イースター(復活祭)には続きがある

 ノンクリスチャンだったころ、私はペンテコステを知りませんでした。
 クリスマス、イースターと合わせて、キリスト教の三大祝日といわれている行事です。今年は5月31日の日曜日。

 イエス・キリストが十字架にかけられて、3日目に復活したというエピソードは、日本でもよく知られています。もちろん、ノンクリスチャンだったころの私も知っていました。
 でも、新約聖書の内容は、そこで終わりではありません。

 イエスさまの復活=イースターについては、こちらの記事↓と、その前後の記事で書いているので、よろしければどうぞご覧ください。

 新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書の次に、使徒言行録という文書があります。その1章に、こう書かれています。

 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(使徒言行録1:3 新共同訳※以下同)

 私は洗礼を受けるずっと前、まだ大学生だったころに、聖書を何度か通読しています。当然、ここも読んでいるはずですが、記憶に残っていませんでした(笑)。
 受洗前の私は、イエスさまは十字架から3日目に復活して、すぐに昇天されたと思っていました。

 ですから受洗に際して、教会でこの箇所を読んだときは、新鮮な驚きがありました。復活のあと、40日も地上にいてくださったとは……そうだったんだ、と。

 今年のイースターは、4月12日でした。教会暦ではこのあと、5月24日が昇天日(キリストの昇天を記念する日)とされています。その翌週が、ペンテコステですね。

 とすると、イースターを過ぎて、5月に入ったばかりのいまは、復活したイエスさまが地上にいてくださった期間にあたります。そう考えると、なんだかとても神聖で、かけがえのない時間のような気がしてきます。
 ノンクリスチャンだったころはまったく意識していませんでしたし、クリスチャンになってはじめのころも、「イースターが終わったら次はペンテコステか」くらいの気持ちでしたが、年々、この期間が愛しく思えるようになってきました。

 聖書の時代の人たちは、イエスさまの十字架のあと、どんな気持ちだったのかなあ、と考えます。
 いっときはメシアと思ってイエスさまに期待しながら、いざ罪人として捕らえられたとなると、ある人は悪意をぶつけ、ある人は見捨てて逃げ、助けようとしなかったのですから。
 もし、イエスさまが復活しなかったら、彼らは自分のしたことの後ろめたさや、罪悪感に、ずっと苦しんだのではないでしょうか。

 十字架刑の前、三度もイエスさまを知らないと言って保身に走ったペトロが、鶏が鳴いたあとで激しく泣いたように。

ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカによる福音書22:61-62)

 復活して弟子たちの前に現れたイエスさまは、そのペトロを、責めたりはしませんでした。
 かわりに「わたしを愛しているか」と三度尋ねて、ペトロが保身のためにイエスさまについてしらばくれた回数だけ、「愛している」と答える機会を与えてくれたのでした。(ヨハネによる福音書21より)

 こういうエピソードを読むと、この40日間は、自分の心の醜さや弱さに打ちひしがれた人たちが、赦され、愛され、癒されて、もう一度清く生きようと立ち上がる、そんな時間だったのではないかと思えてきます。

 挫折したところで終わりじゃないんだよ、過去に誤りがあったなら、それを悔いて、改めれば、人は再生していけるんだよという、キリスト教のメッセージの核心のひとつを、じわじわと、深く感じることができる。私にとって、イースターの続きのこの期間は、そういう時間でもあるように思います。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、hanakokoroさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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