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私の原点。余命宣告を受けた母とその家族。在宅で母を看取った話。

今回のnoteは、2017年に母を乳がんで亡くし、最期3ヶ月間自宅で看取ったときの話です。

タイトルの写真は亡くなる三年前の母です。私は母の病気を治したい、元気で生きてほしい一心で在学中から鍼灸治療伝統医学を学び実践し続けてきました。母も所沢から渋谷まで月に数回通っていました。死後から4年経過し、ようやく母の死と向き合えるようになり今回執筆することにしました。親孝行は親が生きているうちにしかできません。このnoteがいつか誰かのお役に立てれば幸いです。

母50歳のときに乳がんが見つかり3bという進行しているがんでした。摘出手術後から一年経過した頃から鍼灸治療にも通い出しました。抗がん剤、ホルモン療法の副作用で、身体が悲鳴をあげていました。その状況が少しでも良くなることを願い鍼灸治療にチャレンジしたのです。

鍼灸治療で、乳がんが治るというよりはがんに負けない身体作り。免疫を下げないために鍼灸治療を取り入れていました。

どのような経緯だったのか詳しく振り返ってみます。

母の乳がんの病歴

2005/10/19 乳がん3b告知-防衛大学病院

2005/11/1 国際医療福祉大学三田病院

術前化療-入院4日間-11/7CEF療法、タキール術前化学療法

抗がん剤治療続ける

2006/4/10 右乳房切除術+エキカリンパ節賦活術

退院後 飲み薬にて、抗がん剤治療、ホルモン療法

(フルツロンカプセル、エンドキサンP、セルベックスカプセル)

副作用に苦しみ口内炎、吐き気、腹痛が激しく発生。


2011/10/13 帯津三敬病院 瀧本医師 受診 漢方スタート。

2016/3/3  両肺に少結節が散在。転移。上大静脈前の腫瘤も増大 肝左葉に小嚢胞を認めます

2016/6/4  肺転移の疑い(上大静脈前側の軟部濃度腫瘤も増大し、肺転移もしく は播種病変を疑います)

2016/10月頃から咳が少し出始める。

2017/1/12 呼吸が苦しくなり右肺に多量の胸水が確認され、要町病院松崎医師を紹介頂き、CART式で肺の水を抜き濾過して戻す。

2017/3/18 呼吸困難で環状八号線練馬高野台付近で発生。順天堂練馬病院に救急に駆け込む。酸素吸入され西埼玉病院に搬送。

2017/3/26 自宅に戻り在宅治療を再スタート

2017/5/7 死亡

以上は西洋医学の医師向けに記録を残していたものです。

2006年からは鍼灸治療のみで取り組んできました。2011年からは帯津三敬病院で漢方も服用していました。

5年生存率20%と言われたが、12年生存

医師からは乳がん診断を受けた当時5年生存率が20%と言われる中、母は12年元気に生きました。母はガン患者とは思えないくらい元気で、好きなものを食べ、好きな場所に行けて、海外旅行にもいき、楽しんで過ごしてきました。病院の中で不自由なまま生きるよりは母は自由に好きなように過ごしていました。2006年におきた日常生活がままならないような副作用が強く出てからは鍼灸治療で母は乳がんと過ごしてきました。

在宅の医療機関を選ぶ大変さ。3件目でようやく良い先生に。

肺に水が溜まり、在宅医療を受けることに。肺に水が溜まっているので、その処置ができる医師が往診してくれるというと限られていた。所沢市訪問医療機関の肺の水が抜ける医療機関は僅かしかなく藁にもすがる思いで連絡。実際に往診してくれたのだが、母を上から目線でひどく罵るような結果に。鍼なんかで良くなるわけがない。母の全てが否定されることになり、母はその医師を拒絶。泣きながら私に電話してきたのを覚えています。私が選んだのだが、すぐに病院を変えました。次の病院でも患者をみることも、触れることもなくタブレットだけみてすぐ帰る先生。落胆しました。しかし、3件目でようやく母の目線に座り丁寧に診てくださる先生にあたりました。素敵な先生でした。もしこの記事をみた所沢市周辺で在宅医療機関を探している方は一体どこの先生だろうと気になると思ったので、医師名と医療機関名をここに記しておきます。鬼澤信之先生です。https://twitter.com/nonizawa?s=20

医療機関名は杏クリニック http://anz-homecare.com/about/

看護は平松さんにお世話になりました。平松さんの摘便には相当ラクになったようで、母は平松さんに会えるのを楽しみにしていました。亡くなったときもすぐに駆けつけてくれました。訪問看護ステーショントータルケア小手指の平松さんにも大変感謝しています。

家族も疲弊する自宅で看取るという苦悩

私は三人姉弟で真ん中の長男です。母を在宅で療養する事になった時、当初姉が毎日母の面倒みるから大丈夫と言っていました。しかし、1週間経過すると心身ともに厳しいと告げられ、父と四人でシフトを組み、家族総出で母の看病をしました。私も火曜夜から水曜昼過ぎまで担当しました。元気だった母が日に日に死に向かっていく姿をそばてみてることは本当に辛かったです。姉の気持ちがよく分かりました。甘くない在宅医療。

もちろん、訪問看護、介護ケアも頼みました。弟は介護休暇を取得しましたが、時間が経過するに連れて、それぞれの家族もまた限界にきていました。

小さな子どもがいる中で留守にするのに妻からはこっちも大変だ。という空気感を感じ、衝突することもありました。辛そうな母。母は死への恐怖感が日に日に強くなっていました。

母を失うかもしれないと私たちも心にも大きなダメージを受けていました。

これまで師匠のもとで学んできたことが(終末期ケアの往診)を通じてしてきた経験が、母にも徐々に起きてきました。

モルヒネも拒否。自然死を選ぶ母

幻覚、急に暑くなったり寒くなったりと末期がん患者にみられる症状がでていました。それに対する投薬もありますが、母は一切拒否していました。それは何故か?
もちろん一度は服用するものの、気分が悪くなる、自分が自分で無くなると言って説明しながら拒否の意思をはっきり伝えられました。モルヒネも内臓に負担が掛かる嫌な感じがするという理由から拒否。医師やナースからもガンの痛みは相当なもので、モルヒネを投薬しない方はあまり見たことがないと驚かれていました。意識が無くなることがないから、最後まで母は皆を認識できていました。母は、西洋医学の治療法としては、鼻からの酸素注入を受けていたことのみです。あとは、看護の平松さんの摘便(てきべん)母も徐々に衰弱し、痩せ細り、死に着々と近づいている気配はしていました。

5月7日突然目が覚め、急に涙が溢れた謎の現象

この日の現象は未だに忘れられません。何が悲しいのかわからないが、急に涙が溢れ、30分くらい涙が止まりませんでした。しばらくしてから寝て朝型携帯を見ると弟から連絡が来ていて、母が亡くなったと知らせが届いていました。師匠からもお母さんそろそろだからそばにいてあげてと往診してくれた後に連絡が入っていました。携帯を見るのが遅かった私はその瞬間を逃してしまいました。しかし、母が亡くなったであろう時間帯に私は突然目覚め、涙が溢れてきたのです。不思議な現象でした。

それから

亡くなって3日間 家族は泣きに泣きました。

辛そうな母を間近で見ていたので安堵感もありました。しかし、悲しみ、喪失感の方が百倍大きかったです。

大好きな人たちに囲まれて亡くなった母

2時間かかるのに時間を作り往診し、施術しにきてくれた師匠。最期は師匠がきてくれて、その夜に眠るように母は逝きました。3ヶ月に渡り家族と毎日過ごせた母。肺に水が溜まり苦しくてうつ伏せに眠ることができずに、リビングの椅子でうつ伏せになったまま過ごしていた日々。

一人だと寂しいからみんながいるリビングで過ごしたいと自分の思いを伝えてくれました。母は忍耐強く、我慢してしまう性格。面倒見がよく、私が学生時代友だちを家に連れて行っても嬉しそうに料理を出してくれました。母の手料理を食べた友人も多数。来る人達をウェルカムしてくれた母でした。

亡くなって初めて仰向けて自分のベッドで横たわっているのを見た瞬間、ありがとう。お疲れ様。と涙が大量に溢れ出た。今こうしてPCの前で文字を打っていてもあの時を思い出し、涙が溢れ出します。その涙は感謝の気持ちです。あなたの子どもに生まれてきて本当に良かった。人生で大切なことはなにかを教えてくれた。

師匠に死を報告すると家族とともにその夜駆けつけてくれました。

私は師を前に泣き崩れました。

「僕が不出来なせいで母が死んでしまった」

師匠は何も言わず、私の肩にそっと手をおき、私はワンワン泣きました。隣で号泣する奥様。ご子息も来てくれ、神妙な面持ちでいました。実は、師匠も母を乳がんで亡くしています。師匠も母を看取った時は自宅の隣に呼び寄せて最期まで施術していました。これを読むと

結局鍼治療では乳がんは治らないじゃないかと思う方もいると思います。

ガンはどんな治療法でも難しい。大腸ガン原発性が、外科的手術で100%根治可能と言えますが、その他は逆に言うと根治するのが難しいです。

母は結果的は亡くなりました。死にゆくまでの過程は元気で直前までピンピンしていました。

世間のガン患者さんのイメージは一年間懸命に治療しながら、残り一年は病院のベッドで過ごします。

想像してみて下さい。自分がガン患者だったら、元気で過ごすのと、病院に四六時中いるのではどちらが生活の質(QOL)が高いでしょうか。

鍼灸治療では治らないかもしれないが、生活の質を保ちながらガンとともに歩んでいけた母を身近でみてきました。

未病の大切さ

母は50歳で乳がんになりましたが、振り返ると30代、40代とも肩こり、頭痛、蕁麻疹など身体の不調をよく訴えていました。

夫婦、親族に起きた揉め事などが、母のストレスの大半を締めていました。西埼玉中央病院で入院した時に病床で母のこれまでの想いを語ってくれました。私はそれを録音し、父に聞かせました。

母の奥底にあった想いは怒り、悲しみでした。

30代、40代で抱える体調の不良は大病として現れたと推測できます。

もし、この30代、40代のときに良い伝統医学の先生に出会えてたら未病の段階で身体の不調と向き合えていたら母の運命は変わっていたかもしれません。孫を抱く母の姿は今でも忘れられません。母が孫を抱いた時にまだまだ長生きしたいと初めて母の口から聞きました。

だからこそ私は生涯かけて、未病、予防の大切さを説いていきたいです。私は母を治せなかったので、生涯かけて技術研鑽、未病の普及に努めていきたいと強く思っています。病気になってからではなく未病が本当に重要!!私は母の13年を近くでみてきて、そう確信しています。

母が死後も私に教えてくれたこと

話が戻りますが、母は死後も私にメッセージを残してくれました。

母の遺骨もガン患者とは思えないくらい骨がしっかりしていたのです。最期まで私にその生き様を目の前でみせてくれました。骨が入り切らないほど、しっかりしていました。

「みたか?これが完全自然体の死に方だ」

といわんばかりに。

末期のガン患者で長年治療してきた方の骨を見たことありますか。

やせ細り、骨はもろく、スカスカだったことを自身の納骨の経験を覚えています。

最後に母への思いを伝えたいと思います。

母へ

乳がんになり、摘出後、抗がん剤治療&ホルモン療法で体調が悪化、その時鍼灸治療を受けて体調がよくなるのをみて、驚いた。病院に行けば治ると思っていた固定観念が完全に覆った。調べてみると鍼灸治療は3000年の歴史があり、伝統医学。医学史を学ぶと歴代将軍なども鍼灸治療を受けているという史実があった。腕一本でオンリーワンになれるし、それが母のように困った方のお手伝いができる。あなたは私を鍼灸の道へいざなってくれた。爺ちゃんは中国史が好きだったから家系的なものも大きいかもと思ったりする。

私のように困っている人を救う先生になりなさい。

入学試験の時、合格発表の日必ず豚カツをあげてくれた。嬉しかった。照れくさかったが、最後に一緒にみた映画は何故か、君の名はだった。終了時に暗闇の中、階段降りながら私の腕を握る母。もう今はない。照れくさいけど母の愛情をたくさん受けて私は育ってきた。師匠のもとで修業を終え、開業し、赤字まみれで、途中見失いそうになったけど、志のままに進んでいったら多くの方に喜ばれるようになった。それをみて安心してたよね。喜ばれていることが分かって本当に嬉しそうだった。今こうして鍼灸治療に取り組めることに感謝しかない。母が大好きだった鍼灸治療を多くの人に届けるべく邁進していく。

遺影に手を合わせる度、あなたを思い出す度に

「私は日々向上しているのか。毎日大切に過ごしているのか」と自問自答しています。

亡くなったのが5月7日

最後にまたね。と言って暖かい母の手のぬくもりを感じたのは5月3日

忘れもしない。ガンで肺が侵されている声なき声でまたね。と言ってくれました。

手から伝わる母のぬくもり。

あの感触は生涯忘れることはありません。

ありがとう!あなたの息子で本当に良かった。

母の愛は今でも私の中に生きています。それを胸にこれからも精進します。

母が叶わなかった健康で長生きできなかったこと。家族を亡くし、私と同じ想いをする人を無くしたい。母の分まで皆様には健康で末長く生きて欲しい。

だから今日も臨床現場でひたすら汗を流します。

お読み頂きありがとうございます。

家族と健康を大切に。

いつか誰かのお役に立てたら幸いです。

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