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深く、潜る。本の読み方について

「そういえば最近は本をじっくり読んでいないな」と昨夜思い立ち、今日の夕方に久しぶりに地元の図書館を訪ねてみた。

図書館というのは「本が読み放題、借り放題」という空間なので、久しぶりに高揚し、気づけば7冊借りていた。新記録かもしれない。

一時期の僕は図書館のヘビーユーザーで、一度にだいたい2〜4冊借りて行き、返却期限である2週間後に返しがてらにまた2〜4冊借りる、というルーティンを長いこと続けていた。

大型の書店もそうだが、大量の本がある空間というのはクラクラしてしまう。一冊の中に詰まっている文章量、世界観、イメージなど、本という小さな物質を超えた埋蔵量を想像してしまうからだろう。今回は図書館自体が久しぶりだったので、なおさら高揚した。

借りる本にもいろいろある。もちろん、小説のようなものは一日にそう何冊も読めるものではない。だが、ビジネス絡みの本のような、言いたいことがまとめられているタイプの本であれば、その趣旨の部分を拾い読んでいくだけで理解することができるので、一日に数冊読むことが可能だ。
実際、ついさっき夕食後に読み始めて、2冊ほとんど一気に読んでしまった。所要時間は2冊で1時間ちょっとだった。

ところで、僕は本を読むときに「この一文」という良き文章を探すように読んでいる。アフォリズムと言ってもいい。具体の中で語られた、抽象性の高い本質的な一行だ。そういうのを見つけることが読書の快感と思う。
これはジャンルを問わずある。小説はもちろんだし、ビジネス書のようなものにすら抽象性の高い「この一文」というのは存在する。
そういう文章の何が好きなのかというと、それは、著者が「深く潜って探りあてた概念」が表されているからではないかと考える。

この「深く潜る」というのは最近の僕の中でお気に入りの言い方なのだが、仕事の場でも頻繁に考えるテーゼである。表面的な「問題と解決」というのはビジネスでは有用だろうが、それだけではもうちっとも面白くない。
仕事であれ、遊びであれ、人が何かを本気でやろうと思う時、それは人の経験や思想といった、ある種の深海を「今の自分なりに」潜って何かを探り当てる、スリリングでディープな行為であってほしいと考える。

そんな「深く潜る」という概念に照らして本を読む時、やはり有用性を前面に出したタイプの本は、残念ながら浅いところで引き返してしまっていると感じるものが少なくない。いや、もちろんそれで目的は果たされていると思うのだが、必ずしもそういうものではないだろう。ジャンルは何であれ、著者が深く潜ったと思わせてくれる本は、鋭い洞察があり、深い思想がある。言語化のための懊悩が見てとれるし、飽くなき検証の痕跡が感じられる。自分が読みたいのはそういう本であり、出会いである。

残り5冊。そのうち1冊は仏教系の本であるのでもう少し時間はかかるだろうが、比較的にどんどん読めそうなジャンルのものが今回は多かった。

あと、図書館で得る高揚と、書店で得るそれとは種類がまた違う。新しい本というのは何というかイキがいいのである。テンションが高い。「今」を感じる。面白いものだと思う。

やぶさかではありません!