8月26日 レインボーブリッジの日

1993年8月26日にレインボーブリッジは開設したらしい。
その時ぼくは大学1年生だった。

金沢で産まれて新潟、福井で育った僕に大学から生活をするようになった東京は、テレビでしか見たことのない世界だった。
ただ、18歳の若者が東京という街になれるには、4か月という時間は十分だったと思う。

当時は狛江(駅で言えば狛江のひとつ隣の和泉多摩川という小田急線の多摩川沿いの街)に住んでいて、そこから当時青学の1、2年生が通った厚木キャンパスと、アルバイト先の新宿歌舞伎町を行ったり来たりするのが1年生の時の生活パターンだった。
最初に選んだバイトは半年ほどで辞めてしまったのだけれども、新宿にオープンしたサントリーの系列会社のすき焼き、しゃぶしゃぶ居酒屋「新宿もーもーパラダイス」という飲食店のウェイターのオープニングスタッフだった。

夜がメインの仕事だったので時給が良かったのと、女の子のバイトが多かったこと、バイトが終わった後にその子たちと遊びに行けそうだな。
という18歳らしい動機でそこのバイトを始めた。

バイトを始めてしばらくして5歳ほど年上のバイトのお姉さんと仲良くなった。
曰く、なんかすごく悲しそうな顔をしているのが気になる。ということだった。

悲しそうな顔をしているかどうかはわからなかったけど、東京ってこんなもんなのかとか、大学ってこんなもんなのかとか、そもそも24歳で死ぬ(と当時は何故か思っていた)僕が何をやっていくべきなのかとかいろいろと考えていた時期であったことは事実だ。
ただ、そんなことを想いながらも、女の子が多いとか、合コンに行きまくるとか、時給が高いよねとか、超俗っぽい欲望もむき出しで生きていたから、いい加減なものだと今更ながら思う。

そのお姉さんと仲良くなってしばらくして、社員の厨房の男性のアタリが強くなった。
他のバイト曰く昔そのお姉さんと付き合っていた時期があったそうだ。

社員ににらまれるとか、超めんどくせぇな。
と思って少しずつシフトを入れる日が少なくなり他のバイトを探して塾講師のバイトが見つかった時点でお店に電話してバイトをやめた。

当時は携帯もまだ持ってなくて(というかギリギリまだ携帯まだ持ってない学生の方がマジョリティーだったと思う)、お姉さんとも連絡をとることなく僕たちの関係も終わった。
いまはもう、お姉さんの名前も思い出せない。

やはりいい加減なものだ。

そんな1993年の8月26日にレインボーブリッジがオープンしたらしい。
ニュースでそんなような話をしていたのを和泉多摩川のアパートで見ていたような気もする。

全然意味をもたない浪費の日々。
でも、なんかその時間があったからいまの僕がいる気もする。

それが1993年の僕の毎日だった。

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