スポーツが教えてくれたことが「暴力で人は変われる」だったとき

こんにちは、守屋です。

最近、こんな記事が目に止まりました。

男児は木村容疑者からサッカーを教わっており、母親と男児は「サッカーの時間に遅れたから怒られて殴られた」と話しているという。母親の顔にもあざがあることから、県警は木村容疑者が親子に暴力を振るっていた疑いがあるとみて、調べている。
 逮捕容疑は5月下旬、自宅で男児の顔を平手で数回たたくなどし、両目打撲の傷害を負わせたとしている。
奈良県立山辺高サッカー部で元Jリーガーの興津大三監督からパワーハラスメントを受けたなどとして、元男子部員2人が興津監督と、同部と提携する食品会社「天平フーズ」(奈良市)に計約1100万円の損害賠償を求め、29日までに奈良地裁に提訴した。
監督からの暴言や無視、夜中の呼び出しがされるようになり、2人は退寮を余儀なくされた。うち1人はストレスによる適応障害と診断されたとしている。

プロサッカー選手を始め、プロスポーツで戦った選手の中には指導者に転身した後、

「暴力に近い指導も、強くなるための一つ」

と思っている方々もいらっしゃるかも知れません。その思想の背景には、自分が通ってきた経験の中に、類似する体験があったことが今の自分を作ってくれていることも含まれているでしょう。

暴力(指導者としては思っていない状態)は、選手にとって時に反発心や闘争心に火をつけてくれる。やる気を駆り立てるという根性論の最上級であり定番のスタイルとして定着していた時代がありました。

暴力の定義は、

・蹴る、殴る

・走らせる、負荷を与え続ける

・思考を停止させる、従わせる

という3つに分類されますが、すべてを実行する指導者は、「指導者」と果たして呼べるのだろうかと疑問を抱いてしまいます。

何度もお伝えしてきましたが「指導者」は教えを導く人でなければならず、自分が与えられている立場を理解することから始め、そこから子どもや選手に対して伝えることを模索することこそ指導者の真の姿ではないでしょうか。

暴力は指導者に備わっているスキルではなく権力を得た人間の職権乱用であり、教わる立場の人間の思考を停止させ、自分に従う奴隷を作っているとさえ感じてしまいます。

「自分で考えさせること」

は理想論だと否定する人もいるかも知れません。しかし必ずと言っていいほど暴力で得た経験は、大人になって同じ道を歩む導線を引いてしまうことになります。

指導者という立場で子どもに暴力を振るうのか、上司と言う立場で部下に暴力を振るうのか、形は違えど立場の弱い人間へと繰り返されることで負の連鎖は続いてしまいます。

暴力で人は絶対に変われません。

もしも変わることができたという人間は、そもそも暴力に対する免疫が幼少期から備わっていた特殊な事例と考えても良いと思っています。

人には、自ら考えて行動するという能力があります。ぜひ、どんなスポーツでも教えるための手段として暴力を利用するのではなく、考えさせるための言葉であり思考を養わせることであることを強く願います。

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