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コルコヴァド Getz/Gilberto

彼女と出会ったのは僕がまだ20代前半、世間で大人と認められて間もない頃。当時働いていたバーの客だった彼女はいつも女友達と二人で飲みにきていた。
僕と同年代に見える彼女達は、しかし僕より遥かに精神的に自立をしているのが二人の会話から読んで取れた。同じ大学を出て、同じ化粧品販売の仕事に従事している自他ともに認める親友だった。

はじめから何かしら互いを意識するムードはあったものの、バーなんて商売そんなの日常茶飯事、とりたてて気にも留めなかった。
客とスタッフが頻繁に会話をする類いの店では無かったけど、バーの売りのひとつだったジャズのレコードコレクションは相当に彼女達の興味を引いたらしく、毎回音楽談義に花が咲いた。

彼女の語り口調は、その端正で色白な顔だちのせいもあって普通に話していても周りの音楽が一瞬小さく聞こえるほど聞き手の集中力を誘った。
もっともその話しの相手は、にわかじこみの知識しか持ち合わせない僕ではなくもっぱらマスター中心であったんだけれども。

しかし、彼女は何かにつけ僕の興味が向くような話題に話しを誘導するようなところがあって、その行為は僕をいい気分にさせてくれたし、何かわくわくするような期待も含んでいた。それが彼女の持つ奉仕の精神から来ているものか、多少の好意をもっているからなのかは不明だった。

週の半分以上をバーでの仕事に充て、昼間はレコードを漁り、その他の時間はバンド仲間とつるむという生活をかれこれ2年以上も続けていた僕は、経済的に自立し家庭をもつなんてことを想像出来るほど人生に対するヴィジョンをもてなかった、しかし、生来のある種病的な生真面目さで、恋愛の初期からの殆どを飛ばし結婚や責任など、およそ20歳そこそこのフリーターが恋愛に対して抱かないであろうイメージを頑固に持っていた。
故になかなか恋愛を出来ずにいたし、この小さな恋の種のような出来事は僕に自らアクションを起こせるようなものではなかったけど、でもひっそりと確かに彼女に惹かれていた。

ある日マスター不在の夜、いつものように彼女達が店にきていつもどおりカウンターに座りあれやこれやジャズ、ボサノヴァの曲をリクエストする。
数枚のレコードを経て「Getz/Gilberto」のB面の一曲目「Corcovado」が店内に鳴り始めた時

「ねえ、これ歌っているアストラッド・ジルベルトってジョアンの奥さんだよね、でも元々歌手ではなくジョアンの仕事を支えるためにブラジルからニューヨークについて行ったんですって」
「へー」と僕。
「それでね、スタンゲッツとのレコーディングがどうにも上手く行かず暗礁に乗り上げかけてた頃、レコード会社のプロデューサーが傍らにいる妻のアストラッドにちょっと軽く歌ってみてくれないか?て提案したの。それは正に青天の霹靂で、その場の全ての人が本人も含めて悪い冗談だと思ったんだって」
僕はその逸話をどこかで聞いて知ってはいたが、彼女の話す力強さと根拠のない勇気、或いは決意を感じる瞳の輝きに、初めて聞く話しであることにした。

彼女は続ける。
「で、しぶしぶ歌った稚拙な英語のイパネマの娘がまさかの世界的な大ヒットになって、ボサノヴァの代表曲になったってわけ。面白くない?」

「いや実に興味深い」と僕。

「でもね、結局のその降って湧いた奇跡は彼女とジョアンの不仲に発展し恋は終わってしまうのだけれど…。とにかくわたしが言いたいのは、本人の思惑とは別のところで人生は大きく動くっていうこと。だから大胆な提案が、他人からなされたときはそのこと自体がだれかを傷つけたりしないかぎり乗ってみてもいいかも知れないって思うの。」

間髪入れず、彼女がさらに続ける。

「わたしあなたが好きなの。付き合ってくれない?」

驚いたのは彼女の論法と語り口、そして半ば無謀な理詰めで相手を追い込む野心的な恋人達が持つ強固なハートだ。

一も二もなく、「分かりました、おつきあいしましょう」と僕。

僕はこういう大胆不敵で、一般的ではないアプローチが好きだ。
他人との差異、アンチな事を価値と定義しているポストパンクやニューウェイブで育った僕にはとても有効な方法でもあった。
勿論彼女はある程度僕の思考性を考えてとった行動であることも分かっていた。
冷静さを大幅に欠いていたことも認める。でも今思い返せば僕が告白を受け入れた一番の理由はその告白をしている女性の横に座り、妖しげな微笑を浮かべながら一部始終を見ていた女性への印象だった。
彼女にどう思われるかが一番気になって、瞬時のうちに頭の中で自分が最も魅力的に見えるような行動を選んだのだ。
そう、最大の問題はその暴挙とも思える恋愛告白をしてきた女性が、僕が密かに心を寄せていた女性の友人の方だったことなのだ。そして不覚にも僕はその提案を受け入れ、しかもその理由が本命の女性の気を引きたいがため、という何とも本末転倒で馬鹿げた発想でだ。

かくして僕と、その僕が好きな女性の友達との恋愛は始まった。
恋愛の本質が何であるかも不明なまま、刻々と進んでいく恋愛事情を受け入れていったし、深い愛情を示されて何も感じないほど感受性は鈍くはない。
それなりに恋愛の波を乗り越えるうちに正しいことをしている自覚も生まれた。
しかし心の何処に、常にもうひとつの恋愛ストーリーは存在していた。
暫くして「もう一つの恋愛ストーリー」の彼女に恋人がいたことは噂で知っていた。年齢の離れた切ない恋だとも聞いた。
月日は経ち、僕は野心的な恋人との恋愛を2年続けたあと別れた。
そして平凡だけどとても優しい女性と出会い、不安定ながらも将来の事も考え始めていた。むかし成就しなかった恋を思い出し、物思いにふけることもあったけど、日常のパワーというのはそういう愁いを帯びた想い出を遠く彼方に放り投げる力を持っている。

ある日久しぶりに昔よく行ったレコード店の前を通りかかり、懐かしさに任せてわざわざ車を有料パーキングに入れた。
そこでばったり成就しなかった恋の相手に出くわした。
最後に会ってから5年は経っていたかもしれない。
幾分痩せたように見える彼女は以前にも増して透きとおるような肌と、そこはかと無く哀しい影を幾重かにレイヤーしているように見え、充分に魅力的な筈なのに何処かしらそのことに触れてはいけないようなオーラを放っていた。
気づかないフリを出来ないくらい小さな店内で、この小さな偶然に互いに短い驚きを表したあと、近況を報告しあい他愛もない害のない世間話をしばし続けた。
何故か互いに核心を理解してるかのようなムードがあるが、決してそこにリーチしない感覚が時間を支配していた。予期せぬタイミングで久しぶりにあった知人との会話の相場は5分だ。終盤は久しぶりにジャズのレコードに触れたくてここに立ち寄った話しに終止していた。
そして最後に互いの連絡先を交換し別れた。
僕の目を見て「それじゃ、またね」と美しい微笑を残して彼女は先に店をでた。
話している途中にも幾度か出会った頃の感情がフラッシュバックしていた。互いに心の交差があると勘違いするに足るムードも存在した。しかし、時がすぎるままにレコードは一枚も手に取らず僕はもう車のギアを進めている。僕のほうから連絡をすることは無いだろう。

数週間後、彼女から届いた手紙には最初に出会った時から僕に好意を持っていた事が簡潔に綴られていた。
彼女を表現するのにこれほど適した方法はないくらい美しい字で、あの頃を懐かしむ表現や、ある種の悔いともとれる内容にも触れられていた。そして僕と彼女の友達の恋愛が始まったすぐあと、ある恋愛に身を落とし切なくつらい恋愛経験をしたことも書かれていた。それらの文章全ては、しかし僕らの中の答え合わせになるようなものでも、嫌悪を誘うドロドロしたものでなく清涼感すら感じるほど淡々とした事実として存在していた。

人生のなかで、どれだけの勇気があれば後悔をしなくてすむのだろうか。その勇気と引き換えに何かを得られる確率と失くすそれ、そして気持ちを押し殺し鬱積させ心病んでいく危険性と、身を引くことの美学、それらがないまぜになって迷路の中をさまようばかり。僕はいてもたってもいられず彼女に電話をかけた、しかし電話番号は現在使用されておらず、慣れない手紙を書いてはみたものの出さずに捨てた。
そして埃を被ったGETZ / GILBERTOをプレーヤーに乗せた。

おわり
数年前に和歌山のホテルで見たちょっと切ない夢に大幅な脚色を加えて書いたフィクションです。20代前半、バーで働いていた事実もありません。

アストラッド・ジルベルトGETZ / GILBERTO "Corcovado"

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