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2つの「Beautiful World」と私の陰謀論


 2021年3月8日、ファン待望の「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」が公開された。
 私も前作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」から8年間待ち続けていたファンの一人であった。

 公開から1か月以上が過ぎ、もう巷では考察のブログやら動画やらは溢れかえっていると思うので、そのあたりはお任せして(というかそこまでの知識はないので、甘んじて享受することにして)、私はヱヴァンゲリヲン新劇場版4部作の主題歌に触れていきたい。

 まあ主題歌の話も星の数ほど考察されているのかもしれないが、私のnote生活は「オトノトショカン」という、歌詞の考察を小説にするシリーズからはじまっているので。
 頭を軽くして、あまり生産性のない考察をしていきたいと思う。
 半分感想戦だと思って聞いてほしい。というか、私のこうであってほしいという願いかもしれない。

 が、相手はあの宇多田ヒカル氏である。
 一体彼女の頭の中にどういう世界が広がっているのか、恐らく捉えきれる人はいないだろう。
(突き放した言い方かもしれないが、わたくしは生まれたころから彼女の曲を聞いて育ち、コンサートソロ参戦するほどのファンである。ファンだからこそわかるものもあるのだ)

 さらに主題歌一覧はこちら

・Beautiful World
・Beautiful World-PLANiTb Acoustica Mix
・桜流し
・One Last Kiss
・Beautiful World(Da Capo Version)

 平たく言えば手に負えないので、今回はテーマを決めて、

 『2つの「Beautiful World」』としたい。

 ここで言う2つの「Beautiful World」は
新劇場版序の「Beautiful World」と、(以下無印版)
シンエヴァンゲリオンの「Beautiful World(Da Capo Version)」(以下ダカーポ版)
を考える。

「『Beautiful World-PLANiTb Acoustica Mix』(以下アコースティカ版)どこいったんだよ!」

 というファンの皆様の罵り声が聞こえてくるようだ。
 座布団を投げるのはおやめください!
 この件については後に説明いたしますので、どうか今はお静まりくださいまし。

 さて、4年間法学部の端くれであったにもかかわらず著作権法には明るくない私でも、歌詞をまるまる載せることがアウトなことくらいは分かる。出来ればご自身で手元に歌詞を用意していただけるとありがたい。加えて無印版とダカーポ版を並べていただけるとよりここからのお話は分かりやすいかもしれない。

 そして今更ですが、ここからはエヴァ関連の映像作品を見ていただいている、ネタバレ大丈夫ですよね…… ? のスタンスで話を進めていく。まだ見ていないという方はお気をつけを。

 この2つの曲には大きく3つの違いがある。

①キーの違い
②歌詞の違い
③曲調の違い

 ③はともかくとして、①と②はアコースティカ版では無印と全く同じだった。
 私はここに意味があるのではないかなと考えた。
 (まあ、シンを観てエンディング流れたときはもうぼろぼろでそれどころではなかったのですが。)

 まず①キーの違いで私が直感的に思ったのが、
「歌っている対象」が異なっているのではないか。ということ。
 具体的には無印版がシンジ君、ダカーポ版がゲンドウである。
 キーで歌い分けているとすれば、アコースティカ版の対象もシンジ君ということになる(個人的にはシンジ君と同世代の肉体を持つアスカやカヲル君なのかなとも思うが今はやめておこう)ので、今回は横に置いたというわけである。

 この前提に立って②歌詞の違いを見ていきたい。

 
 そもそも「Beautiful World」シリーズは、途中に出てくる歌詞「It’s only love」からも分かる通り愛を歌ったものである。(すごく大雑把に言うと)

 では誰と誰の愛について歌っているのか。

 結論から言うと、無印版はシンジ君と母ユイさん、ダカーポ版もゲンドウとユイさんの歌だと考えている。

 まずは歌詞を見て考えよう。

 無印版にあって、ダカーポ版にはない歌詞が一か所ある。
 部分引用なら大丈夫だと信じて以下に載せる。

「どんなことでも やってみて損をしたって 少し経験値上がる

新聞なんかいらない 肝心なことが載ってない
最近調子どうだい? 元気にしてるなら 別にいいけど」

 さて、ここで無印版の歌詞を全体で見てもらいたい。
 無印版全体で上記の歌詞がなくなると、一気に雰囲気が変わることに共感してもらえるだろうか。

 シンエヴァンゲリオンが公開される前、私の「Beautiful World」に対する感想として、この部分があることで、シンジ君のような若い少年の息吹を感じられた。「少し経験値あがる」といった部分だったり、「最近調子どうだい?」という歌詞から、10代の多感な少年のニュアンスを感じられたのだ。

 だからこそダカーポ版を聴き、歌詞を見たとき第一に「ゲンドウの曲だ」と感じたのだろう。そして世間で「そもそもBeautiful Worldというはゲンドウの曲だったのだ」と言われたことには強烈な違和感を感じた。

 もう一つの大きな違い。歌詞の順番である。
 ダカーポ版では、無印版での1番ABメロから2番サビに歌詞が飛んでいるのがわかる。先ほどの若さを感じるニュアンスの歌詞ではなくだ。

「僕の世界消えぬまで会えぬなら 君の側で眠らせて どんな場所でも結構」

 歌詞の順番によって、この歌詞の意味が変わってくる。

 無印版だと、亡くなっているユイさんと母の記憶があまりないまま生きているシンジ君がそれぞれ歌詞を語っているようにも見える。具体的にはABメロはシンジ君、サビはユイさんといったところだろうか。「最近調子どうだい?」という歌詞も、母親がいないことに対して幼いころの出来事だったことから、あまり現実味がない感覚だろう。上記の歌詞は、「君のそばで眠らせて」とユイさんが言っていることになる。母の記憶がなくとも、成長を生きて見守れなくても、二人の間にある愛を歌ったものなのだ。

 一方ダカーポ版では、ゲンドウが会えない場所に行ってしまったユイさんに向けて自分の気持ちを吐露しているようにも思える。なので上記の歌詞はゲンドウがユイさんに言っていることになる。そう考えると「どんな場所でも結構」が、人類補完計画のその先のゲンドウの思惑に繋がっているような……そんな気がしたのだ。曲調も相まって、ユイを失ったゲンドウが「ただもう一度会いたい」という気持ちを歌ったもの、ユイへの愛を歌ったものである。

 そして、曲を味わっていただければ十二分に噛みしめていただけると思う。
 一度、歌詞を見ながら、たまこの妄想を思い出しながら聴いて見ていただけると、もしかしたら、同じ題名の歌でも無印版とダカーポ版で見える景色が違ってくるかもしれない。
 

 私の陰謀論

 妄想癖のその先。
 もし主題歌たちが映画と映画を繋いでいるとしたら。
 (かなり無理やりこじつけていきます)


↓ 無印版

↓ アコースティカ版

↓ 桜流し
シン

 序の終盤、綾波レイを碇シンジは助け、手を差し伸べる。有名な「笑えばいいと思うよ」のシーンだ。ユイの遺伝子を持つ者である。手を取った時にシンジくんが亡き母を想ったとしたら。無印版のような歌詞になるのではないか。そして破の世界に続く。

 破ではアスカがシンジに対して好意を抱いているような描写があります。実際にシンでは名言もされていますが。そう考えると、破の最後でシンジは何らかの形で眠りについているため、Qに向かう14年の間のアスカからシンジへの想いを歌ったものとも考えられる。
(ここがかなり無理やりな気がするので、やはり妄想は妄想かなとも)

 そしてQ、衝撃のラストでシンジは心に大きな傷を負ってしまう。言わずもがなカヲル君の死ですが、「桜流し」はシンジからカヲル君に歌った歌なのかとも思える。(いつかここの分析もできればいいな)

 はい、かなりの陰謀論でしたね。

 シンでは、次に続くお話はないので、「One last kiss」で学生時代のゲンドウユイの出会いから付き合ってるときの歌、ダカーポ版でユイを失ったゲンドウの歌を歌ったのかなと思ったりした。

 わからない部分が多いからこそ人は想像力を発動させるのだと思うが、エヴァというコンテンツは本当に想像力のトリガーたるものだと思う。

 世の中、色んな意見があると思いますが、私としては大満足のシン。
 映画のこと語りだすとこれまでの分量の倍は必要な気がするので今日はここまで。


 さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
 そして、さようならはまた会うためのおまじない。

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