見出し画像

自殺と老衰

2024年になってから、
自殺とは何かを追いかけている。

新年が明けて、ふと思い立ったかのように、
自殺とは何か、あの自殺はなんであったかを
追いかけるようになったのだ。

自殺が起こった場所に行ってみたり、
故人が亡くなる間際に
会っていた人に会いに行ったり、
自死遺族の集まりに行ってみたり、
本当にたくさんのことをした。

そしてそのたくさんのことは、
したいと思ったタイミングで必ず叶った。

自殺を追いかけるにあたって、
障壁となったものは何もなかった。

そんな中で祖母がこの夏亡くなった。
老衰だ。もうすぐ100歳だった。

「100歳のお祝いはどうしようか」なんて、
初夏の頃には当たり前のように親戚と話していた。

自殺を追いかけている最中での祖母の死だった。

朝起きて、「おはよう」と言って、
朝ごはんを食べて、
施設のみんなで遊んで、
少し眠たくなったものだから
お昼寝をしてみたら、
そのまま眠っていたらしい。

薬さえ一錠も飲まず、
ペーストとはいえ口からご飯を食べていた。
お手本のような老衰だ。

このタイミングでの、祖母の死だ。
きっと私に強く訴えかけるものがあるだろう。
あの日、自殺が強く私に語りかけてきたように。
祖母と対面するまでは、そう思っていた。

しかし、そんなことはなかった。
祖母の顔は本当にやわらかい表情で
いつものお昼寝と変わらないものだった。

"あぁ、そうか。
朝起きて、朝ごはんを食べて、
みんなと遊んで、眠くなったから眠る。
全部当たり前なことじゃないか"

死は特別なことではないのだ。
当たり前のように祖母はお昼寝をしたのだ。

当たり前のことなのだから、
ビビットな体験や語りはない。
当たり前だ。特記事項なしだ。

田舎の100歳近いおばあさんのお昼寝。
そんな当たり前を見せてくれた祖母は
本当にすごい。

では、自殺はどうか。
人がのまれてしまうような、あの、自殺のことだ。

この夏見た当たり前と
あの夏見た自殺を比較してみるが
まだ何もわからない。

自殺を追いかけること。
それは、まだまだ続くのか。もう終わるのか。

また少し経過を見ていきたいと
まだまだ願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?