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43、路肩に立つ男⑰ Sくんとの別れ

「Sくん、やめろ!」

僕は女の霊を羽交い絞めにしているSくんに向かって叫んだ。Sくんは僕を見てニコリと笑った。Sくんは僕の訴えている内容を理解しているようだった。しかしSくんは、僕の訴えは無視して女の霊を羽交い絞めにしたまま強引に後ろへ引っ張っていってしまった。

「Sくん、ダメだ! 君まで一緒に行ったらダメだ!」

僕は金網を掴み、金網の向う側のSくんに必死に訴えた。Sくんは女の霊を道連れにしてこの世から消え去ろうとしているのだ。自分を犠牲にしようとしているのだ。

しかし、いくらSくんはもう死んでいるからと言っても、こんな女の霊と一緒では、Sくんは僕らが通常行くのとは違う世界に行ってしまうような気がする。それも、この女の霊と一緒に! 例えそうならなかったとしても、今までのようにこの世界に永遠に縛り付けられてしまう事も考えられる。……いずれにせよ、Sくんにとって良くない結果になるような気がして仕方なかった。

「離して、離してよ!」

女の霊はバタバタと暴れながら喚き立てているが、Sくんは女の霊を離そうとはしない。こんなとき鳥山だったら、頭を働かせて女の霊だけをこの世から消し去るのだろうが、あいにく鳥山は仰向けに倒れたままだ。

鳥山は苦悶の表情を浮かべ荒い呼吸を繰り返していた。心臓には大きなハサミが刺さったままだ。コンクリートの床面にまで血が流れてきている。早く処置しなければ鳥山は死んでしまうだろう。しかし僕の身体は言う事を聞かず、金網の向こう側に倒れる鳥山のもとまで行く事はできそうにもなかった。

「離してよ!! いやぁああああ!!」

女の霊は絶叫すると、身体を大きく振り必死に抵抗し始めた。Sくんも女の霊を離すまいと歯を食い縛り耐えている。しかし女の霊に抗しきれなくなったのか、Sくんは女の霊に足をかけると、羽交い締めをしたままコンクリートの床面に押し倒した。女の霊は横に倒されても、なお身をよじってSくんから逃れようとしていた。

「亘(わたり)くん……」

背後から僕を呼ぶ誰かの声が聞こえた。僕は金網にもたれかかったまま振り返った。――僕の眼の前にYさんとSくんの弟が立っていた。どうやら二人は眼を覚ましたらしかった、二人とも驚いたような顔をして僕を見つめていた。

「亘(わたり)くん、一体その顔はどうしたの?」

「Yさん……」

僕は激しく咳き込むと、金網にもたれかかったまま、そのままズルズルと座り込んでしまった。Yさんは膝を着いて僕の身体を抱えた。

「あの女の霊にやられたの⁉ そういえばアイツは――」

周囲を見回したYさんは、金網の向こう側の何かを見つけたようで、身体をびくりと震わせた。

「大変、人が倒れている! 亘(わたり)くん、あの人は?」

Yさんは鳥山の姿を見つけたようだった。

「僕の知りあいです。僕を助けようとして……女の霊に刺されました。介抱してあげて!」

僕はYさんをの身体を自分から押し退けた。Yさんは青ざめた顔をして立ち上がると、金網を乗り越え鳥山のもとに膝を着いた。

「あの……大丈夫ですか?」

Yさんは鳥山の肩を叩いたが、鳥山は眼を閉じて洗い呼吸をしたまま返事をしなかった。Yさんは鳥山の心臓に刺さっていたハサミを抜き取ると、鳥山に覆い被さるようにして、その傷口を両手でグッと押さえた。

「亘(わたり)くん、女の霊はどこに行ったの、もう逃げたの?!」

僕はYさんが言っている意味が分からず返答に困った。女の霊はYさんのすぐ向こうに居る。女の霊だけではなく、Yさんの彼氏だったSくんだってすぐそこに居るのだ。

「そこに……そこに居るじゃ――」

僕はSくんの方を指差して答えようとすると、大きな唸り声が聞こえた。――それはSくんの声だった。Sくんは僕と眼が合うと、何かをやめさせようとするかのように首を横に振った。

「亘(わたり)くん、そこに誰か居るの?」

急に黙ってしまった僕を不審に思い、Yさんが不安そうな視線を僕に向けた。

僕はどう対応すれば良いか確かめるようにSくんの眼を見た。Sくんは僕の眼を見て首を横に振った。Sくんは自分の事をYさんに言わないでほしいのだと僕は捉えた。するとSくんは僕に向かって大きく口を動かした。その口は「そ つ ぎょ う」と言っているようだった。そう言うとSくんは少し悲しそうな様子で小さく笑った。

……SくんはYさんの気持ちを理解していたのだ。Yさんが自分への未練を「卒業」しなければならないと考えている事を。だから、SくんはYさんに自分の存在を感じさせる事はしたくなかったのだ。さっきSくんがYさんを助けた時は、思わず自分の姿を見せてしまったのだろう。しかし、Sくんに眠らされた後のYさんには、その時の記憶自体がなくなっているようだ。SくんはYさんを眠らせる事で、その時の自分の記憶を消したのだろう。それはYさんだけではなく、Sくん自身もYさんから……いや、この世界から「卒業」しようとしているからだと僕は理解した。この理解は、僕をとっても切ない気持ちにさせた。

「……誰も居ないよ」

僕はYさんに返事をした。

「もう、ここにあの女の霊は居ない。アイツは――」

「アイツはどうしたの?」

「アイツは……突然現れた超カッコイイ霊にやっつけられたのさ」

僕は泣き出しそうになるのをグッと堪え、Yさんに笑顔を向けた。Sくんも身体を震わせて涙を堪えているように見えた。

「そう、その霊が助けてくれたのね」

YさんはSくんの方へ眼を遣ると何か感慨にふけっているようだった。それはまるでSくんの姿が見えているかのようだった。

するとSくんは女の霊を羽交い締めにしたまま立ち上がった。女の霊はしばらく大人しくしていたが、何か悪い予感でもしたのか再び暴れ出した。Sくんは女の霊を羽交い締めにしたままじりじりと移動し屋上の縁、もう一歩横に踏み出すと落下してしまうギリギリの場所へと立った。

僕は金網を手繰り寄せるようにして何とか立ち上がると、Sくんの口もとを食い入るように見つめた。きっとSくんは最後に何か言い残して身を投げるだろう。僕は親友の最期の言葉を絶対に聞き逃すまいとした。

するとSくんの弟が僕のすぐ隣にやって来て、両手で金網を鷲掴みにした。

「お兄ちゃん!」

Sくんの弟は叫んだ。

「お兄ちゃん、行っちゃイヤだ! お兄ちゃん!」

Sくんの弟はSくんの姿が見えていたらしい。Sくんの弟は両手で掴んだ金網を前後に揺らしながら泣き叫んだ。Sくんは今にも泣き出しそうな顔をして自分の弟の様子を見つめていた。

「Sくん?」

Yさんが思い出したように立ち上がった。

「そうだ、Sくんが居たはず。さっき、私はSくんに助けられたはず。……Kちゃん、Sくんがそこに居るのね?」

Yさんは血だらけになった手でSくんのいる方を指差した。

「Kちゃん、あの辺りにSくんがいるの?」

するとSくんの弟は金網をよじ登ろうとした。Yさんは何かを察したのか金網の向こうからこちら側に身を乗り出し、Sくんの弟を自分の方へと引き寄せた。

「そこに居るよ。お兄ちゃんはそこに居るよ!」

Sくんの弟はSくんを指差した。

「Sくん、Sくん!!」

Yさんは見えないSくんを必死になって呼び続けた。その様子をSくんは口を真一文字に結んでじっと見つめていた。するとSくんは女の霊を羽交い絞めにしたまま、屋上の縁から下を覗き込んだ。SくんはYさんや弟に構わず、このまま飛び降りようとしているようだった。僕はギュッと金網を握り締めた。

「Sくん……Sくん……」

誰かの声が聞こえた。――それは鳥山だった。仰向けに倒れたままの鳥山は喘ぐような荒い呼吸をしながら、自分からは見えない位置に居るSくんに語りかけているようだった。

「Sくん、鳥山さんが君に何かを言っている!」

僕はSくんに向かって金網越しに叫んだ。するとSくんの弟が、僕の言葉を手話でSくんに伝えたようだった。Sくんは小さく頷いた。

「このまんまいっちまうなんて、そりゃ寂しすぎるぜ」

鳥山は仰向けに倒れたまま、声を絞り出すようにして言った。

「Sくん……最期に一言くらい何か言ってやんな……」

そう言って鳥山は「フッ」と笑うと再び眼を閉じてしまった。Sくんは、鳥山の言葉を泣きながら手話で伝える弟の様子をじっと見つめていた。

「Sくん、そこに居るんでしょ!」

Yさんがある一点を見つめながら叫んだ。

「そうだよYさん。Sくんはあそこに居ます」

僕は金網越しに、そうYさんに伝えた。そして僕はSくんの眼をじっと見つめた。Sくんは何も言おうとはしなかった。僕はSくんから了解を得られたと判断した。僕はYさんに対して説明を続けた。

「Sくんは女の霊から僕達みんなを助ける為に、女の霊もろとも、まさに今この屋上から飛び降りようとしてくれているんです」

僕はそこまで言うと堪え切れずに涙を流した。僕は本当に悲しい気持ちになった。僕はここに居る全ての人と、全く違う状況で出会えたらなと強く思っていた。

Yさんは僕の話しを聞くと、何も答えずじっと黙ってしまった。しかし、しばらくすると小さく笑った。

「Sくんらしいわね」

Yさんはそう言うと、再び小さく笑った。Sくんは少し驚いたような表情でYさんを見つめていたが、しばらくするとSくんもYさんと同じように小さく笑った。

『Kちゃん、僕の言葉をYさんに伝えてくれ』

Sくんは弟に大きく口を開けて伝えた。弟は泣きじゃくりながら頷いた。

『Yさん、今までどうもありがとう』

Sくんは口を大きく開けてYさんに想いを伝えた。Sくんの弟は泣きながらその言葉をYさんに伝えた。

「私こそありがとう。Sくんと出会えて幸せだった」

Yさんはそう言うと、笑顔を浮かべたまま涙を一筋こぼした。

『これから僕達は違う道を歩む事になる。でも僕達は、いつか必ずまた会える。それまではさようなら』

Yさんは涙を流しながら、笑顔でSくんの言葉を聞いていた。

『Kちゃん、君は男の子だ。お姉ちゃんやお母さんの事を任せたよ? いっぱい勉強をするんだよ? 男の子は簡単に泣いたらいけないよ?』

Sくんの弟は、自分に向けられたSくんからの言葉を泣きじゃくりながら口に出した。Sくんの弟は大きく頷くと泣くのを止め、Yさんと同じようにSくんに笑顔を向けた。

すると、Sくんが僕の方を見た。

『亘(わたり)くん』

Sくんはニコリと笑った。僕は唇をわなわなと震わせ頷いた。

『君とは色々あったけど、最後は仲良くなれて良かった。君と僕とは友達だよね?』

Sくんは僕をじっと見つめた。

「友達に決まっているだろ……」

僕は睨みつけるようにしてSくんの眼を見つめた。

「君と僕とは友達だよ!」

僕はSくんに向かってそう叫ぶと、もうSくんを見る事ができないくらいに嗚咽し始めた。涙と声が出てきてたまらなかった。僕は本当にSくんと別れるのがイヤだった。同時に、Sくんと出会えて本当に良かったとも思った。Sくんの眼からも涙がこぼれているように見えた。

『じゃあ、みんな』

Sくんは僕達一人一人の顔を見るとニコリと笑った。

『今まで本当にありがとう、さようなら』

Sくんはそう言うと、女の霊を羽交い締めにしたまま屋上から飛び降りた。

「お兄ちゃん!」

Sくんの弟が叫んだ直後、下の方から「ドン!」という大きな音が聞こえた。Yさんは屋上から下の通りを見下ろした。Yさんは僕の方へ眼を遣ると、首を横に振った。

「二人とも消えてしまったみたい」

Yさんはそう言って悲し気に笑うと、いつの間にか晴れ渡っていた空に向かって両手を合わせた。Sくんの弟と僕もそれに倣い両手を合わせた。

「Sくんどうもありがとう」

僕は心の中で呟いた。……彼は僕の命の恩人だ。僕の魂を救ってくれたのだ。

僕もいつか必ず死ぬだろう。もしそんな時が来たら、僕は真っ先にSくんに会いに行ってやろうと思った。そう考えると、なぜか死ぬ事ってあんまり怖くないような気がしてきた。

僕はどうやら、Sくんの魂を鎮める事ができたようだ。Sくんを成仏させる事ができたようだ。自分だけの事しか考えられず、その為にSくんの命を奪ってしまった僕だったが、心を入れ替えたおかげで、Sくんとも和解し友達になる事までできた。僕は悲しい気持ちと同時に、安堵するような気持ちも抱いた。

でも全ては、僕だけでは到底できなかった。YさんやSくんの弟、そして鳥山が居てくれたから成し得たのだった。みんなが、僕に……みんな――鳥山! その時、僕は思った。――そうだ、僕にはまだやらなくてはならない事があったのだと。

そう、僕にはまだやらなければならない大切な事があったのだ。それは僕の命を救ってくれたもう一人の恩人――鳥山の命を救う事だ。


➡44、路肩に立つ男⑱ 鳥山との別れ。ユージとの和解

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