スイーツの時間旅行 ~イスタンブール旅行記⑦~

この手の体調不良は寝込めば治るモノではないのだろうか。普段は睡眠不足の原因であるネトフリのSuitsも今回ばかりは捗らない。何も食べずに薬だけ飲むわけにもいかず、昼ご飯は移動を避けるために宿の隣にある超観光地的イタリアンレストランでボロネーゼを食べた。トマトソースが体に良いはずだと言い聞かせてプラシーボ効果を狙ったが、気分が少し和らいだのは結局何かをちゃんと食べたからだろう。食後は宿にとんぼ返りし、トイレの脇にスタンバイしながらじっとしていた。しかしこうして憧れに憧れた街で何もせずにボーっとしているのも悪くはないな。新しい旅のスタイルを発見したかも知れない。とはいえだ、パスタだけ食べてデザートを逃すほど私は愚かだろうか、そんなはずはない。トイレに立ったついでにレセプションに行き、Maiden’s Towerを勧めてくれたお兄さんにおススメのスイーツを聞いた、二、三個提案されたが、一番近いところに行くことにした。アヤソフィアとブルーモスクの間にある公園の近くらしい。目と鼻の先だ。トイレで出すものを出し、もう少し寝てから、お腹を徹底的にペコペコにして向かうことにした。

 ついに食欲が痛覚を麻痺させて目が覚めた。待望の瞬間だ。これから私は、悪夢と戦うためではなく、天使と戯れるために外出する。何と喜ばしいことか。時刻は8時頃だった。まだ営業していることを信じてグーグルマップ上の点に向かうが、無い。勘弁してほしいのだが指示された地点にあるのは記念写真屋だ。記録に残すならせめて昇天してからだ。写真屋の人に聞いてみると、私の探している店は地下にあり、もうワンブロック公園側に位置しているそうだ。注意散漫だったことを反省し、私は来た道を引き返した。

 一店舗ずつ確認していくと、看板を見つけた。店頭のショーケースに飾られたお菓子をみて少し複雑な気持ちになった。

画像1

実際よりも少し長く感じる道のりの末に見つけたのは、コストコで既視感のある砂糖をあるだけ固めたようなケーキだった。いつもは楽観的な私だが、今回に関しては希望的観測の余地を疑った。まあ、どんなお菓子にせよ、経験だ。とりあえず店内に入ったがシステムがわからない。店内には冷蔵庫を兼ねた別なショーケースがあり、そこから選んでミスド方式で注文するのかと推測したが、商品の名前や値段が分からなかった。何もできずオドオドしている自分。相変わらずのお腹の痛さで、羞恥心を感じる余裕すら無かっただろうからそれは吉だ。途方に暮れていると見かねた店のお姉さんが声を掛けてきて、奥へ案内さた。 

 席に着いてからメニューを見て注文するようだ。ドリンクは、せっかくだからトルコティーなるものを試してみようと決めていたが、スイーツにおいてはもう勝手にコストコの先入観を持ってしまったため、生来の優柔不断にブーストがかかった。自分では決められないので、おススメを聞いてみると、白と焦げ茶の二層に分かれた一見ティラミスのような品を勧められた。どんな味がするのか見当もつかないが、それにしない理由は無い。
 
 注文してから十分弱で早速トルコティーがやってきたが、デザートが来るまで味見は待つことにした。中世のコルセットをつけた女性のような、くびれのある見たことない形のカップに入っている。香りから判断するとストレートだろう。私はどちらかというとフレーバーティ派ではないので、そこはアタリだ。ティラミスもどきもやってきた。ガラスの四角い器に入っている。ずっしりとしていてボリュームがある。食べ応えはありそうだ。甘すぎたら飽きそうだが6時間越しのデザートが今手の届く場所にあることを尊ぶべきだ。

画像2


 スプーンを入れてみると相当柔らかいことが分かる。上部の白い層はクリームで、下部の茶色い層はしっとりしたスポンジだ、何の味がするのだろう。ぱくりと一口。得体の知れないお菓子を構成する粒子達が滑らかに舌を包み込む。ん?その瞬間、時間が止まったのが分かった。瞬間的に私を包み込んだ四次元的に連鎖する重層的な味わいは、その一層一層を巡っているうちに、一日を24で、一年を365で等分することにした先人の知恵は、あたかも横着な早とちりであると私に語りかけてくるかのようだ。
 
 私がこうして頬張っている間、地球の裏側は朝の九時か。そこには秒刻みで動く人、分刻みで動く人、一時間刻みの人もいるかもしれない。皆同じ時間軸で動くからこそ世界が回る。あたりまえの代名詞として、人類が2000年近く文明の中心に据えてきた概念、ゆえに自らの正しさを疑う事を忘れた概念は、この一杯のスイーツによって致命的な疑問を投げかけられることとなった。
 
 私はいつまでこの一口を呑み込めずにいるのか。最初に感じるのは口当たりの優しいクリーム。甘さは控え目。一見このお菓子の大部分を占めるこの白いクリームは、思ったよりも主張が強くない。多いようにも見えるボリュームは決して適当な仕事では無いことがわかる。

 滑らかなクリームに包まれて大事に口の中に入ってくるのは、中段にあるカラメル層だ。凝縮された糖分に、程よい渋みがブレーキをかけている。一瞬でこのお菓子の主題を感じ取らせる程強い主張があるが、クリームがうまく過剰な甘さを中和している。

 次に妙な口当たりを感じさせるのは最下層のスポンジだ。これがサブスタンシャルな食感を与える。クリームやカラメルの比較的さらさらとした食感だけでは、美味しさと同時にその感動がすぐに流れて行ってしまいそうな刹那を感じさせてしまう。しかし、固体による確かな舌触りが、自分を夢の中に引き留めてくれるのだ。

 よくできていると感心していると、最後に追い打ちを掛けてくくるのは上にのっかっている、カラメル風味にコーティングされたナッツだろうか。粒状の砂糖が味蕾にこすりつけられ、「このお菓子はこういう味だから」と念を押してくる。もう分かったと観念する私は有り余るクリームに再び包まれ、完全に異世界に取り込まれてしまった。まだ一口分しか終わっていない状態のお椀を見ると、まだこのトリップを続けられると嬉しくなった。

 部分的に意識を取り戻したのはのどの渇きを感じてお茶を飲んだときくらいだ。人肌より少し熱いくらいのお茶は舌に残った余韻を綺麗に洗い流す。記憶にのみ残された余韻に導かれた私は、また夢の中に飛んでいけると信じてもう一口食べる。そうやって何度も何度もスプーンを往復させた。

 気が付くと、お椀の中身はクリームの痕跡をあざとく残してどこかへ消え去っていた。この一連の流れがどれだけの時間を奪ったかは分からない。それはたった数秒の出来事かもしれないし、もしくは数分間私は飛んでいたかも知れない。しかしそんな時間軸はあてにならず、まだお椀の底が隠れているくらい残っているのか、それとももう空っぽなのかという、お椀の中の状態しかモノサシは無いのだと気づいた。

 食べ終わってしまった虚無感を上回る感動に心が躍り、私は会計を済ますと外に飛び出した。目に入るのはアヤソフィア大聖堂。東ローマ帝国がその威厳の象徴としてきた大聖堂であり、オスマン帝国の人々が心のよりどころとしたモスクでもある。建物内部ではオスマン帝国下でモスク化に伴い漆喰によって覆われた、キリストのモザイク画を見ることができる。そんな歴史の重なりを感じさせるこの街で、共通の時間軸をもった三次元世界を超越する経験をつんだことで、私はこのまちの奥深さを実感した。次にイスタンブールに来るときには、トルコの歴史をちゃんと勉強してこよう、そして、もう一度あのお菓子を食べよう。時間をさかのぼれるか試そう。イスタンブールに憧れたx年前の自分を連れて。

電車賃