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母と映画とエルヴィスと…

数ヶ月前に母についての原稿を書いて欲しいと頼まれた。
母が映画評を連載していた雑誌が休刊するのでその最終号に母の代打として原稿を頼まれたのだ。

書かなきゃ…と思いつつ、なかなか書き出せずにいて気がつけば締め切りが近づいていた。ふつうに書いている時間はない。なので今回のnoteはその原稿のための頭の整理に使おうと思う。

じつはもう1年ほど、母は連載の原稿を書いていない。
認知症が進行してしまって全く原稿が書けなくなった。
この1年は母の代わりに編集者が以前に書いていた原稿を再編集して載せていた。

母が雑誌で映画評の連載を始めたのは2015年。
仕事を辞め、ちょうど70代にさしかかる頃だった。
その5年後の2020年に連載をまとめて初めてのエッセイ集を出版した。

わたしはその本のデザインを担当した。
というより強引に押しつけられてタイトルまで考えさせられた。
もちろんノーギャラだった。
こき使われたあげく、あとがきに感謝の一言もないという。
そのときのことは3年前にnoteに書いた。

「これからはエッセイストして生きる」
と名刺まで印刷して張り切っていた。
74歳にして新しい生き方を開拓する。
とても母らしいなと思って見ていた。

母はずっとそういう人だった。

ざっと書いても、母の職業遍歴はなかなか豪快だ。
20代は新宿で飲み屋のママ、30代は小さな株式会社(編集プロダクション)の社長、40代で都市設計の会社に就職してバリバリ働きながら自分の会社も立ち上げて企画開発をし、50代で突然仕事を辞めて猛勉強をはじめて福祉関係の大学で教授になり、60代で学部長になった。70代になり仕事を完全に辞めて今度は物書きで生きてく宣言。同時にアニソンのコーラスグループを発足させてライブなどもしていた。
すごいバイタリティ。とてもマネできない。
ただ飽きっぽいのか潔いのか、何でもすぐにスッパリ辞めてしまう。
大学の先生はそれなりに長く続いたけど、10年単位で全く違うことをしていた。
とにかく情熱的に動いて、すぐに飽きる。そんな人だ。

そんな人だったのであまり母と過ごした記憶はない。
特にわたしが幼かった頃の母の記憶はほとんどない。
父と母は早くに離婚して、母は仕事に専念するためにわたしを長崎の実家に預けて、東京で働いていた。

もともと新宿の二丁目とのちにゴールデン街で飲み屋をやっていた母。
たいそう人気のある店でかなり繁盛していたらしい。
小学1年生に進学するタイミングでわたしは母と暮らしはじめた。
そのとき母は小さな編プロの社長をしていた。
とにかく忙しかったようで、一緒に暮らしはじめてからもあまり母と一緒にいた記憶はない。
母は使えるものは何でも使う人だったので、わたしは家の近所の色んなところに預けられた。
学校が終わると学童保育に行き、そこから母の顔なじみのクリーニング屋に預けられたり、おそらく電化製品を買った程度の付き合いしかないだろう近所の電気屋にも預けられたこともあった。とにかく色んな家にお世話になった記憶がある。
そして夜遅くに母が帰ってきて一緒に家に帰る。
そんな毎日だった。

今回、母と映画というテーマで原稿を依頼されたので、この頃、母と見た映画について思い出してみた。
一本思い出した。
「アフリカ物語」という映画だ。1980年の映画。
ずっとこの映画のタイトルが思い出せなかったんだけど、ようやくわかった。
「アフリカが舞台で、動物に囲まれてキレイな女の人が暮らしていて、最後火事になる映画」というぼんやりした記憶から、いろいろと検索してようやく見つけた。
予告を見て「これだ!」と思った。

本当はこの映画を見るはずじゃなかったのを覚えている。
本当は「スターウォーズ帝国の逆襲」を見るはずだった。
ただ劇場前の看板の巨大なダースベーダーの顔がものすごく怖くてわたしが劇場に入るのを嫌がって、代わりに見たのがこの映画だった。
ストーリーは覚えてないけど、火事のシーンと女性がすごく美人だったことだけは記憶に残っている。
これが唯一この頃、母と見に行った映画の記憶だ。

もう一本覚えているのが、近藤真彦(マッチ)の初主演映画「青春グラフィティ スニーカーぶるーす」(1981)だ。
小学校低学年の頃、わたしはマッチの大ファンで、公開してすぐに母に連れて行ってもらった。ただびっくりするほどの行列で、その列が劇場の回りを何周も回っていて、いったい何時間並んだら劇場に入れるのかわからない状態で見るのを諦めた。
代わりに東京タワーに連れて行ってもらった。
東京タワー自体の記憶はないのだけど中にあった蝋人形館の異様さが今でも頭にこびりついている。
ちなみにこの日見ることのできなかった「青春グラフィティ スニーカーぶるーす」は、37年後の一夜限りのリバイバル上映ではじめて見ることになった。

この頃の母と映画の記憶は、どちらかと言うと「見れなかった」という思い出だけが残っている。

だいたい一緒に映画を見ることも少なかった。
自分に興味がないものにはほとんど無関心な母だったので、本気で自分がその映画に興味がないときは、劇場前までわたしを連れて行き、映画はひとりで見させられていた。そして終わる頃に迎えに来た。
「ドラえもん のび太の恐竜」(1980)「宇宙戦士バルディオス」(1981)などはひとりで置いていかれた映画だった。小学1年生の頃から映画は一人で見ていた。
その間、母は買い物に行ったり、映画館の近くの喫茶店で時間をつぶしていたようだ。

1980年代の中ば頃、ぼちぼちとビデオレンタルというものが普及し始めてから、母と映画をみる機会が増えた。
映画館で見るのではなく、レンタルしてきたビデオを一緒に見るのが定番の週末の過ごし方になった。
はじめの頃はレンタル代が1本1000円以上して、レンタルと言っても相当高額だったので作品選びはけっこう慎重だった。
たしか最初の一本目にレンタルしたビデオは「ガンジー」(1982)だったと思う。
1本目にしてなかなか背伸びした映画をセレクトしたと思うけど、それ以外は基本的にアクション映画や娯楽映画が多かった。

その頃の母がレンタルビデオでハマったのはシルベスタ・スタローンだった。
レンタルビデオの普及で品数が増えていって、過去作までどんどん遡れるようになり、有名になる前の映画まで見られるようになった。
ある日「ザ・イタリアン」(1970)という幻の初主演映画があることを知り、わたしがちょっと遠くの取り扱いがある店にレンタルのお使いに行かされたのだけど、作品が成人向けの作品で貸し出しできないと言われ、「母がどうしても見たいと言ってるんです。嘘だと思うなら母に電話して確かめてください」と店員に懇願して借りて帰ったのを覚えている。
見てみたら、親子で見るにはハードすぎるアダルト映画だった。
いまでもDVDなどで比較的見やすい映画なのでぜひ親子でどうぞ。

母の映画の見方は、だいたいお気に入りの俳優を中心にして見るパターンが多かった。誰かを好きになると主演作のソフトを買ってくる。そしてどんな端役でも出ていたら出演作を片っ端から見る。そういう見方だった。
ケビン・コスナー、レオナルド・ディカプリオ、チョウ・ユンファ、ペ・ヨンジュン、プラッド・ピット…。
とことん入れあげて、いつの間にか飽きる。
この繰り返しだった。
ハマったときの熱の入れ方はすごい。
ビデオ(DVD)、写真集、関連書籍なんでも買えるものは買ってくる。
惜しみなく情熱を注ぎ込んで、でもある日すっと興味をなくしてしまう。
「ケビン・コスナー?あれは過去の男よ」
だいたいそんなことを言い始める。

仕事への向き合い方と映画の見方がよく似ている。
一気に情熱的にハマるけど、ある日ふと情熱がさめて過去のものになってしまう。
こういう所にも人間性はしっかり表れる。

そう言えば、映画が母を「おれおれ詐欺」から救ったこともあった。
ある日、母の電話に「息子」と名乗る男性から電話がかかってきた。
「おれ、しんぱち」ってたぶん名前も言ったようで、電話の向こうにいるのは息子だと思って疑わなかったらしい。
開口一番母が言ったのが「あんた、あれ見た!?「イースタンプロミス」。さっき見たんだけど、あれすごいわねー、主演の俳優、何て言ったけ?」その質問に相手が即答できなかったので、「怪しい」と思ったらしい。
ヴィゴ・モーテンセンに救われたと言ってた。

母と映画館に行った記憶はそれほどない。
わたしが20代の頃にどうしても場所がわからないという名画座にブラッド・ピッドの「セブン」(1995)を見せに連れて行ったのが25年くらい前。それがもしかすると小学校のとき以来2人で映画に行った唯一のことだったかもしれない。

「映画は一人で見るもの」それが親子の共通認識だったのかもしれない。
かなり小さい頃から映画はひとりで見るものだと母に身をもって教わっていた。
一緒には見ないけど映画は共通の話題のネタではあった。
会えば映画の話をする。
特に母が映画評を書き始めてからは「原稿のヒントをよこせ」と書かなきゃいけない映画についてずっと解説をさせられた。

映画という共通言語が親子をつなぐ絆だった。

去年母の認知症が進み色んなことがわからなくなってきた中で、久々に一緒に映画に行った。

見に行ったのは「エルヴィス」(2022)。

2人きりで映画を見るのはたぶん「セブン」以来、約25年ぶり。
もうひとりでは劇場に行くこともできなくなってしまって、映画への興味もすっかり失ってしまった母だけど、ただ若い頃熱狂していたプレスリーの映画なら見るかと思って誘ってみた。
目をキラキラと輝かせて「行く行く行く」と大喜びしていた。
車の中でも「最良の日だ」って大興奮していた。
160分の長尺が心配だったけど、最後までしっかり見ていた。
エンドクレジットの途中で席を立ち一人でトイレに行くというが、心配だから後ろからついて行ったら階段の途中でよろけて倒れて、それを後ろで受け止めてそのまま支えて歩いた。ずいぶん小さく細くなっていた。
「一瞬も退屈しなかった!」って興奮気味にしゃべりながら歩いていた。
「エルヴィスを見にアメリカまで行ったのよ」ってはじめて聞く話をしていたが、たぶんそれは妄想だ。
妄想でも心は映画の世界を旅していた。
映画には最後までプレスリー本人が出ていたと思っていて、「やっぱりエルヴィスはいい男ね」って言い続けていた。
帰りの車の中ではマイケル・ジャクソンの曲が流れていたけど「これエルヴィスが歌ってるのよね、やっぱり歌がうまいわね」と世界の全てがエルヴィスに染まっていた。
映画の力はすごい。
テレビを見ていても今何を見ているのかいまいち理解できなくなっていた母が、完全にエルヴィスの世界にひたっていた。
パンフレットを見ながら「やっぱりエルヴィスはかっこいい人よね、でもかわいそうな人だったのね、もう死んだの? かわいそうね。まだ生きてるのよね。え?死んでるの? ならどうして映画に出ているの? あ、トム・ハンクスが出ていたのね、トム・ハンクス有名な人よね、知ってるわ、わたし、知ってるのよ、このトム・ハンクスって人、これはいい人じゃないのよね、憎らしいヤツ!こんちくしょうめ!!で、誰だっかしら、このトム・ハンクスって、これ、知らない人よね」と、ぐるぐると映画エルヴィスの世界を旅し続けていた。

このしばらくあと、母は脳梗塞を起こして入院し、その後は施設で暮らしている。

その後も認知症がゆっくり進行している母は、映画の記憶はほとんどなくなってしまって、また少しずつできないことが増えたけど、最近は外出に連れ出す車の中でエルヴィスの曲をかけると歌うようになった。
「 ラブミーテンダーラブミースイーネバーレッミゴー〜♪」とシャンソンを習っていたことがある持ち前の低音のいい声で歌い始める。

息子のことも一瞬わからなくなるほど色んなことを忘れかけているけど、英語の曲の歌詞は見ないでもすっと歌えてしまう。
あまりにも気持ちよさそうに、上手に歌うので、ボタンを押すとエルヴィスの曲だけがエンドレスで流れるようにセットしたスピーカーを作ってプレゼントした。

いまも母とはほぼ毎日電話で何ともつかない話をしている。
もうほとんど映画の話はできなくなったけど、電話をするとバックにはたいていエルヴィスの曲が流れている。

あの日見た映画のエルヴィスの時間が、いまでもそこに流れ続けている。
言葉はなくても、親子は今も映画でつながっているのだ。

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映画館の思い出

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