いちばん大切な約束を守る


朝から疲れていた。
夜中から降りだした久しぶりの雨が、バスに乗り込んだあとも続いていた。
大きな窓を流れる雨越しに見えるビルも店舗も車も、みな濡れている。
ビルの上空にかぶさった雲はいかにも分厚そうで、このまま一週間くらい降り止みそうにない気がした。
道路も信号機も夕方のように暗い午前八時だった。

とつぜん目覚ましのアラーム音がバス内に響き、私の隣に座っていた女性があわててひざ上のかばんに手を突っ込む。音が止む。しばらくしてまたアラーム音が鳴り出し、隣の人がまた、止めた。
いつもは気にならない音がやけに大きく聞こえる。
他人の些細なうっかりぐらいで、神経がつま弾かれる自分の状態に気づいて、悲しくなった。疲れてんだ、と口を閉じたまま呟く。
眠っているのに、疲れは取れない。
目覚めてすでに疲れているのは、どうしてなんだ。
朝がはじまったばかりなのに仕事帰りみたいだ。

低い雲にシンクロする気分のときは、似たようなくすんだ色合いの出来事が二つ三つ連なってくる。

「○○に行けなくなったので、代わりに行ってくれません?」

手にした携帯がふるえて、知人からの急な依頼が飛び込んできた。

「打ち合わせなので行けません」

いつもより短く返信して携帯をかばんにしまい、首を垂れて座席に深くしずんだ。しばらくして、かばんの内側がぶるっとふるえた。さっきとは別の人からのメッセージだった。

「次号のページに穴が空きそうなんです。埋め合わせ原稿を急きょ1ページ書けますか?」

反射的に手帳を開いて今日の曜日と〆切までの日にちを逆算し、返信しかけていた手が、急に止まる。
相手へのメッセージを書き終えないまま、ホームボタンを押し、かばんにしまった。あごを上げると薄暗いバスの窓に、自分の顔がうつっている。
書きかけでほっておかれた文章みたいに、宙ぶらりんの顔をしていた。

断るでも、受けるでも、すぐに選べない中途半端な気分に嫌気がさす。
疲れた自分がふくらんで、バスの座席がきゅうくつだ。
目を閉じて、頭のなかに混じりあう色という色を追い出そうとしていた。
頭を消灯して真っ暗にしてしまいたかった。
なにか大切な約束を、破りつづけている気分だった。

いつもの喫茶店のいつもの席につく。
目が合ったカウンターの内側にいる奥さんに、自動的に笑ってコーヒーを注文した。うすく濡れている私の肩と髪に、
ピッチャーを手にした奥さんの目がとまる。

「あれ、傘は?」
「持って出なかったんです」

なんか傘あんまり差したくなくて、と言い訳しながらハンカチで服を押さえた。

原稿がたてこみ、返さないといけない返事がたまり、関わっているすべての人を待たせている気がした。
これから会う人にも、待たせている仕事について謝る予定だった。かばんの中からパソコンを取り出し、資料を取り出す。すこし迷ってから、ずっと読みたかった本も手に取り、テーブルに置くと

( そんなことをしている場合じゃないだろう )

頭のなかから、声がした。
本をかばんに戻そうか迷い、苦しまぎれに表紙をひっくり返してテーブルの隅に置く。

( 仕事終わってないのに、本読んでる場合じゃないだろう )

また声がしたのとほぼ同時に、仕事先の人が現れた。
本を結局、かばんに入れパソコンを開いて、打ち合わせが始まった。

「心がしたがってること、やってあげてますか?」

急に耳に飛び込んできた声に、顔をあげた。
喫茶店で流れるのは地元のラジオ番組で、さっきの声の主は番組のパーソナリティだった。

そうか。心だったのか。疲れているのは。
体よりずっと、心のほうが弱っていたのだ。
私との約束を反故にされ続けた心が弱っていた。

観たい映画に、行けていなかった。
読みたい本を、読めていなかった。

大切な約束を交わした相手は、自分の心だった。
約束を破った自分への負い目が、知らずしらず私を弱らせていたのだ。

人生でいちばん大切な約束を交わすのは、私の心。
人生でいちばん大切な打ち合わせ相手は、自分。

体は、しょっちゅう、心とはウラハラな行動を取る。
急にはいった仕事や、誰かからの頼まれごとを優先する。

「仕事が遅いと、思われたくないでしょう」
「せっかく仕事を頼まれたのだから」

と正論を言っては、やわらかな心を黙らせる。真っ直ぐに真っ当に、心の逃げ場も拠りどころも容赦なく奪う。正論は優しくない。

他の人との約束は守るのに、心と交わした約束はないがしろにする。

映画館に行きたかったのに。
本を読みかったのに。

心は、自分との約束が軽んじられていることを敏感に感じとる。
さんざん後回しにされてくしゃくしゃに縮んだ心を、体がしまいに踏みつぶす。そこで初めて、人生でいちばん大切な約束を反故にしつづけてきたことに気づくのだ。

「そんなことしている場合じゃない」からこそ、映画館へ行こう。

「そんなことしている場合じゃない」からこそ仕事の役にたたない、好きな本を開こう。

次の日も雨だった。
いつもより早く喫茶店に着き、カウンターにいる奥さんにコーヒーを注文する。

ピッチャーを手にした奥さんが言った。

「一人?」
「はい」

笑顔の奥さんが水のはいったグラスをテーブルに置いてから、カウンターへ戻っていった。冷たい水を一口飲んだ私が、思ったより深く長く息をついている。それから、ずっと読みたがっていた本を開いた。
仕事には何の関係のない、ただ読みたかった本だ。

ページを繰ると水のように、文章が流れこんでくる。喫茶店のいつもの景色が視界から消え、物語の情景のなかに立っていた。

数ページ読みすすんだところでふと思いたって手帳を開き、来週の日付に

「19:00 私と映画」と書いた。

ずっと観たがっていたあの映画も、観せてあげよう。

私の心がどんなにリクエストしても、私の体が映画館へ向かわなければ、心の願いは叶えてもらえない。
他人との打ち合わせの約束と同じように「私との約束」も手帳に書いておく。忘れないように。正論をいなせるように。

仕事の約束も、家族との約束も、大切だ。
でも私の心と交わした約束を守れるのは私しかいない。

テーブルが、コト、と音を立てた。
手帳から顔をあげると、自動的ではない笑顔で奥さんが笑っている。

「これマスターの親戚の、手作り。よかったら」

目の前に、発光しているような、みかんゼリーが置かれていた。
お礼を言って、お日さまみたいな色のゼリーをスプーンですくう。
のどを冷たくすべり落ちた太陽が、内側から暖めてくれるような気がした。心を大切にすると、心が喜ぶことが起きる。

 


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