「イエス・キリストのみ名によって」と祈るとき ~回心の旅路

 一日のうちで、私は何度かお祈りをする。習慣になっているのは食前の祈りで、朝、昼、晩のごはんの前に、声に出して祈る。ひとりのときもそうするし、たいていは夫と一緒なので、ひとりずつ順に、声に出して祈る。10年とすこし前にキリスト教の洗礼を受けてから、これは毎日続けている。

↓食前の祈りについて、詳しくはこちらをどうぞ。

 それ以外にも、悩み事があるときや、誰かや何かの無事を願うとき、神さまに感謝したいことがあるときなどに、ひそかにひとりの時間をもって、黙想したり、小さな声で祈ったりする。

 どうしてひとりで祈るかというと、

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
(マタイ6:6 聖書新共同訳)

 と聖書にあるから。食事や集会のときは別として、個人の祈りは人目を意識するような状況ではなく、三位一体の神と自分が1対1の関係になれる環境で、まっすぐに神さまに向かってするのがいい、と私は解釈している。

 私はプロテスタントのクリスチャンだ。プロテスタントの多くの教派は十字を切る習慣がないので、お祈りの最後は言葉だけ。人によって、また、そのときどきでバリエーションはあるけれど、私の場合はだいたい、「この祈りを、主イエス・キリストのみ名によってお捧げします。アーメン」と締めくくっている。

 お祈りのはじめはというと、「天の神さま、」とか、「天にいらっしゃいます父なる神さま、」とか、「御在天の父なる神さま、」とか、そういう言葉で呼びかける。
 つまりお祈りは、天上の神さまへの祈りを、いつも私たちのそばにいるイエスさまにとりなしてもらって捧げる、という構図になっている。

 最後の決め文句である「イエス・キリストのみ名によって」は、これまで毎日、祈りのたびに唱えてきた。
 それが今日、その言葉を唱えているとき、ふと、「イエスさまのお名前で祈らせていただいているのだから、私はそれに報いる人間にならないといけないなあ」と思った。
 10年以上この言葉を唱えてきたけれど、そんなふうに思ったのは、はじめてだった。

 いまごろ気づいたの? そんなのクリスチャンなら当然のことでしょう? と思われるかもしれない。たしかにそうなのだけれども、今日はそれが心の奥深いところから、実感として湧いてきたのだ。

 カトリックの来住英俊神父は、著書『ゆるしの秘跡』(女子パウロ会)のなかで、「回心の旅路」という言葉を使われていた。これは、ノンクリスチャンが洗礼に至るまでの道のりのことを言っているのではなく、すでに洗礼を受けたクリスチャンが、イエス・キリストとともに歩んでいく道のりのことを指している。
「すっかり回心したから、洗礼を受ける」ではないのだ。
 洗礼は、「イエスさまと一緒に、これから長い長い回心の旅路を歩んでいきます」という決意表明みたいなもの(と、私は思っている)。

 洗礼を受けたからといって完全な人間になれるわけではないし、信仰が完全なわけでもない。クリスチャンはみんな、回心の旅路の途上にいる。
 だから、10年続けていたお祈りの言葉の意味が、あるときふっと、より鮮やかにイメージできて、より深く呑みこめる、ということもある。
 それが、私には楽しい。

 信仰の旅路は、回心の旅路。きっと道は平坦ではないけれど、あのイエス・キリストと一緒に行けるのだから、いい旅になるのだろうなあ、と思っている。


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、hanakokoroさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

↓来住神父の『ゆるしの秘跡』についてはこちらをご覧ください。


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