恋の燃え殻

もしも。もしもの話。

あれは5年前のこと。新しいバイト先でよく面倒を見てくれた先輩の話。

書店員に似つかわしくない彼が、天井近くまで伸びる書棚へ丁寧に建築書を収める姿が好きだった。彼と同じ担当部門で、彼のもとで働けるのは単純に嬉しくて。4つの年の差はまるで魔法みたいに私を魅了した。手の届かない年上の先輩。目の前にいるのに高嶺の花みたい。絶対に埋められない深い深い溝の向こうで、彼は優しく微笑んでいる憧れの人。セット慣れしたパーマのどこか濡れた質感に、繊細なのに節の目立つ、男性的な指先。いつも見つめてしまうことに気付かないでと切に祈りながら、地味で冴えない私は彼を隠れ見てた。不器用に取るメモの字が余計に揺れてしまうから、私は彼の側にいるのは苦手で、ほんの微かに花の匂いが香る彼と比較して、洒落っ気のない自分が恥ずかしくてたまらなかった。

私は恋愛の当事者じゃない。

それでも、彼にふさわしい女の子を空想して、何度も酷く傷付いた。

毎日少しずつ交わす会話の中で、恋人の影が無いことにその度、安堵して。

仕事の必要性から彼とLINEで繋がった。もちろん仕事以外の会話なんて出来ないけれど。青いクロスバイクと、どこかの綺麗な風景写真。無造作なアイコンに心が蕩けそうになる。触れ合いたい。自然ななりゆきで距離が縮まれば。欲求が募る程、彼が私に興味を抱く理由など何一つないんだと結論付いてしまう。私の好意はグロテスクだろう。

彼の声が、もし。

彼が丁寧にゆっくりと、引き継ぎの内容を話す声を聞きながら、想う。

深夜、通話音声としてこの鼓膜を揺らしてくれたなら。

おやすみとそっと囁いてくれたなら。

夜更前の半分寝言みたいな戯言を、「馬鹿だな」と笑ってくれたなら。

甘くて儚い幻想。


偶然、普段は別方向の彼と同じ電車を共に待つことがあった。同じ遅番の仕事後、ホームでたまたま見つけた私をちゃんと呼び止めて話し掛けてくれたのだ。こんな一つ一つの出来事を、これは意味のあることなんだと思えたらどんなに幸福だろう。いや、それでも苦しいのだろうか。「今日は予定があって」とだけ告げた彼は、当たり障りのない話題で場を繋いでくれた。

夜21時53分発の電車までの、あと7分。あんなに時間はあったのに、何一つ気になることは聞き出せなくて。

これからどこへ向かうのだろう。

ざわざわと悲しみが渦巻き始める。

夜を背景に佇む彼の個人的な事情はきっと私を打ちのめす。勝手な憶測に胸が苦しくなり、目頭が熱くなった。1分前。電車の到着を予告する案内音声が流れる。

「あの……」

「今からさ、実はオールナイト上映なんだけど、よかったら一緒にどう?」

小宮君――と、彼が唐突にそう提案した。何の気なしに私の名前を呼ぶ声に、胸がぎゅっと締め付けられる。頭の中では色々な衝動がごちゃごちゃとぶつかり合い事故を起こして、何も上手く機能しない。舌がからからに乾いた。言葉が出てこない。変な間が空いて、「いや、急だよね。悪い悪い」と彼はすぐに言葉を撤回した。私は「ああ、いえ……」としか続けられない。嘘みたいなその一瞬はもう通り過ぎてしまった。

いつも夢見ていた現実。爪の先を掠めても、私は掴まえられなかった。

あれから5年経ち、彼も私も仕事を変え、各々別の場所で暮らしている。今はどうしているだろう。先に彼の門出を見送った3年前には、都内のどこか小さなデザイン事務所に勤めるんだと言っていたけれど。だとしたらまだ同じ街にいるのだろうか。いや、それから変わっていない保証なんてない。私だってそうだ。彼のLINEのプロフィール背景はどこかの絶景をたまに入れ替わりで映している。

深夜上映の半券をジョガーパンツのポケットに捩じ込み、静かな劇場の中でまた回想している。

もしもあの時、なんて後悔にはもうくたびれてしまった。

もしも、もしも。

彼がこの赤絨毯を踏むことがあるのなら。あの頃彼がよく履いていた店のスニーカーを同じく履いていることを、なんてこともなく白状しよう。

彼の影を追うように手探りで鑑賞した古い映画の数々は、当たり前みたいに私に寄り添ってくれた。

諦めの悪い恋の燃え殻。

あの頃の私は、灰の底で眠る。

誰もいない男子トイレの鏡の奥に、過去の私の面影を見つけた。今ならもう少しまともに笑い返せる。思い出を蒸し返して、また、僅かに苦い感傷がチクチクと疼く。後悔に飽きてもなお、あの夜の焼き直しを呆れる程繰り返して。

開幕まではまだ少し。人もまばらな深夜の映画館。

変わった私を見つけて、だなんて。ロマンチックは個人の自由。

いつも一番のシャツを着て、私はまた夜を彷徨う。









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