6月17日 薩摩の日

2013年の4月下旬、大きなプロジェクトを終えた私は次のキャリアを考えることも含めて東京を離れる時間を作ろうと思った。
20億弱くらいの規模のプロジェクトを半年で第1ステップ、約1年で全体リリースするというプロジェクトを無事に終えて、会社で担っていたプロジェクト責任者としての役割を終え、また合わせて役割を担っていた事業展開についてもこのリリースなども含めて一段落した感じがあり、これから自分が何に取り組むのかを再点検したいなと感じていたのだ。

システム開発の世界には標準工期という考え方があり、総工数の立方根の2.4倍が標準的なプロジェクト期間と言われている。
1000人月なら、24か月が標準だ。という考え方だ。
この時のプロジェクトはこの標準工期を大幅に逸脱した短期決戦のプロジェクトだったが、集まってくれたチームメンバーの活躍によりなんとかリリースをやり遂げたという達成感も、その時の私の一度熱くなっていた頭と心を鎮めてゆっくり考えたいという欲求を後押ししていたように感じる。

会社のPCとiPhone、1週間分くらいの着替えをバックパックに詰め込み羽田空港へ向かった。
高校時代に一度四万十川を訪れ、その美しさが記憶に残っていた私は、この四万十川に行くことと、そしてもう一つ、いったことのない場所でいってみたかった場所。屋久島の縄文杉を見ることだけ心に決めて、2週間ほど九州、四国をぶらぶら周ろうと考え鹿児島行きのチケットを買った。

2週間の旅の間は、事業のマネジメントチームの会議などにはiPhoneのテザリングとPCを使って参加し、それ以外の必要な仕事はPCを持ち歩いて最低限対応し、あとは自由に時間を使う、今でいえば完全リモートな環境で仕事しているのか遊んでいるのか解らない(というかほぼ遊んでいる)2週間を過ごしたのだ。

食べるものはその時目に付いた美味しそうな店に入り、夜泊まるところはその日にホテルに連絡して宿を決め、洗濯物がたまったら行く先々のコインランドリーで洗濯して、そして次の日どこに向かうかをその日に決める。
そんな2週間は最高の時間だった気がする。

初めて行った鹿児島の街は想像以上に開けていた。
さすが島津公が開いた街だ。
鹿児島城も街からすぐの場所にあり、海をまたいで桜島がそびえている。
そんな街で店構えのおいしそうな居酒屋で晩御飯を食べた。

居酒屋のおやじさんは、鹿児島から一度東京に修行に出ていたらしく、私が東京(実際は川崎なのだが)から来たと聞いたらいろいろと世話を焼いてくれた。
馬刺し、鳥刺し、きびなご、さつま揚げ、そして締めに鶏飯。
そんなおかずをアテに焼酎をしこたま飲みながら、

「鹿児島は思ったより都会ですねぇ。」
と街の印象を伝えたら、
「やっぱり都から距離があるというのは、武器になるんですよ。」
というようなことをオヤジが教えてくれた。

ここからはオヤジの受け売りだ。
島津公は九州の雄と言われ、明治維新は薩長同盟により成ったというのは公然の事実だ。
その後編成された警察組織はほぼ薩摩人により組織編制されていたらしい。
その土台を作ったのは、やはり島津公の国の運営が基礎となっていたはずで、豊臣秀吉に臣従するまでは九州の覇者、その後も都から攻めに行こうにも莫大な時間と手間(=費用)がかかる場所に領土を持っていたことから、秀吉にも家康にも恭順の意を示し続けることで大きな戦を逃れることで国を富ますことが出来た。
(ちなみに、江戸時代の大名に課せられた普請や、参勤交代の強制は、逆にこの距離の問題がネックになって薩摩藩の財政負担を一時的に非常に痛めたそうだが、島津家には徳川幕府に対してその積み重なった恨みもあったのかもしれない。)
しかも国の場所は琉球を経由した中国との貿易や、ヨーロッパからの英、蘭の船が行き来する海を持つことで、貿易を通じてさらに国を富ますことも可能な地の利があったことも大きい。
現に琉球王国は、江戸幕府や日本に従属していたのではなく、この薩摩藩、島津家に従属していたことも事実だ。
そんな街だからこそ、いまでも歴史と繁栄の影を残す良い街並みが残っている。

そんなことをオヤジは教えてくれたと記憶している。

そしてその街の向かいには海をまたいで島津公のような雄大な桜島がそびえる。

翌日私はその海から、屋久島にフェリーで渡る。
2013年4月20日ごろだったと記憶している。

カウンターに座っていた地元の若い女性がむちゃくちゃ美人に見えたのは、気のせいだっただろうか。
屋久島もきっと良い時間が待っているだろう。

そんな期待を胸に、焼酎の器をぐいっと空けた。

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