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19世紀の異端科学者はかく語る:義務を果たす幸せ

1月7日からカクヨムでスタートした19世紀の異端科学者はかく語る:人生を幸せにする方法(原題:The Pleasures of Life)本日分を更新しました。noteでは、訳者の主観で「感想と解説」を投稿しています。


前回の「幸せになる義務」と対比的な、「義務を果たす幸せ」とは。
できれば本文を読んで欲しいのでここで多くは語りませんが、著者ジョン・ラボック流『19世紀の君主論』のように、私は感じました。

君主は天体のようなもので、崇拝されることはあっても休息はない。

人はときどき、完全に自由になれたらどんなに楽しいだろうと考える。(中略)
いわゆる快楽や自己満足のための人生は、本当の幸せや真に自由な人生ではない。それどころか、ひとたび支配に屈して自分自身の道を譲り始めると、最も耐え難い圧制の下に置かれることになる。

その他の誘惑も、ある意味では飲酒の誘惑に似ている。
最初は楽しく感じるかもしれないが、杯の底には苦みがある。
人は、以前の耽溺によって生じた欲望を満たすためにまた酒を飲む。
他のことでもそうだ。繰り返していると、やがて喜びではなく渇望になる。
酒に抵抗することはますます苦痛になり、最初はおそらくわずかな満足を与えてくれた降伏も、すぐに喜びを与えなくなり、一時的に安らぎを得たとしても、やがて嫌悪そのものになる。
こうなると、抵抗することは困難となり、屈服することも苦痛である。

自制心の扱い方は、最初は難しくても一歩一歩簡単になっていき、次第に楽しくなる。(中略)
元気な馬に乗ることは多少の力や技量が必要かもしれないが、古ぼけた馬車でのろのろと匍匐ほふく前進するより、どれほど楽しいことだろう。
前者では、意思を持った生命力の自由で手応えのある弾みを感じ、後者では、鈍くて生気のない奴隷を駆り立てなければならない。
自分自身を支配することは、現実には最大の勝利である。

トーマス・ブラウン卿は「自分自身の君主である者は、地上の神や王冠をかぶった者が受ける栄光をうらやむことなく、満足げに自分の王笏を振っている」と語っている。真の偉大さとは、地位や権力とはほとんど関係がない。

引用して紹介したい文章がたくさんあるなぁ。
上記は啓蒙的なメッセージでしたが、文学的な一節もいくつか。

若くして死んだ人間が天空の広間に入ってきた。
そこには神々が座っており、彼は神々と二人きりになる。
神々は彼にギフトと祝福を与えて、玉座へと手招きする。
しかし、神々と彼の間にいきなり幻想の吹雪が出現する。
彼は自分が巨大な群衆の中にいると感じ、群衆に従わなければならないと思い込む。狂気の群衆はあちこちに走り回り、あっちへこっちへと揺れ動く。
彼を翻弄する幻想の正体は何か?
彼は流されるままに生きてきた。
死後、どうして自分で考えたり行動したりできるのだろう。
雲が持ち上がり、そこには神々がまだその玉座に座っている。
神々は彼と二人きりだというのに。

人は隠れ家、田舎の家、海辺、山などを欲しがる。あなたもまた、そういうものを非常に欲するだろう。しかし、これは、最も一般的な種類の人間の「しるし」といえる。なぜなら、あなたが選ぼうと思えばいつでも、自分自身の中に引きこもることができるからだ。自分の魂の中ほど、静かで、悩みから解放される場所はない。特に、自分の中に考えがあり、それを見つめることですぐに完全な静寂に包まれる場合はそうだ

自分の魂にそのような聖域を持つ者は、実に幸福である。

個人的に、翻訳していてぐっときた一節。

私の魂が飛び立つのを見ても怖いと考えないで。
死すべき運命の暗い門をくぐり抜けよう。
人生が真実ならば死は怖くない。
死を恐れるものは、病みながら生きているからだ。



\アレクサンドル・デュマ・フィスの未邦訳小説を翻訳しました/


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