見出し画像

エッセイを書くとき、私が心にとめていること

 エッセイについて考えるとき、思い起こすのは高田宏先生のことです。高田先生は編集者であり、大佛次郎賞など数々の受賞歴を持つ作家であり、そして随筆の名手でした。
 著書はたくさんありますが、いまでも手に入れやすそうなものをひとつ紹介しておきます。『木のことば 森のことば』(ちくまプリマー新書)↓

 私がはじめてお目にかかったのは、先生が選考委員をなさっていた、ゆきのまち幻想文学賞の授賞式でした。いま思えば、私の作品を私以上に理解してくださっていた先生です。
 ゆきのまち幻想文学賞にはそれから何度か入賞し、年に一度の授賞式で、高田先生から選評を聞くのが楽しみでした。

 『木のことば 森のことば』の書名からもわかるとおり、先生は樹木や森、自然との対話をとても大切に思っている方でした。一方で、古今東西のSF作品をよく読まれ、人類愛を尊んでいました。
 私は北大農学部の林学科を出ており、木や森は大好きです。また、人類愛を描くSFも好き。自分でもそういうものを書いていました。
 もしかしたら、世界を見るまなざしに近いところがあり、先生はそれを好ましく感じてくださっていたのかもしれません。
 私は当時、いまよりもっと未熟だったので、高田先生がどんなにあたたかい目で見守り、はげましてくれていたか、じゅうぶんに気づくことはできませんでした。

 人として歳を重ね、書き手として、試行錯誤という名の経験を積み、いまになって「あのとき先生がおっしゃっていたのは、こういう意味だったのか」と思うことがたびたびあります。 
 先生の著書を読み返し、あらためて気づかされることや、考えさせられることも……。時を経て色あせない文章とは、こういうものをいうのだなとつくづく思います。
 その高田先生が、エッセイについて(エッセイストという呼び名について)、次のように書いています。

「もしエッセイストという呼び名が、身辺雑記をただなんとなく書き散らす人とか、重い事柄を避けてちょっとしたことを器用に軽妙に読ませる人とかに与えられるものだとしたら、そういう呼び名はごめんこうむりたいものです。私は器用な人間になりたいとは思っていません。いわゆる不器用な生き方の人にこそ私は敬意をはらい畏れを感じてきましたし、私自身、不器用であることをひそかに誇りとし、不器用のままで生きぬいてみようと思っています。」(高田宏著『エッセーの書き方』より)

 高田先生らしい、印象に残る一節です。
 私がエッセイを書くとき、心のどこかにこの一節がいつもあります。だからといって、どう書けばいいかがわかるわけではないのですが、この一節を心にとめて、不器用でもいいから、そのときの自分のことば(あるいはエッセイというもの)に対して誠実であろうと努めます。

 私がキリスト教の洗礼を受けたとき、年賀状でそれを報告したら、先生もハガキで「おめでとうございます」とお祝いの言葉をくれました。先生はクリスチャンではありませんが、私の受洗を喜んでくださいました。
 いま、私がエッセイを書く目的は、〈イマどきのキリスト者〉つまり現代の日本に生きているクリスチャンの生の暮らしを発信すること。暮らしというのは、生き方や考え方も含めてですね。
 軸足がぶれないよう、そして、先生に喜んでもらえるよう、書いていきたいと思います。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、scoop_kawamuraさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

この記事が参加している募集

推薦図書

ありがとうございます。みなさまのサポートは、詩や文章を生み出すための糧として、大切に使わせていただきます。また、お仕事のご依頼はページ下部の「クリエイターへのお問い合わせ」からお願いします。キリスト教メディアの出演・執筆依頼も歓迎です。