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さらけ出すこと

こんにちは。(有)神輝興産、代表の中 憲太郎です。

私事ですが、最近、社外の3人の方に立て続けに「もっと自己表現しなさい」と言われる機会がありました。 

そのうちの1人は初めて施術していただいた整体の先生です。背中をさわられた瞬間に、
「何考えているのかわからない。思っていること絶対言わないですよね」
と言われました。 

また、日本史を研究されている先生にも、
「まじめなふりしすぎ。そういう自分がいることもわかるが、それだけじゃないだろう」
「このままいったら心配。いつか爆発する」
とまで言われました。

これには思い当たる節があります。私にとって自己表現することは、人生の課題だとも思っています。

今回は自己表現について、もっと言えば「さらけ出す」ことについて、私の考えを書きたいと思います。

自己表現の課題

昨年、社外の研修(メンタルモデル)に参加したときに、実家で両親と対話するという課題がありました。私と両親の関係は決して悪くなく普通に会話できる仲です。しかし、これまで面と向かって対話する機会はほとんどありませんでした。

少し恥ずかしさもありつつ対話を試み、同席していた姉も交えた家族との対話のなかで「自分はこどものころ、どんな子やった?」
と聞きました。

すると3人から返ってきた答えは以下のものでした。

【父】
向こう意気が強い、カッとなったら止まらない、自分が納得しなかったら聞かない、親に逃げない、小さい時はお調子者、おちゃめ、小さい頃から嬉しいときに全面的に喜んでいる姿を見たことがない。
芯が強い、強情、感受性が強い、人見知りがきつい、警戒心、損得で動かない、良い人と出会う

【母】
有言実行のイメージ、やると言ったことはやる、なに考えてるかよくわからない、自分のことについて話さない

【姉】
自分を持っている、強情、頭が切れる、公園で助けてくれた、なに考えてるかよくわからない
 
中でも3人の家族に、

「全面的に喜んでいる姿を見たことがない」
「なに考えてるかよくわからない」

と言われたことは私にとって大きな衝撃でした。自分のことを理解してくれていると思っていた一番身近な家族に、なに考えてるかわからないと言われたのです。「まじかよ…」と、ショックだったのを覚えています。

自己表現しない理由

なぜ自分は自己表現しないのか、この疑問を深掘りしました。メンタルモデルで「紐解き」と呼ばれるものです。これは、怒りや悲しみなどの一般的にマイナスだと言われる感情が生じたときを思い返し、そのような感情が生まれる要因となる自分の信念を見つけるというものです。

紐解きのなかで見えてきたのは、「本音を言ったら人が離れていってしまうという怖れ」が自分のなかにあることでした。私は「ひとりぼっち」というメンタルモデルに該当し、人が離れていくことに強い痛みを感じるのです。

私の思考ロジックは以下のとおりです。

本音を言ってしまうと、人が離れていくと思い込んでいる。

だから本音を抑圧する。

本音を言うかわりに、受け入れる。受容する。
受け容れることでつながりを保とうとする。

だから自己表現しない。

このようなロジックで、基本なんでも受け容れるスタンスで今までやってきた結果、おかげさまで大抵のことでは動じなくなりました。

しかし、冒頭で述べたとおり、見る人が見れば自己表現していないのはわかるのでしょう。身体的な反応が出ていることを考えると、本音を隠して受容することには限界がきているのかもしれません。そして自己表現するという新しい体験を無意識に求めはじめているのかもしれません。(顕在意識では全く思っていません。怖れまみれです)

自分の怖れを認識して以降、ビビりまくりながら自分の本音を少しずつ開示するようにしています。

昨年は、幹部会議のなかで幹部のひとりから「中さんはみんなの意見を聞きすぎる」と言われました。そのときに私は「自分の意思決定を否定されるのが怖い」と正直に自分の怖れをポロッと開示することがありました。これは自分でも驚いた変化でした。

すると幹部たちからは、

「堂々と進んでいい。石橋叩きすぎ」
「よっぽどおかしかったら止めるから」
「みんなそんなに否定しないし大丈夫」

と声をかけてもらえました。とても勇気づけられたのを覚えています。

自己開示で得られるもの

これまでは、「みんなの前で『怖い』なんて言ったら、バカにされてみんないなくなっちゃうんじゃないか」と、自分を抑制していたのだと思います。しかし怖れを開示しても、人が離れていくことはなかったのです。人が離れていくどころか、むしろつながりが強くなったと感じています。

そしてもうひとつ、怖れを口に出したことで得られたものがあったと感じています。それは、楽になれたということです。

弱い自分、自分でもダメだと思っているところ、本当は隠したいことをさらけ出してみる。さらけ出しても、怖れていた結果には結びつかないこと、怖れは単なる想像でしかなかったこと、逆に受け容れてもらえること(少なくとも私はそう感じました)を実際に体験する。これにより、「開示しても大丈夫なんだ」「さらけ出しても、人は離れていかないんだ」と自分で自分にかけていた制限をひとつ取り外し、すごく楽になった感覚があったのです。

生存本能

人間の行動や思考には、生存本能が深く影響を与えています。見方を変えれば、人間が生存本能に操られているとも言えます。

生存本能とは簡単に言うと、この世界で不快なことをなくしたい、不快を経験したくないという衝動のことです。危険なことを避けるために人間に備わった機能とも言えます。つまり生存本能を持った人間は、「常に危険がある」という前提でこの世界を認知しているということです。何を危険とするのかは、その人固有のものがあり、それをメンタルモデル(観念や思い込み)と呼ぶこともあります。

そして、「危険だ!」と捉えたら体が反応(緊張したり青ざめたり)し、その危険をなんとか克服するか避けようとします。攻撃したり防御したりするのです。怒って相手を責めたり、言い訳したり、黙り込んだり、と人によって方法は違いますが、これらの行動は生存本能によってほぼ無意識で行われます。

私の場合、「自己表現すると人が離れてしまう」という思い込みがあるようです。それは、子供の頃の実体験によるものだと思います。家族に接するようにわがままに友達に接すると嫌がられて人が離れていく。思ったことを発言しただけでまわりから孤立する。このような傷ついた経験の中で、「自己表現をすること、本音を言うことはリスク」だと思い込んだのだと思います。

子どもの頃はとくに、親の扶養がなければ生きていくことができません。だからこそ、幼少期に親の顔色をうかがい、「こうすれば嫌われない」「こうしておけば安全」と学習していきます。家族や学校などの集団のなかで、自分を守る方法を培っていくのです。
しかし、この自分を守るために培ってきたものは、逆に自分を制限してしまうものでもあります。安全だと思う領域を自分で定義し、自分の枠を作り、そこから出ないようにする。その枠の中にいれば安心であり、その枠の外に出たら危険だと思ってしまいます。

「本音を言っただけで人が離れていくわけないじゃないか」と思う人もいるかもしれません。しかし、当時の私は本気で人が離れると信じ切っていたのです。本心をさらけ出すこと、ありのままを出すことは、私にとってはとてもリスクのある行為だったのです。

本当の自分とは?

本当の自分、ありのままの自分とは何でしょうか? この答えは人によって様々だと思いますし、私もこれだという答えは持っていません。ただ、自分の中の「認めたくないけど確かにある」ものを認めることが大事だと感じています。

メンタルモデルは人それぞれです。

一部の人は、人の役に立たなければ自分の存在意義がないと思っているかもしれません。そのような人は、優秀な自分を積極的に見せようとするでしょう。役に立つ自分、気の利く自分、おもしろい自分、みんなの話を聞ける自分。他者の役に立てたとき、他者に感謝されたとき、喜んでもらえたとき、自分の存在意義を味わうことができるでしょう。

一方で、優秀である自分を見せたい人は、ダメな自分は必死で隠そうとします。失敗した自分、迷惑かけた自分、会話に乗れない自分、チームに馴染めない自分。そんな自分を自分では認めたくないと思ってしまいます。ダメな自分は無いことにしようとします。

また、他者をがっかりさせてはいけないと思っている人もいるでしょう。そのような人は、できない自分をあえて演じることもあるかと思います。できる自分を隠し、自分はできないことにして、自分の価値を低く見積もる。そうすることで他者にがっかりされるのを防ぐ。こういう信念を持っている人もいるでしょう。

共通しているのは他者に見せたい自分と、他者に見せたくない自分の2つがあるということです。自分の中にあってもいい自分と、あってはならない自分(必死にフタをして隠している自分)の、両方を持っているのです。

私の願いとして言うと、隠したい自分を無いことにせず、まずはあることを認めてあげてほしいです。そして、できればその隠したい自分も少しだけ、出してみてほしいのです。

隠しておきたい自分をさらけ出してみると、新しい自分に出会えます。自分にもこんな一面があったのか、自分はこんな感情があったのかなど、自分でも驚くような一面が見えることがあります。

本当の自分とはなんなのか。そんなものはないのかもしれませんが、新しい自分に出会い続けることで、自分のことを前よりも少しずつでも知っていくことができるのだと思います。

まずは認めることから

「そうは言っても怖い」「どう自分を出していいかわからない」

と思う人が大半だと思います。

もちろん、何かを表現したことで、否定されることもあるかもしれません。どんな反応が返ってくるか、自分ではどうすることもできません。自分が望んだ反応が返ってくるかどうかはつねに五分五分です。肯定されるかもしれないし、否定されるかもしれない。どっちになるかはわかりません。でもだからこそ、とりあえず体験してみようという気持ちを大切にしてほしいです。

そして、身近な人で自己開示した人、新しい一面を見せてくれた人を認めてあげてください。肯定する必要も、否定する必要もありません。ただ認めてあげるのです。

「そうなんだね」
「そう思ってたんだね」

と声をかけてあげてほしいのです。このような姿勢の積み重ねが、後に自分をさらけ出しても大丈夫だという安心感につながっていきます。

おわりに

このコラムを執筆している最中、別の方に「人が離れていってはいけないと思い込んでいるからではないか」と言われ、ハッとしました。「人が離れてしまった自分、誰もいなくなってしまった自分を愛せないのではないか」と。

まさにそのとおりで、私は無意識に人が離れることはダメだと考えているようです。

自己表現することは人が離れることにつながり、そんな自分は愛せない、という思い込みです。

このような思い込みがあるため、私もすべて自己開示できているかというとやっぱりできていない部分はまだまだあります。本当に大事なことは言えてないのかもしれないとも思います。

自分の中にまだほかにも怖れはいくつかあると思いますが、いつのまにか自分を守るために着ていた鎧(思い込み)を脱いでいくことで、少しずつ軽く楽に生きていければなと思っています。


有限会社神輝興産:https://www.shinki-ktr.co.jp/

代表 中憲太郎:https://twitter.com/ktr_kenaka

取材・言語化・見える化:大谷信(https://twitter.com/OtaniMkt

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