に変身し、世界に多くの知己が出来ました。インターネットのおかげで、ずっとつながりを持ち続けています。
Eメールでも、SNSでも英語でやり取りができると、交流がいとも簡単にできます。言葉のニュアンスを使い分けて、砕けた言い方や少し改まった表現など、状況に応じたやり取りができるようになる必要があります。私の経験から述べますと、まず重要なのは正しい英語を使えるようになることです。そのために何が必要でしょうか。
第一に「読み書き」がきちんとできることです。読めなければ情報を採れません。書けなければ相手に伝えることができません。書ければ、そのレベルまで話せるようになります。文法は大切です。文法ができない欧州人はぺらぺら話せても書けない人が多いのです。それでは知的水準が低いとみなされるので、正しく書けることに注力してほしいと思います。
英語を学ぶことは多少忍耐力が必要になります。その意味でも、英語が好きになるように、英語の歌を練習してみたり、テレビやラジオの英語教育番組を楽しんでみてください。
英語は学問というより単なる言葉です。従って、時間をかければかけるほど上達します。皆さんの活躍の舞台は世界中にあります。日本国内と同じように海外でも仕事が出来たら楽しいではあ りませんか。
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