夕陽 ~イスタンブール旅行記③~

無意識にもイスタンブールの情景に夕陽を組み込んでしまうのは私だけではないだろう。ハワイと聞いて想像するのは青空だし、イギリスと聞けば曇り空が思い浮かぶ。憧れの街が栄える夕陽を見ることは、イスタンブールを認知するようになってから、勝手にバケットリストに加わっていた。レセプションでそれを伝えると、スタッフのムスタファは待ってましたとばかりに得意げに髭面を歪め、地図上でアジア側にある一点を指差した。ここは私が今の奥さんにプロポーズした場所だ。間違いはないよ。そうもハッキリと言うものだから、私も行かざるをえない。

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さっきまで頭上で煌々としていた太陽は、いつしか私の視界に入ってきていた。海岸沿いのカフェで店員とベシクタシュで活躍する香川真司の話をしていた私は、ふと思い出したように、店を出て灯台へと向かった。私はゲストハウスのスタッフに教わった夕陽スポットをこの日の最後にとっておいた。“Maiden's tower”(乙女の塔)と呼ばれ、いわくつきの名所となった灯台だ。海沿いの大通りに出るともうすでに、太陽は黄色がかってきていて、すでにイスタンブールのシルエットを上手にくりぬき始めていた。あと一時間ほどかけて色が濃く変化したらどんな風に見えるのか。心があからさまに躍る。

Maiden’s tower は、岸から200m程離れた海上の小島にあるため、チケットを買って渡し船に乗る必要がある。船は頻繁に島と陸を行き来しているので訪れるタイミングを綿密に考慮する必要はないが、最終のボートは18時半ごろに出るので、それに間に合わせる必要がある。私はベストタイミングで夕陽が見たかったので、はなから最終のボートに乗るつもりでいた。最終便でも10人ほど乗客はいて、同じようなことを考えているのかと思ったが偶然に過ぎないかもしれない。岸につくまでに、背の低いボートから見える水面は夕陽を反射してまぶしかった。一時も夕陽はその存在感を見せつけることを休まない。島に降り立ち、ひとまず塔に入る。一階はレストランになっていて、イスタンブールの街並みを海をまたいで一望できる、贅沢なロケーションだ。今度来た時にはこんなところで夕食でもとってみたいものだ。中二階あたりにある売店もスルーし、塔を登り始める。その名前の通り、この塔にはある少女にまつわる伝説があって、そのお話が塔の各階にちりばめられており、頂上の展望台に着くころには、誰かの伝説的な人生を追体験した後の目でその景色を堪能できる。いやいや、初めての景色に色眼鏡はいらない、先入観なしで、自分自身の目で焼き付けたい。そう思う人は説明を読まずに頂上に直行してほしい。この日記でも次の段落は読まないほうが良いだろう。

昔々、現在のイスタンブールの王とその娘がいた。王は娘を寵愛していたのだが、ある日、神託によって「娘は18歳になるまでに、毒蛇に噛まれて死ぬ。」という運命を伝えられる。毒蛇から娘を守りたかった王は、海上に塔を建設させ、18歳になるまで娘をそこに幽閉することにした。王は頻繁に塔を訪れ、娘の成長を見守った。そして来る18歳の誕生日、娘の忍耐を称えようと籠いっぱいの果物を手に塔を訪れた。親子は運命から命を守れたことに歓喜し抱き合った。しかし果物の籠の中に潜んでいた毒蛇に噛まれ、娘は王の腕の中で息絶える事となった。

諸説あるがこれにちなんで、Maden’s towerと名付けられたらしい。塔を訪れた私は19歳だったから少しホッとした。ここは有名な告白スポットらしいが、それでいいのかと私は疑った。仮にも意図していなかっとしても、人の死を持ってして生まれるロマンチシズムはロマンチックなのだろうか。夕日の美しさと運命はトレードオフということか。私はその美しさを前にどんな気持ちになれば良いのかは分からなかった。メフメト二世が船で丘を越え、ローマ帝国の栄華にとうとう終止符を打った日も、この夕陽は同じだったのか。憲政の復活を求めて青年将校が立ち上がった日も、同じだったのか。美しいものを求めて世界の表層のみをすくってくいく観光という消費活動の末にやってきた、美学のために血をいとわず闘う人生などつゆ知らずの私を感傷に浸らせるこの夕陽は、美しいのだろうか。私はその美しさに気づいたうえで、自分がそれを美しいと形容しているのかは分からない。なぜならこのイスタンブールという街の歴史を、またそこに息づいてきた人々がこれまでこつこつと、日々動かしてきた生活を癒すかのように街を柔らかいオレンジで包み込むからこそ、その夕陽はこの町への報いとして、美しく見えるような気がしたからだ。コーランを轟かせる幾多の尖塔や、モスクの半球、トプカプ宮殿の直角、戦士が船を引き越えたであろうなだらかな丘陵、そして彼らを模倣して今にも歩き出しそうなガラタ塔。時空を超えて普遍的な夕陽と、それに見守られながら、歴史の濁流の中で最適化を繰り返してきた街の全体像がセットで美しいのなら、この町のエコシステムに属しない私は、誰かが作り出した美を勝手に消費しているにすぎない。18歳の少女も自分の人生を賭してこの場所にストーリーを与えた。それに対してこの世で私はまだ何者でもない。自己の矮小さに胸が苦しくなる。この夕日は、今の私にはもったいない。それでも確かに美しいを思わせてくれて、感動を覚えさせるんだから、この夕陽が自分にはもったいないくらい綺麗なことは確かなのかもしれない。

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