大学で教えてくれないことは、東北の居酒屋が答えをくれる。 1時限目「完璧の正体とは」
夕方から霧雨が降り続いたせいか、いつもはギラギラすぎる数多のネオンが、キラキラくらいには柔らかく見えた。まるで『銀河鉄道の夜』に書かれている夜空に浮かんでいるかのような心地よさを覚えながら霧の中を進むと、なんと、銀河の旅を夢見た小説の主人公、ジョバンニが正面から近づいて来るではないか。一瞬驚いたが、良く見ると単に銀河のようなスーツに身を包んだ客引きの店員だった。
仙台市・国分町。古くから東北一の繁華街として栄えたこの街の、稲荷小路と呼ばれる細い路地。派手な看板が多い国分町の隙間にかかる渋いのれんから漏れる、優しい光に誘われて中へ入ると、大将が焼く炭火焼のこんがりとした温かい香りと、女将の「いらっしゃい」という温かい笑顔が、寒さに震えていた僕を優しく迎えてくれた。賢治が理想郷という意味で呼んでいたイーハトーブとはここかも知れない、と一瞬思うような心地良い空間だった。
完璧なコの字のカウンターにすっかりホの字の僕はまず、乾いた喉に冷えたビールを流し込み、塩気を抑えたナスの漬物で興奮を抑えながら女将に日本酒を相談した。現れたのは地元宮城の名酒「日高見」である。だが、普段はあまり見たことのないラベルが2本。「日高見 純米 短稈渡船(たんかんわたりぶね)」そして「日高見 純米 山田穂(やまだほ)」である。日本酒は酒米と呼ばれる日本酒に適した米から作られる。その酒米の中でも圧倒的に人気の品種はと問えばほとんどの蔵人はこう答えるだろう。「山田錦」だと。だが、そんな山田錦というある意味完璧な酒米にも品種配合上、父親と母親が存在するのだ。
そっけなく荒々しいが実直で真面目な味の短稈渡船。まっすぐ過ぎるが優しく柔らかに包んでくれる味の山田穂。どこか不器用で何か足りない2つの日本酒の味。でも、これが夫婦と考えるとどうだろう。両方の酒を交互に飲むと、お互いの足りなさをお互いが補完しているような感覚になる。これはまさに、大将と女将の2人がいて完璧な心地よさを生み出している、このお店そのものではないか。
閉店間際の遅い時間であるにもかかわらず、優しく対応し続けてくれた女将は、聞けばなんと宮沢賢治と同じ岩手県出身らしい。その心遣いに敬意を表し「宮沢賢治が生きていたら、きっとこのお店気に入っていたでしょうね」と伝えると、まっすぐな笑顔でこう答えてくれた。
「あぁ、宮沢賢治はそんなに好きじゃないんです」
深夜にかけて強くなる雨にも風にも負けず、僕はまっすぐと帰路についた。
この連載コンテンツは「僕にとっては居酒屋の扉を開けた瞬間が授業開始なんだ」そんな作者の勝手な思いを、いつも広い心で受け止めてくれる東北の居酒屋での学びを書き留めた、日本酒エッセイです。宮城県仙台市に本店を置く七十七銀行グループにおいて、調査研究・コンサルティング分野を担う「七十七リサーチ&コンサルティング」発行の機関誌『FLAG』で2019年から約4年半にわたり連載された日本酒エッセイを、新たにイラストの書き起こしを行いながら定期的に公開しています。※4年半の間にいろんなことがあったため、記事のネタが多少古い点につきましてはご了承ください。
最後に、誌面限定で公開されていたコンテンツをインターネットで一般公開させていただくという前例の無い取り組みにあたり、七十七リサーチ&コンサルティングのみなさまをはじめ、広告代理店および制作会社のみなさまのご尽力、そして、僕のつたない文章を4年半の間温かく見守ってくださった編集の山口さんに心からの感謝を申し上げます。