誰かにとって無意味でも
誰かにとっては宝物。世の中にあるもの、存在する人、すべてがそうだと私は思っている。
「理解できないものには関わらない」って、本来とても簡単なはずなんです。
うん。簡単なことだと思うんだけど。
たとえば駐車場で高級車やクラシックカーを見かけると、「ずいぶんお金に余裕があるんだろうね」って言う人がいる。
生活を切り詰めて切り詰めてようやく買った車かもしれないのに。どうしてその車に乗りたいのかっていうストーリーも知らないのに。
たとえば「形に残らないもの」ーー旅行、食事、ライブ、そうしたものにお金や時間を使うことを理解できないって声高に言う人もいる。
でも「そのひととき」があるから生きていける、一瞬の幸せのために働いている人もいるわけで。
その人が何に価値をおいて生きているか、何を得たいがために働いているかなんて、他人がはかれるような単純なものではないと思うんですよね。
「なんで?」っていうシンプルな疑問はあると思う。分かりたいためかもしれないし、「なんで?」っていう感情は生きていればどうしても生じるし。
でも「それ意味ある?」「無駄じゃない?」って言葉は正直、嫌い。あなたにとって無意味でも、あなたにとって無駄でも、誰かにとっては宝物かもしれないじゃない。
「自分」と違うから何なんだろう。理解できないから何なんだろう。家族や友人ならまだしも、他人なら放っておけばいいのに、と思う。
「価値」って言葉も難しいですけどね。
シンプルにいえば、「それ」のためにどれほどお金や時間を費やすことができるか、費やしたいかってことなんだろうけど。
自分を犠牲にできるか否か、とはまた違う。大切なもののために自分を犠牲にすることも、大切なもののために自分を大事にすることも、どちらもきっと必要だから。
もっといえば「(お金や時間を)犠牲にできる喜び」みたいな感情もあって……
自分が、お金や時間や、人生の一部を差し出す・費やすことで「何か」が生まれることが嬉しい。そこにほんの少しでも関われることが嬉しい。そういう価値の置き方だって存在する。
こんなふうに、ちょっと考え始めただけでも頭のなかに渦が巻く。言葉を選んでぼかして、遠まわしになる。
「生きるとは」くらいの大きなテーマだと思うんだけど、他人にどうこう言えちゃう人がなんだか最近、多い気がする。
どうしてだろうね。