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「復活」の信じ方も人それぞれ ~キリスト教の奥深さ

 イエス・キリストが十字架にかけられて処刑され、3日目に復活したというエピソードは、日本でも一般によく知られています。では実際、クリスチャンがどんなふうに「復活」を信じているのか。実は案外、信じ方は人それぞれで画一的ではないということは、あまり知られていないように思います。

 もちろん、聖書の記述はすべて事実だ、と考える教派もあります。
 一方で、私がいま所属している教派のように、「聖書は科学の書ではないし、歴史書でもない、信仰の書だから、現代に生きる私たちがそこから何を学ぶかが大事」と考える人もいます。

 以前、ある教会の新約聖書を読む集いで、こんなことがありました。マタイによる福音書の28章、イエスの復活のくだりを読んだ日でした。
 牧師は「復活」について、いろいろな考え方があると話しました。

 たとえば、
・聖書に書かれているとおりの事実があった。
・記述のとおりではないにしても、福音書の記者がこのように書き残したいと思う、何らかの事実があった。
・弟子たちは処刑されるイエスを見捨てて逃げた。その弟子たちの心に信仰が復活し、キリスト教が生まれたことの比喩。
 ざっくりと例を挙げ、「みなさんは、どう考えますか?」と。

 参加者は、それぞれが「自分はどうだろう」と考えながら、牧師自身の意見を聞いて、その集いはお開きになりました。発表したり、議論したりはありませんでした。
「復活」をどう考えるかは、ひとりひとりの信仰の核心に触れる部分でもあります。
 決められた答えがあってそれに従うのではなく、それぞれが神と自分との一対一の関係の中で、理解を深めていけばよいのだと思います。

 私自身はというと、上記の3つでいえば、現状は2つめに近い立場です。私もひとりの物書きとして、福音書の記者にはリスペクトがあります。だから、書くからにはきっと何らかの出来事があったのだろう、と考えます。

 でも、それよりむしろ「2000年も前の事実は確かめようがないから、事実かどうかを考えてもしょうがない」という気持ちが強いです。
 仮に「復活」がなかったのだとしても、私は聖書に記された、人としてのイエスさまを尊敬し、生き方や言葉に倣いたいと思うので、事実かどうかは関係がないのです。

 ただし、もし「復活」がなかったら、2000年も先の時代にまで聖書が広く伝えられ、しかも翻訳されていて、エルサレムから遠く離れた東洋の日本にいる私の手に届くなんてことはなかったでしょう。
 その意味でも、キリスト教に「復活」は不可欠のものだなあと思います。おかげで私は、イエスさまを知ることができたのですから。

 クリスチャンの信仰は、洗礼を受けてからが始まり。
 受洗した時点で完成しているのではなく、その後の人生を歩みながら、ひとりひとりのなかで深まり、育っていきます。この先、私の考え方も変化していくかもしれません。

 人生では、ときとして予想外の出来事に見舞われます。そのときそのときの局面で、はっとするような発見や、新たな理解を伴いながら、心を支えたり、守ったり、進む道を照らしてくれたりする。迷い、悩み、苦しむときも、思いもかけない方法で寄り添ってくれ、共に歩んでいくことができるところが、キリスト教の奥深さだと思っています。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

「信じ方は人それぞれ」については、↓こちらの記事もどうぞご覧ください。


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