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創作「小さな駅前の夜」

2020年 6月 24日
 酒とタバコの混ざった匂いを感じたくていつもとは違う道を歩いて帰宅した。いつも通る道にあるのはコンビニ、公園、小学校、中学校、自転車修理の店、寿司屋の前、電機店、工場、パチンコ店、ゴルフ練習場、スーパー・マーケット。人とすれ違うことは少ない。しばらく夜の町に出ていないので少しでいいから夜の雰囲気を匂いたいと思い、駅前の道筋で帰途についたのだった。駅の周りには居酒屋が数件あり、そこからタバコの匂いが漂ってくる。ネオンなどあるはずもなく、ドレスを着たホステスの女の子もいる訳がない。花屋が急いで走っていることもない。派手さはなく地味ではあるが、タバコと酒の匂いのおかげで少しの瞬間だけ夜の町を連想させてくれる。そんな風にときどき気まぐれで駅の近くを通る。駅からあふれてくる人の中に魅力的な女性を見つけると、その女性をホステスだということにして無理矢理気分を盛り上げる。
 人がいると会話がある。突然話しかけられることもあるかも知れない。近づきたい人に、その言葉通りに近づくためには会話が必要で、会話を始めるにはまず話しかけるか話しかけられるかをしなければならない。
「こんばんは。わたしは専門家なのですが、ちょっとお話よろしいでしょうか」と突然話しかけられることがあるかもしれない。
「はい、なんでしょうか」とわたしはその声に答えるかもしれない。
「専門家として言いますが、電池はどれくらいの早さでなくなってしまいますか?」
「電池の専門家なのですか?」
「いえいえ、ただの専門家です」と話しかけてくる人は訳のわからないことを言ってくるかもしれない。
「は、はぁ。そうですか」
「専門家なので詳しいことを知っていますよ」いったい何の専門家なのかわからないのに、その詳しいことを聞いても意味がわからないだろう。わたしは無視をすることに決め込んで真っ直ぐ歩みを進めた、少し早歩きで。すると、「聞きたくないんですか!聞きたくないんですか!」と言いながら追いかけてくるのだった。わたしは小走りになった。追いかけてくるほうも小走りになって「聞きたくないんですか!聞きたくないんですか!」と言いながら、少し叫びにも似たような声で。わたしは怖くなってきてとうとう走り出した。すると相手も走って追いかけてきた。わたしは相手を撒いてしまおうと思い、そのまま自宅へ向かうのではなく、駅の周囲をぐるりと回ったりした。誰かに助けを求めたかったが、そんなときに限って誰もいないのだった。「聞きたくないんですか!聞きたくないんですか!」とうとうわたしは観念した。ギブ・アップだ。いったいわたしはどうなってしまうのだろう。まさか殺されることはないだろう。金をせびられるのだろうか。何かの勧誘だろうか。
「わたしは歴史の本を持っています。でもその本は実在しません。その本はいつもわたしの頭の中、脳の中に存在し、いままでもこれからもその本はそこにあります。そしてその歴史の本は繰り返し更新されていくのです。新たな出来事が追加されれば上書きされていくのです。」と突然話しかけられた内容の意図がわからなかった。「専門家なのです、わたしは」再び相手は専門家という言葉を口にした。いったい何の専門家だというのだろうか。
「いったい何なんでしょうか」とわたしは言ってみた。
「専門家なのです。そして歴史の本を脳内に持っています。誰にも見ることが出来ない、見せられない。恥ずかしくて見せられないのです」と相手は続けて言う。「専門家であるということも実は恥ずかしいのです」

 時限装置が始動した。その機械は背の低い円筒状になっている。コンパス、要するに方位磁石を大きくしたような形状だ。円形のダイヤルで時間調整する。あまり細かい時間は調整しづらい。秒単位で調整することは難しく、分単位で調整するのに適している。重量は米のおにぎりひとつ分より少し軽いので持ち運ぶのに苦労しない。機械が時間を刻み出すと、カチコチと音がする。ダイヤルを回すと白地の文字盤が赤く変わり、設定時間を示す。いったいいつの時刻に設定したのだろうか。時限装置は始動してしまったのだ。もう後戻りは出来ない。よく、人生をやり直すというセリフを耳にすることがあるが、時間を遡って人生をやり直すことなんて出来ない。やり直している間に時間は過ぎている。いつかわたしたちは目撃するだろう、この時限装置の行く末を。

 おとうさんにおしりをぶたれた。ひゃっかいくらいぶたれた。とてもいたかった。とてもとてもいたかったのでないた。いっぱいないた。おとうさんなんかきらい。とってもきらい。おかあさんのほうがすき。おとうさんはぼくのことがきらいなので、でていけ、といった。ぼくはでていったけどすぐにもどってきた。どこにいけばいいのかわからなかった。どこかとおくへいってしまうと、まいごになって、もううちにはもどれなくなるようなきがしたのですぐにもどった。おとうさんはねていた。ねたふりをしているのかもしれなかった。おかあさんは、どこいってきたの、とぼくにきいてきた。ぼくはなにもこたえなかった。こたえようとしても、こえがうまくでてこなかった。のどのところまでいきがあがってきて、こえがでそうででないかんじがした。くさいにおいのキャンディーをなめているきがした。

 自称専門家は「恥ずかしい」と言った。いったい何が恥ずかしいというのだろうか。わたしは暗闇に目が慣れてきた。いや、もうとっくに暗闇に目は慣れていたはずだった。それなのに今頃になって気がついた、その専門家が女性だったということに。
「わたしはいろいろと専門的に調べてきました。わたしの出来うる限りを尽くしてです。調べても調べてもわからないことがたくさんあります。むしろ知らないことの方が多いのです。だからこれからも専門家を続けていくつもりですし、もしかしたら今日が、今この瞬間が専門家としての本格的なスタートかも知れないのです。もし今、うまくいかなかったとしても、しばらくは専門家を続けていくつもりです。いつか専門家として花咲く日がくるかも知れません。」女性は美しい人だった。目は大きくて髪が長く、まつげが作り物ではなく長かった。わたしは彼女に惚れてしまいそうだった。
「電池のことはいったい?」
「あなたに話しかけるための糸口として電池の話題を振りましたが、なぜ電池だったのか自分でもわかりません。動揺していたのだと思います。」
「歴史の本は?」
「わたしが知り得る限りの歴史です。脳に入っています」 女性の容姿が美しいということでさっきまでの印象と今の印象ががらりと変わってしまった。見た目だけで印象を変えてしまうとは、人というのはなんて残酷で正直な生き物なのだろう。
「あなたのことが好きです」突然の告白だった。わたしはそれまでの女性との会話を咄嗟に思い出した。合点がいくような、いかないような、不思議な気持ちだった。「わたしのことをよく見て欲しかったんです」そういえばよく見ていなかった。目の前にいる人が女性だと気づいていないくらいだった。「あなたの専門家です」わたしの専門家?わたしのことを研究していたのか?ずっとわたしのことを見ていたのか。「あなたのことをずっと見ていました。これからはわたしのことを見て欲しいのです」
「あなたに恋をしています」
 女性はその場でくるりと身体を回転させると、ドレス姿に早変わりした。どういうことなのか、狐か狸か?もしかして化け猫か。

 時限装置が設定時刻になった。午前六時三十分。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよ」
「おはよ」

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