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人生はグルメを巡る

店先の赤提灯は営業中の目印。今宵初めて煤けた濃紺の暖簾をくぐった。いつも少しだけ開いた引き戸から垣間見ていた、魅惑の異世界。近所の小さなおでん屋は全七席程のこぢんまりとしたカウンターで大将の仕事場を囲っている。

とりあえず生で。

狭い空間に昭和の匂いがこれでもかと詰まっている。流れる歌謡曲に時代を懐かしむ。僕の幼少期は誰かの青春時代。見知らぬ隣の客に鳥刺しを勧められた。四十半ば程の彼と、牛の生レバーが恋しいねと鶏の肝を共に頬張りつつ、やがて打ち解けた。年齢と出身地以外はおおかたでたらめな彼は適当に僕の若さを褒めそやしたり、楽しげに仕事を愚痴ったりしている。

日本酒を一合。

銘柄は大将のお勧め。人の良い笑顔でおまけにプロセスチーズを添えてくれた。本当に人が良いんだろう。気付けば店の常連と思しき人々が一人また一人と集い始めている。グルメサイトには知られていない秘境。斜向いのご婦人はソーダ水で何故かもう酔っている。最奥の若い夫婦は数種類お皿に乗ったおでんの具を全て均等に仲良く割っている。軟骨の唐揚げ。漬物の盛り合わせ。それから品良く出汁を吸った厚揚げを頬張った。美味い。夏におでんが食べられるのは有り難いんだよな、と隣席の彼はしみじみとごぼ天を齧る。その間も新しいお客が続々と暖簾をくぐるが、あいにくの満席に店を後にする。こんな細い路地裏の店なのに人気だなと、今度はこんにゃくを一口。やっぱり美味い。素晴らしい穴場を見つけたぞと僕は感激を噛み締めた。

人生で、夢を叶えるって。こういうことじゃないのかって、最近思うんですよ。

心の呟きが声になった。気恥ずかしさは酔いが忘れさせてくれる。

また今日も新しく、素晴らしい美味に出会えて。食いしん坊な僕はもうそれだけで楽しく生きていけるよなぁ。なんて。

隣席の彼はそんな若造の戯言に「悟りだね」とまた適当に笑った。

あわよくば毎日がこんな風に美味しくありますように。

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