「アーサー」は『ジョーカー』に殺された
どうも、ごきげんよう。瀬戸文乃です。びっちびっち跳ねてます。
今日は調子がいいです。なので映画を観に行った話をします。タイトルは何か。そう、今話題の『ジョーカー』です。DC作品はまったく見たことのない初心者が初めて手を出した作品です。せめてダークナイトからみろよ、いやバットマンからみろよというツッコミは控えてください。私でもそう思う。
映画『ジョーカー』とは何か。バットマンに登場するヴィラン、『ジョーカー』の誕生秘話を描いた作品だ。
残念ながら私はバットマンもダークナイトもまったく履修していないDC初心者のため『ジョーカー』という悪役が悪になるまでの物語を観に行くぞ、程度の認識だった。前評判もよく、また告知がどの媒体も視点が異なるためメインに魅せるところが違うのも興味を惹いた。
映画情報を調べるとこう出てきた。
「バットマン」の悪役として広く知られるジョーカーの誕生秘話を、ホアキン・フェニックス主演&トッド・フィリップス監督で映画化。道化師のメイクを施し、恐るべき狂気で人々を恐怖に陥れる悪のカリスマが、いかにして誕生したのか。原作のDCコミックスにはない映画オリジナルのストーリーで描く。「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。これまでジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じてきたジョーカーを、「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスが新たに演じ、名優ロバート・デ・ニーロが共演。「ハングオーバー!」シリーズなどコメディ作品で手腕を発揮してきたトッド・フィリップスがメガホンをとった。第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、DCコミックスの映画化作品としては史上初めて、最高賞の金獅子賞を受賞した。
観ての感想を言おう。楽しかった。胸が痛かった。しばらくは心臓の鼓動がうるさかった。きっとこの作品はバットマンやダークナイトを知っていれば数十倍は楽しかったんだろうと思った。私は悔しい。
そして次に思ったのはレビューへの反論だった。鑑賞前にうっかりみてしまったレビューに「私もジョーカーになっていたかもしれない……!」というものがあった。鑑賞後に思う。
そういうやつは一旦アーサーに頭を撃ち抜かれてこい。
君は『ジョーカー』ではないし、『ジョーカー』も君じゃない。たとえ君が”彼”のようになったとしても、君は『ジョーカー』にはなれないからだ。
何を言っているかわかるか?分からなければ映画をもう一度見てこい。
平民でありアーサーと同様の権利の有無の面でいえば可能性として思いつくのかも知れないが、それは間違いだ。むしろそういう君らはデモで『ジョーカー』を祀り上げたモブだ。安心してクラウンの仮面を被ってデモにでも参加してれば良い。前提として、自分=「アーサー」と同じ弱者と思っている時点で違うのだ。仮に同じ境遇で同じシチュエーションであったとしても、君は『ジョーカー』にはならないだろう。なぜか? 君は「笑う男」じゃないからだ。
じゃあ、『ジョーカー』はどうやって生まれたんだ? とおもうだろう。
『ジョーカー』は大衆(弱者)が生み出したのだ。
冒頭から振り返ろう。
この物語は貧富の差が激しい社会の現状、スラムとなった街で起こる理不尽の描写から始まる。ピエロとして働く主人公・アーサーは街中で宣伝の仕事中に使っていた看板を少年たちにひったくられる。そして路地まで追ったと思えば、看板を壊され大人が少年たちにリンチされるという有様。
彼がスラム街の中でさえ理不尽なまでに弱者である描写。
正直心が痛んだ。
稼ぎも十分ではない。それはホアキンの病的で気持ち悪いほどの身体の細さからも伺えた。あばらが浮くどころじゃなくて正直ゾッとした。物語を通して母親は病的に市長候補であるウェインを盲信している描写があった。しかし、ストーリーが進むとわかるのだが、母親の言動は妄想性パーソナリティ障害によるもので、ウェイン側の言い分が正しかったことがわかる。母親を、母親だと思っていた女性を息子だから、と献身的に支えた「アーサー」にとってひどい裏切りだっただろう。
ピエロとしての仕事でも彼は理不尽に振り回される。同僚が渡してきた一つの拳銃。看板を壊されたこと。それがきっかけになり、ピエロの仕事がクビになる。
”社会”の外側に放り出された。
彼はクビにされた帰りの電車内で偶然にも持っていた拳銃で、偶然にも居合わせてリンチしてきた青年らを、撃った。それが契機。
彼は電車を降りて、駅近くのトイレで踊りたくなった。”アーサー”が踊りだしたのだ。ここからアーサーの人生は転がりだした。転がりだした石ころは、止まることが出来ない。
時折”アーサー”は弾の入っていない拳銃もしくは手でつくった拳銃を自分に突きつけるシーンが有る。それは”アーサー”が「アーサー」を殺している描写に思えて仕方がなかった。お前はもう出てこなくていい、用はないとでも言うように。「アーサー」を撃つことで、”アーサー”に更に近づいていった。
また、「アーサー」が冷蔵庫の棚やボックスを取り外して自分がその中に入るシーンが有る。私はゾッとした。なぜなら、死体を作っているように思えたのだから。人間は5℃の水のなかに浸かるだけで数時間も経てば低体温症で死ぬことがある。冷蔵庫に入って死を選ぶのは緩やかな自殺方法だ。
アーサーは自殺を選んだのだ。絶望から死を選んだ。
これ以降は”アーサー”によるショーが幕開けた。だから、好きなコメジアンからの番組オファーも喜びが薄かったのではないか。人目に触れる、最大のチャンスだと思ったからあんなに登場から演出を考えていたのじゃないか。考え出すと冷や汗が伝う。
”アーサー”は笑っていた。縛られることのない”自分”を手に入れたからだ。でもそれは「アーサー」ではない。「アーサー」は笑わない。彼はもうあの冷蔵庫のなかで息絶えているのだから。
その代わりに”アーサー”が嘲笑うようになった。
それはそれは心地よく気味よく盛大に”わらって”いる。
彼は度々踊る。はじめはぎこちなかったのが、最後にはとても意気揚々と踊りだす。私にはその踊りをみると心が締め付けられた。感動からではない。歓喜からではない。苦しさからだ。私の解釈だが、”アーサー”にとって踊ることは打ち震える感情を表しているのではないだろうか。
歓喜も。号哭も。怒りも。哀れみも。全てをひっくるめた感情を踊ることで表しているのではないか。
社会的弱者の民衆は次々に”アーサー”をヒーロー扱いしていった。(実際アーサー自身も”アーサー”がヒーローだと思っているような描写もある。だから冷蔵庫に入ったのかも知れないが。そこの真偽はわからない。)民衆が”アーサー”を『ジョーカー』に祀り上げていった。土壌は完璧だった。
次第にエスカレートしていくデモと共に英雄化していく『名もなき殺人ピエロ』。まさに市民(弱者)にとって彼は英雄だった。『名もなき殺人ピエロ』は英雄だったのだ。
市民による英雄化と刺激と「救世主」を求める集団的無意識によって形成された『哀れなクラウン』。それが『ジョーカー』だった。
これは社会悪を説いたものだ、というレビューも見たが、そうといえるだろうか。この映画はどちらかというと性悪説がベースだ。性悪説というのは、
「人の本性は悪であり、それが善になるのは人間の意思で努力するからである」という、荀子(じゅんし)が説いた教え
性善説も性悪説も出発点は異なるが「努力すれば善となる」「よりよい人間になる」と説いている。
しかし、元々悪にいる人間はどうなるだろうか。
人間はあらゆる意味で弱い存在であり、人間の本性は醜く欲望に忠実である(キリスト教における原罪)、悪魔に支配されやすい生き物なのだ。一度悪に染まれば、人間は欲を覚える。ボタンを掛け違えてしまうだけで、人間はいともたやすく堕落する。
アーサーのように。
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