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イマドキ流行らないもの

実家の押入れをほじくり返していたら、古ぼけた本が出てきた。昔々、アルバイト先の経理部長から、いただいたものだ。

「良い本なんだけどね、イマドキ流行らないのよ、こういうの。すっかり日焼けしちゃってるけど、持って帰りなさい」
手渡された時の彼女の口調まで思い出された。

当時は読みもしなかったくせに、今ごろになって手に取った。
何となく懐かしくなって、何となくページを繰っていると、何となくやめられなくなって、何となく読み進めた。

保育園の園長だった筆者は長く保育に携わっていたのだろう。その言葉からは、「先生」として子どもを見下ろす様子が感じられない。年齢も立場も超えて、目の前の相手を一人のかけがえのない存在として見ていたのかもしれない。
文章の区切れごとに、「〇年〇月 学級便り」とか「文集」とか付されている。これらが保育園で保護者や園児に向けた膨大なプリント類から選ばれた原稿、ということなのだろう。

そんなことを思いながらパラパラとページをめくる手が止まった。

信じなければ 愛することはできません。
私たちが よちよち と
民主的な考え方を学び始めている時、
国会では 強行採決が繰り返されています。
国の政治が信じられるなら、
国民はみんな愛国者になるでしょう。

いつの話だ?

この文章の最後には、「三九年十月 学級便り」とある。昭和39年、西暦でいえば1964年のことだ。

経理部長は「イマドキ流行らない」と言ったけれど、この文章が書かれた1964年当時も、決して「イマドキの流行り」ではなかっただろう。

更に言うなら、この本が出版された1988年当時も、経理部長からこの本を受け取ったウン十年前も、そして今も、これが「イマドキの流行り」になったことは一度もなさそうだ。

しかし同時に、何十年も前に書かれたこの文章が、まるでつい最近、SNSか何かに投稿されたもののように、私には見えた。

戦後、日本では、すべての国民が民主的な考えに基づいて歩んでいくことを誓った。けれど、私たちは、民主的な考え方を「よちよちと学び始めている」段階から76年間、果たして自覚的に取り組み続けてきただろうか。そして、どれほど成長したのだろう。
ここ数年、「忖度」や「同調圧力」といった言葉が目につくのは、「課題が洗い出された」と楽観できるだろうか。それとも、相も変わらず「よちよち」のまま、ということだろうか。
2021年の今も、国会では強行採決が繰り返されている。

「自分も隣人も、率直に意見を言えるし、それはきっと尊重される」と、国の政治に信頼感を持ち、その結果的としての愛国者はどれだけいるのだろう?

「イマドキ流行らない」ものは、
何十年経っても流行らない代わりに、
何百年経っても、何かを言い得ているのかもしれない。


ところで、ここで筆者は「愛」という言葉に独自の定義づけをしている。

 ”愛”は、いのちあるものの、いのちあるものへの同感である。

「生命の星 地球」なんて呼び方をよく耳にする。
いのちあるものたちの暮らす星であることが、地球の特徴の一つと言えるためだろう。

命あるものは、あたま数でもなければ駒でもない。かけがえのない存在だ。
一人ずつが大切だ。
一人を大切にできないなら、みんなを大切にすることなどあり得ない。

誰かの犠牲の上に成り立つ社会システムは、命を使い捨ての消費財として扱うだろう。
そんな社会に暮らすことを、いったい誰が望むだろうか?

この星の上、全てのいのちあるものにとって、
健康はもちろん、感情や表現されたもの、その人を取り巻くさまざまな事情が、民主主義の名を借りた多数決によって消し去られることのない社会であることを、願ってやまない。

イマドキ流行らなくていいから、何百年後までも。

へそのないノート
著者:  宮下 操
発行所: 新読書社(1988年1月25日 初版)
ISBN-10 :   4-7880-7008-1
ISBN-13 :   978-4-7880-7008-0

※ とても古い本なので残部僅少、美本なしです。在庫の確認は新読書社までお問合せください。


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