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自由を得るには曖昧な領域を容認すれば良い

至って簡単なことに壁を作ることがある、それは理想だったり、良質な形だったり、目標設定値の高さだったりする、ただ言えることは、それにはある程度の段階と現実味を帯びているかが肝心なような気がする。


  最近終えた、NPO法人としての、理事会に総会。
これに関しては、1年間を振り返って報告する義務があり、そして、今後の未来を話す・託す義務が生じている、これは法的に考えると会社組織の株主総会や小さな会社でも中期長期戦略みたいな感覚が類いしているのかもしてない。会社を見直すには、収益性や継続性も含め整理する、絶好のチャンスとも言える。

この総会等で度々、話の中で昨年も話していたが、なかなか進んでない事業が数カ所見つかる時がある、それは外部の依頼に依存しすぎた結果、時間の余裕を失う事態と、強い本質で言えば、自分の思い描く領域が高すぎる点にある、これは長く続ければ続けるほど、増大しやすい思考であり、他者や他社を意識するたびに、それを越えようと意識が増し、視野が狭くなる、ではどうすれば事が運ぶか、それは自社のできること、小さなことでもそれが必要であればそこに集中することが望ましい、例えば、意識の共通を図り、ロゴを一新するとか、そして、そのロゴを看板にするとか、とても小さなことが実は自社のデザインを確立し皆がどこに進むかを共有できるツールと化す。

では、なぜ、自由を得るには曖昧な領域を容認すれば良いかというと、自身の体質なのか思考なのか分からないが、ある一定の小さなことが進んでいないのにも関わらず、大きなことを成し遂げようと考えてしまい、結局のところ何も進んでいない状態が数年続いたからである。

これは、実体験だが、依頼はとても早い速度と締切、そして相手方の熱意で実行に移しやすく、それなりの果実も獲る点にある。そして、初心よりも、できることが増え、色々なことに手を出したくなるが、本来ある経営や自分のしたいことから、相手のしたいことへと変換されていることに気づかなくなるのではないかと考える。

会社を始めた1.2年は自社に集中せざる終えない状態でもあるため、その外部や自身の高度な高みの思考は持ち得ていないが、年々自分のことから遠ざかる事柄に対応すべく、自由であった発想やアイデアが乏しくなることのジレンマが生じるようになる。

そうなっていうると、もう、形的には存在しているが、「面白くない」「会社と自分が重なり合って身動きが取れない」ただただ、数字の格闘と規模を大きくすることのみ意識が集中し依頼に関しても、大切な依頼より、自分を大きくする依頼に偏ってしまう、そう身の丈を超えた、もっと大きなものを望むようになってくる、方向性より華やか性、ユーモアより収益性と負のスパイラルに陥るに違いない、そこで失くすのが「自由」である。子供のように楽しく考えていた思考、この自由をなくすことは、未来をなくすことにほかならず、完璧性とクオリティの高い思考風が自由を邪魔していることにすら感じなくなる、これが俗にいう「理想たかく実行せず」状態を継続させる、これでは依頼だけの「自分磨きを怠る」結果として、正しい依頼が見えなくなる。

年を追うごとに、色々な経験の中、色々なものを知ってしまったが故の壁だが、本当の自由を得るには、適度な曖昧さとフットワーク、適度な吟味と理想と少し違ってもそれを楽しめる心(容認)が、「できることの実効性」が増し、現実的な身の丈をぐんと伸ばすのではなかろうか、それを踏まえた上で、来年の総会では、小さな実行の同じ案件を繰り返し話すことを減らしたいと心から思う。この小さな実行こそ、大きな歩みの一歩となると信じて、自由なき未来はないと曖昧だが確信している。

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