8月20日 交通信号の日


「またか。」
孝志は独り言ちてすんでのところで渡りかけた横断歩道の前で足を止めた。

今日はよく赤信号に捕まる。
渋谷駅についてから目当てのレストランまでの10分程度の道すがら、すでに3度も信号に行く手を阻まれている。

(これじゃぁ、待ち合わせにおくれちゃうかもしれないな。)
時計をみて孝志は思ったが、悪い気分ではない自分を認識して苦笑した。

昔は信号に止められるたびに、損をしたような気分になってイライラしたものだった。
それを変えてくれたのは今の家内で、2人が付き合いだした頃の話だ。

大学で出会った二人は、サークル活動で知り合い家の変える方向が近かったこともあってすぐに自然と付き合うようになっていった。
所属をしていたサークルは季節ごとに1、2泊程度の合宿を行っており、家の近い孝志は合宿への送り迎えもかねて彼女を迎えに行き車で一緒によく合宿先の旅館に向かったものだった。

その日も湯河原にある合宿先の保養所に向けて車を走らせていた孝志は、湘南のあたりで信号に捕まった時に彼女にいった。
「なんかさ、信号が赤になって止められるのって、ムカつくよな?ほら、この信号もその先の信号も、その先も、3つとも赤で俺たちの行く手を遮ってるみたいでさ。なんか、世界から拒絶されてるみたいな感じ?」

そういう孝志に助手席の彼女は笑っていった。
「孝志、そんなこと思ってイライラしてたの?可笑しい。私は全然そんなこと思わないよ。ほら、みて。私たちが信号で止まっている分、私たちを横切る車たちは青信号でどんどん通って言ってるよ。世界は私たちだけで出来ていない。みんなを受け入れるために存在しているの。それにほら。」
横切る車が途絶えた時、そういって彼女は笑顔で目の前を指さした。

彼女が指さした途端魔法のように信号は青に変わった。その先の信号も、そしてその先の信号も、順番に青に切り替わって見通せる限り目の前の道路は青信号に変わった。
「今度は私たちが世界に受け入れられている。」
そういって笑う彼女をみて、孝志は自分と全然違う考え方をする彼女と将来必ず結婚しようと心に決めた。

それから時間がたち二人は結婚をし、子供も産まれた。
産まれた子は男の子で、小さいころからわんぱくで外で遊ぶのが大好きな子供だった。

孝志は徒歩で信号に足止めをされたときは、左右の交通を確認して車が通行していなければ赤信号でも道を渡るようにしていた。
赤なら止まる、青なら進む。そういうルールはそもそも危険を回避するために存在するので在って、危険でもないのに信号を守るなんて生産性が低いし目的と手段をはき違えている人のすることだ。
そういう考え方をしていたから、車も通っていないのに信号に従って青になるまで止まっている人たちを見て、バカじゃないかと内心思っていた。

それを変えたのも彼女だった。
ある日子供の両脇から手を握って3人で公園に散歩に向かう途中、3人は公園を目前にした横断歩道で赤信号で足止めを食った。
孝志はいつものように、左右をみて車が通らないのを確認して公園に向かおうと足を踏み出そうとしたとき、彼女が、

「たーくん。待って。まだ赤信号だから。」

そう彼女に止められた。

「車来てないから安全じゃないか。信号が赤だからって待っている必要なくない?」
そういう孝志に彼女は、

「あなたは、それで大丈夫かもしれない。でも、この子のこともちゃんと考えて。」

そう言われた孝志は、安全なのか安全じゃないかをまだ3歳に満たない自分の息子が、ようやく歩けるようになっていまは歩いたり走ったりすることが楽しくてしょうがない息子が、正しく判断し自分の行動を制御できるような年齢になっていないことに思い至った。

そう彼女に気づかされてから、孝志は1人でいるときも、家族といるときも赤信号では止まって信号が青になるまで待つようになった。
まだ幼い自分の息子に、赤信号では止まって待つことを教えるために、そして自分の息子以外も含めて子供が自分の真似をして赤信号を渡るような危険を冒すことがないように。

もしかしたら、自分がバカにしていたあの人たちは、そんなこととうに知っていて。それでも子供が真似をして危険な目に合わないようにと止まっている人もいたのかもしれないな。
そういう風に人のことを考えられるようにしてくれたのも家内だった。

そんな昔のことに思いを巡らせていた孝志の目の前の信号が青になった。
大丈夫、約束の時間にはぎりぎり間に合いそうだ。

孝志は少し足を速めて青信号の横断歩道を亘り待ち合わせのレストランへと歩みを速める。

あれから年月が経ち、息子の安章も社会人として孝志にはわからないがデジタルマーケティングだかなんだかという会社でエンジニアをしているようだ。
今日は安章が紹介したい女性がいると、孝志と家内を渋谷のレストランに呼び出したのだ。

孝志もあともう3年ほどで役職定年の年になる。
さすがに家内にも白いものが混じってきているがそれでも家内は明るく優しい性格のままでいてくれることがどれだけ孝志を助けてくれているかわからない。

あの時3歳だった安章ももう30を手間に自分の家庭を持とうとしている。

彼女の言ったとおりだ。
世界は、孝志を、家内を、安章を、そして安章が連れてくるという彼女を、皆を受け入れてくれている。

孝志の目の前で次の青信号が点滅を始めた。
大丈夫、待ち合わせのレストランはもうすぐそこだ。

そうやって、孝志はまた赤信号に変わった横断歩道の前で立ち止まった。

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