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6月のある一日

6月のある一日

その日私と恋人は、先週いけなかったマーク・マンダース展に満を持していくことになっていて、早くお昼をたべていこう、と私はいうのに、恋人はめずらしく「パスタでもいい」(パスタがいい)といって、パスタ屋さんを予約して、パスタをたべた。とてつもなく、とてつもなくおいしいパスタで、鶏肉がやわらかく、ゆずこしょうの風味のきいたクリームソースがピリッとしていて、ものすごくおいしかった。私たちの席の後ろの席では小さい男の子がずっとさわいでいて、両親が話始めると「おちんちんがねえ!!」だとか「きいて!ねえきいて!」と自分の方に注意をむけようと、騒ぐのだった。「お外にいこうか」とお母さんらしき女の人がいっても「いやだあ」とまた騒ぐ。
 その光景を背中で観察しながら、自分の兄のようだな、、と心で思った。兄はそういう一面がある。妹としてはとても恥ずかしいことなのだが、とても頭がよく良い人なのだけど、なんだかものすごく成長が遅い部分がある、もしくは成長できなかったところがある人間なのだ。
思えばその日の不穏さはそこから始まっていた。とてつもなくおいしいパスタととてつもなくうるさい店内。誰もがうるさい、と思いながらも笑顔で「おいしいね」と本当のことを言うような。
デザートまできっちり食べた私たちはその足で電車にのりこんだ。
中央林間から清澄白河までは一時間、長旅だ。

 私はもってきた本を読み始め、恋人は私の作った詩集を読み始めた。乗っている乗客は私たち以外はほとんどいず、話してもよさそうだったけど、話し始めたら私たちは止まらないので、電車のなかでは本を読むことにしたのだ。
よしもとばななを読みながら、ちら、ちら、と恋人をみていると3分くらいで読み終わっていた。「うそだ、はやすぎ、ちゃんと読んだ?」と聞くと、「読んだからね!」という。
「良いのを最後の方に持ってきたの?」「そうかな、どれがすき?」
「まいにちのこと、とか、いとおしさよ、とか、うん。2021のほうが、いいね」
「そっか、だってそうだよ、いおとしさよ、はゆうくんのことを考えてたもの」
「そうなの」
という会話をした。うれしくなった私はふんふんと得意げににやにやした。

それから恋人はうつらうつらして、私はよしもとばななに没頭した。なんというか、ふと、図書館で目について借りたのに、今私がよむべき本なような気がした。よしもとばななはいつもそういう雰囲気をもっている。悪性のインフルにかかったところから始まる話は、恋をしたり、剥製マニアのホラーじみた家にいったりする話だった。
たまにのってくる乗客は、日曜日もあってかカップルだらけで、女の人は素敵なスカートをはいていたり、ワンピースをきていたりして、男の人がその女の人の手を、いやらしい素振りで目の前でにぎって、私はただのTシャツにズボン、リュックできてしまった、とちょっと後悔した。

本の中で、小さな猫や犬の剥製がでてくる。その死を恐れて、吐き気をもよおす描写に私も同じようにものすごい吐き気を催した。
先日、ペットショップで売れ残った猫たちの悲惨な現状や、保健所で殺処分されてしまう猫犬たちの生々しいレポートを読んだばかりだった。
私はそういった残虐なものをみると、1週間ほど、頭から離れず、鬱々として、目のすぐそこに涙がたまってしまう。
まさかよしもとばななの本にそういったことが書かれてるとは、と思って、猫たち犬たちが人間によって残虐に殺され、皮をはがされることを思い描いて、ものすごく憂鬱で怖い気分になった。
本を半分くらいよんだところで清澄白河についた。

恋人は目をあけ「ついたな」というと、二人でおりた。
「良い本屋さんがあるんだよ」というと「いかない」という。
日差しがいやに攻撃的な昼下がりだった。帽子をかぶってるのに、目にやきついてきて、ちかちかする。
「日陰にいきたい、日陰」というと「なんで影がすきなんだよ、忍者かよ」といわれた。「忍だけにね」とわたしがいうと彼は「俺はひかりのにんげ」と途中まで言いながら日陰にきた。
現代美術館は混んでいて、チケットをかい、トイレにいく。

その途中でミュージアムショップをのぞくと、2人の友達の画集が平置きになって置いてあった。はっとして思わず手に取る。中をぱらぱらとめくる。手のこんだ作りで、紙の質がとてもよかった。
「これ、あの、あの子の」というと恋人はわかったようで、ああ、とうなづいていた。
もう終わったとおもっていた嫉妬のうねりが、いきなり私に襲い掛かってきて、「すごい、いいな、いいな」という。

マークマンダース展にはいると、いきなり胴体部分が切り離されている猫の像があって、それに顔をちかづけて真剣なまなざしで観察する美大生らしき女の子たちがいて、良い、悪い、というまえに生理的な拒絶が私をおそってしまった。
「うっ」といい恋人の腕をつかんで、「ひどい、」「なにこれ、ひどい、」と小さな声でいう。
恋人は「猫だ、しいちゃん猫が切られちゃってる」といい、
「タイトルは・・・」と恋人はタイトルを気にしていた。
「顔がリアルだ」という恋人。「むり」というとその作品から私は離れた。
色んなタイミングがあるのだ。今日は、なにかとても示唆的で、良くないな。わたしはやっとそこで感じ始めていた。

結論からいうと、マークマンダースはとても良かった。
人間の顔が崩れている像や、本みたいな木にうまっている像、それらはその質感も表情もすごくよくて、猫の像をみてから、その像たちをみているとだんだん良いと思えてきたのだ。
「残酷だね」という。残酷な人だとおもった。
だけど、それはジャコメッティのような、圧のある、というか深みのあるような残酷さや怖さでなくて、もっと純粋な、子供のような残酷さだとも。ちょっと残酷なことを心から面白いと思いながら、楽しく自由につくっていそうな。
特にドローイングの集積が本当によくて、とても自由で、その彼の彼らしさ、そのままのようで、だんだんと私は笑えるようになってきて、ドローイングをみながら爆笑した。

トイレで手を洗った時に勢いよく洗いすぎて服のおなかの部分に沢山水が付いてびちゃびちゃだった。しかも途中まで私はマークマンダースをマークサンダースと思っていて「マークサンダースマークサンダース」と言っていた。
おしゃれな人しかいない空間で「すそがびちゃびちゃだあ」と恋人にみせると「なんでそんななっちゃうのよ!」と恋人はいった。はずかしいのでTシャツのすそをにぎって歩いた。ふと手を下にすると、ズボンのチャックが全開で、うわ、と思う。「チャックが全開だった」というと恋人は「なにしてんのよ!」といった。

「人間の顔を切ってるのはいいけど、猫はむりだった、なんか無理、なんでだろう」と恋人に話した。「猫は顔がリアルだからじゃない?人間はルネサンス期がこの人は好きらしくて、だからそのころの造形に似ているね」と恋人は言う。
「たてだからかも。人間は縦にきってる。猫は胴体を横にきってる。そこな気がする」
私は言った。「なるほどね」恋人は納得したようだった。
「なんか、マークサンダースってちょっとゆうくん(恋人)みたい」という。
「俺もちょっとそう思った。」「小学生みたいな残酷さがあるところ」「うん」
という会話。
見ている途中で友達兼後輩のつださんから「東京にいるの?かえっちゃった?わたし今根津にいる!」と連絡があって、「ごめんいま清澄白河!」と返したものの、根津にいきたくてしょうがなくなった。私は東京のなかだったらダントツで根津が好きなのだ。
 二周見終わり、ミュージアムショップに寄り、荷物をとり、美術館をでる。
ミュージアムショップでは画集コーナーでうろうろして、また友達の画集をぺらぺらとしては「はあ・・」というのだった。
帰り道も日差しがつよくて、日陰をさがした。
「私も美術館に、画集とかおいちゃいたいのに」「平積みだった」「紙がよかった、すてきな紙質だった。」「良い画集だった。すごいよかった」「お金かかってそう」「なんでよお」「ちくしょ~くやしい」「ちきしょ~~!!!なんでだよぉ」「私も都会っぽくなりたいよぉ」「アーバン・・」などとぶつぶついう。半分お遊びで半分本気だ。
恋人は隣で、みかねて「もう、すぐ嫉妬して!」「嫉妬に狂って!みにくいねぇ!」と言った。私は「み・みにくい・・・!っ」というと「みにくいなんてはじめていわれたよ!うううう」と地団駄をふんだ。
そのみにくいねえの言い方が美川憲一みたいで、とても気に入った。
「みにくいねぇっ!」って吐き捨てる感じだ。
そうやって、私は嫉妬みまみれながらも、どこかそうしてる自分をたのしみながら、二人でけんかみたいなやりとりを楽しみながら歩いた。
「カフェラテのみたい~」といいカフェをさがす。
清澄白河はカフェが沢山ある街ときいていたのにどこにもなかった。

「なんでドトールがないの?ここ死後の世界なの?」とつぶやく。


駅前の妙におしゃれなカフェしかなく、そこに入った。
「なんか俺たちちょっと浮いていたよね、俺、あのなかじゃムキムキにみえたよね、」と恋人がいう。私もそう思っていたので、うん、と笑った。おなかがすいていたはずなのに、ケーキを食べる気がしなくて豆乳ラテをたのんだら、これもまた、とてもまずかった。豆乳がにがくてべとべとしてる。舌にべとべとしたのが残って、まずい、という顔をしてしまった。
恋人はホットのカフェラテをたのんで、飲み合いっこをしたら、恋人のは水みたいに薄くてまずかった。「うすい・・・」「うすいよね・・・」
「おかしいよ」なんだかおかしい。

指をみると癖で皮をむいた人差し指から血がにじんでいた。
ちょっとした緊張とかストレスがかかると無意識で指の皮をむいていまうので、私の手先はいつもぼろ雑巾のようなのだ。
「むきすぎた」という。
「なんでむいちゃうのよ!」と恋人は言う。

こう書いてると私の恋人が怒りっぽいひとみたいだ。

「なんだかつかれたな、すごく」と下を向くと
恋人が「しいちゃんは清澄白河が合わないみたいだね」と言った。
そうだった気がした。
「そうかもしれない、なんかいつも清澄白河にくると変なかんじになってる。マークサンダースもよかったし、すてきなまちなのに」
「土地があわないってあるからね」
「土地の気、みたいなものかな」
「私はポーラ美術館と原美術館がすき、すごくいい」
「ポーラ美術館は箱根だしね」
「土地がいいんだよ!ポーラ美術館はほんとに!土地が!!」
「だから箱根だからね笑」
「なんであんなにいいんだろう・・。」
「だから箱根なんだから!!!」
「東京でも根津や3331や上野もすきだ。3331は土地、というよりそこに米山さんがいつもいて、米山さんがいつも鎮座しているような・・そんな感じが安心するのかもしれない。」
「それはそうだろうね、米山さんの効果。米山効果。」
「そうだね」
「江の島も好き!」

なんでだろう、としばし考える。

江の島だって海汚いし、臭いし、クラゲもいるし夏はやばい人いっぱいいるし、とんびにいつも食べ物をとられる、けど、私は江の島にいくと元気になる。
清澄白河は、下町の風情があって、デイリーヤマザキも素敵な本屋もあるし美術館もひろいし、表面的には好きな雰囲気なのに、どうも合わない。
そういうのって、表面的な、つまり土の上に生えてる花木でなく、土の下の根っこの様相のように、私が目に見える、そういうところで感じるものの奥にあるような気がする。
聞こえない、見えない、よくわからないなにか。

人にしたってそうだ。

わたしの指先の汚さに、今までの元恋人たちの反応は優しかった。だまってぎゅっと指をにぎってくれた人もいた。見てみぬふりをする人もいた。バンドエイドを、とてもやさしい手つきで巻いてくれた人もいた。彼らは皆優しくて、私は愛されている気がした。
とくにやさしくバンドエイドを巻いてくれた彼は、怒らないし、いつもにこにこして、気が利くし、料理はおいしいし、ユーモアもあるし、素敵だった。だけど彼は恋人がほかにもいて、私は浮気相手で、わたしを振って、すぐに恋人でもない新しい人と結婚した。
きっと、いままでの人は優しすぎたのだ。

今の私の恋人は私が指をみせると、「すぐむいて!」と言い、「俺のをみてみろ」と自分のきれいな指先を得意げに見せてくるような人だ。そして恋人の手はとてもきれいなので、「きれいだね」というと「みてよ、爪が桜色だろ」と自慢げに言う。
だいたいなにしたって「なにしてんのよ!」というし、しかもマンダースのように平気で残虐なギャグを口走る。「犬の鼻をけとばしてやろうかぁあ」とか「くそなめくじやろう!」とか。
ちょっと意味が分からないくらい口が悪い。
私はそのたびに、「なんてこというのよ」といいながら、本当になんてこというんだよと思っている。子供ができたら、ちゃんと注意しなきゃいけない。子供には口の悪さをうつしたくないのだ。
といいながらも、今の恋人とは、5年も続いていて、しかも私は、5年たった今もとても好きなのだ。
なんでだろう。わからない。この気になる部分に目をつぶってまで付き合ってたい「好きなところ」が彼にはある。で、それは言葉にできないような、表面的にはでてこないような、そういうところなような気がするのだ。
(恋人でなくたって、私に合う友人、友人としていてくれる人たちはみなどこかおかしく、ちょっと優しくなく、ちょっとやばい部分があって、というかダメな部分があってでも表面的でない根の部分、見えない部分が、私にはとても魅力的にうつるのだった。
究極的にいうと、それは笑いすぎて珈琲を私のカバンにこぼしちゃうところとか、猫を愛しすぎる私をやばいよ!と本気で心配しちゃうとか、作る料理がべらぼうにうまいのに、たまに悪魔っぽいとか、そういうところかもしれない。)

今の恋人は私がぐずぐずすぐ不安定になる気分に動じない、木のような強さがあって、
共感しない、動じない、自分は自分としてあるという強さがある。
だからあーだこーだと文句をいったりネガティブなことを羅列してもだいたい聞いてない。
「きいてんの!」ときくと「ネガティブがうつる!だまれ!」という。だからか分からないけど、緊急事態というか、わたしが本当にやばいときはとても冷静に、真っ直ぐに向きあって手を握ってくれるような人だ。私がぐすぐす泣いてる顔におろおろせず、「俺を信じろ」と言う。

きっと彼も、私の気になる部分(水をすぐこぼす、とか、ものをよくなくす、とか、すぐ情緒不安定になるとか)に目をつぶっても、私を好きでいてくれる何かを私に見つけてくれているのかもしれない。

とまでなんだか支離滅裂に考えていたらどっと疲れがでて、清澄白河の駅からまた電車にのって私たちは帰った。
よしもとばななの本はすごくよくて、帰りの電車で読み切ってしまった。涙がでてきてしまって、涙をがまんしたら鼻水がでてきて、鼻をすすった。
恋人はまたも寝始めて私の反対がわに倒れそうになっていたので、腕をくんで倒れないようにした。
中央林間につき、恋人は目をあけて、「ついたな」というと二人でおりた。
「ドーナツみてく?」と恋人にいわれたけど、本当に疲れ切っていたので、「いい」といい、「じゃあな」と言われて、わかれた。

恋人といるのに、恋人とあんまり話さず、本をみて、思想にふけっていた日だった。
小田急線にのり、長後でおりる。
階段をおりると7時だというのにまだ外は明るくて、でも風がすずしく頭のうえのほうで吹いた。
焼き鳥の匂いがして、汚らしいおじいさんがたばこをすいながらてくてくあるいてる。
小田急oxの袋をもったおばあさんがママチャリにのって私のわきをとおっていった。

はあ、と息をついてマスクを外した。
空気がすずしくて、おいしかった。

私の心はほぉっと落ち着いて、安心した。帰ってきたんだ。
早く家にかえって猫にご飯をあげないと。その前にシャワーをあびよう。

恋人にラインをする「長後についたらすごく落ち着いた!一緒にいってほんとにありがとう」
シャワーをあびてスマホをみると、ラインがかえってきていて「なんかバグってるから笑」
ときていた。
みかえすと
「一緒に行っ手本とにアリ牙突」とかいてあった。
「やられてるわ・・・。」と一人で呟いて、
猫がにゃあにゃあ泣いてくるので「ごはんだよねえ」と猫にはなしかけ、
猫の餌をもって台所にむかった。

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