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「こんな自分でもいいか」と少しだけ思わせてくれた言葉のこと

最近、「あまりに頭がわるいなあ」と思わざるを得ない体験をする機会に見舞われている。それは、一人で国内を旅しているときによく訪れる。

たとえば、先日、京都に行ってきた。いくつか目的はあるものの、大きな目的の一つが、京セラ美術館への訪問。『ルーヴル美術館展 愛を描く』が開催されていると知り、ぜひとも伺いたいと思ったのだった。

『ルーヴル美術館展(以下略)』は、京都に訪れる前に東京・六本木の国立新美術館でも開催されていた展覧会だ。そのとき東京にいたわたしは、それはもう心を踊らせながら美術館へと向かった。

ところが、わたしが訪れたその日はとんでもなく混雑しており、入場まではなんと110分待ち。まるでテーマパークのアトラクション状態で、なんとか入場こそできたものの、作品ではなく人を見ているといっても差し支えないほどの人混み。とてもじゃないがゆっくり作品を鑑賞できる時間なんて取れなかった。

ということで、京都への巡回は願ったり叶ったり。意気揚々と京セラ美術館を訪れたのだった。

京セラ美術館との対面もはじめまして。美しかった……。

やっと、やっと、作品とゆっくりと触れ合えるこの日を楽しみにしていた。実際、多少は混み合っていたものの、東京の人だかりとは比べるほどのものでもなく、とても心地よく鑑賞できる状況だった。最高のひとときである。

ところで、美術館で開催されている企画展に足を運ぶと、多くの場合、「音声ガイド」を借りることができる。ヘッドホンから流れる声の案内によって、作品に込められた意思をあらゆる視点から楽しめる優れものだ。今回の『ルーヴル美術館展』でも例に漏れず音声ガイドの貸出を行っていた。

わたしは、この音声ガイドがだいすきだ。美術館に訪れるときはもちろん、歌舞伎の観賞など、音声による案内を見つけると必ずといっていいほどそれを頼りにしている。自分自身のこれまでの知識だけでは汲み取りきれない視点を与えてもらうことで、一つの作品への愛着が一層湧くと感じているから。

そんなわけで、今回も、入場口で音声ガイドを借りることにしていた。軽い足取りでレンタルの窓口に向かう。「650円です」と、スタッフさん。手に持っている財布をひらく。おおん……400円しか…入っていない…な………………。

小銭もなければ、お札もない。会場内にATMがあるわけはないし、なにせもう入場口にまで来てしまっているので、いまさら引き返すなんて野暮なこともできない。

「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜やったわ〜〜〜〜〜〜〜!涙」という心の声をどなたにも聞かれぬよう、素知らぬふりをしてやむなく、そのまま展示室へ。東京でゆっくりと観ることができなかった分、随分と作品を堪能することはできた。ただ、心残りができてしまったのだった。

さて、2日後。わたしは再び、京セラ美術館の前にきていた。しっかりとお札と小銭を携えて。もちろん、音声ガイドを借りたうえで、もう一度展示を楽しむためだった。


……と、こういうことを、わたしは本当に旅のなかでよくやらかす。お金をおろし忘れるなんてことは日常茶飯、財布を置いたままでかけてしまうだとか、バスのなかに忘れものをするだとか、営業時間を確認していないせいで訪れたお店が閉店しているだとか、そういう類の失敗が数えきれない。

そのおかげで、一度財布を取りに帰るとか、忘れものセンターのお世話になるとか、お店に再訪するとか、二度手間になることばっかりなのだ。しかもこれらは、事前確認をしていれば防げるはずなので、余計にわたしは落ち込む。

「あまりに頭がわるいなあ」と、人間として未熟すぎる自分に辟易とするのだった。

「そういうことばっかりで、本当になにをしているんだろうって。いやになっちゃいますよね」と、最近起きた一連の阿呆エピソードを吐露する。わたしの目線の先にいたのは、北海道に暮らす友人、さちさんかんなさんのお二人だった。

どうにもフォローのしようがないこんな話を聞きながらも、二人はやわらかく「そうだねえ」と笑う。それから、一呼吸置いたあと、かんなさんはこんなことを言っていた。

「でもね、詩乃さんのその“こうしたい”っていう気持ちに素直なところ、私はいいなあと思うんですよね。ふつうだったら、まあいいかって諦めちゃうようなことも、詩乃さんはきっと諦められないんだなって」

「こまっちゃいますねえ」だなんて返しながらも、心がじんわりと温まるような感覚をおぼえた。

たしかに、言われてみると、いつもわたしはそうなのだ。行きたい、買いたい、会いたい、見たい、知りたい。そういう欲求に対して、まったくといっていいほど我慢ができない性分だと思う。突発的な衝動のままに動いてしまうから、後先を考えないし、準備も念入りではない。そうして、ミスをしてしまう自分のことをとっても悲しんでいた。

きちんとさえしていれば、時間どおりに物事が進むし、旅程だってきっと狂わないのに。たまたま一人でいる時間が多いから人に迷惑をかけていないだけで、もし友人がそばにいるタイミングだったら、わたしはもう何人かの友人に縁を切られているだろうとすら思う。

そんなわたしのことを「いいなあと思う」と表現してくれる友人がいた。その言葉を聞いて、隣の席に座るさちさんも「うんうん、そうだよね」と、全力で肯定してくれていた。あのとき、お二人にぎゅっと抱きつきたいと思っていたこと、伝わっていたでしょうか。

一側面だけを見れば、決して長所とはいいきれない、こういう性分。直したいなと思っていたし、直せるのならそれに越したことはないのかもしれないけれど、もう少し理性を上手に扱えるようになるまで、仕方なくかわいがってあげてもいいのかもしれない、と少しだけ感じられた。もちろん、どなたかに迷惑をかけない程度に、だけれど。


以前、かんなさんとお会いしたあと、彼女はnoteでわたしの話を書いてくれていた。すごく、すごく、うれしくて、わたしもいつかお返事になるようなことを書きたいと思っていて。だけれども、かんなさんの溢れんばかりの魅力をどう伝えたらいいのだろうと思って、筆が止まっていた。

半年以上もかかってしまったけれど、昔話の「あのときの鶴です」のような気持ちでこのnoteを書いてみている。かんなさん、それから、彼女と出会わせてくれたさちさん。お二人への、特大の感謝をこめて。未熟なわたしに、いつもやさしい言葉をかけてくれて、ありがとうございます。

「だいすき」だなんて言葉では語りきれないほどに大切なお二人。
話すときの語気にはじまり、後ろ姿までそっくりで愛おしい……。

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