見出し画像

「苦手」に向き合うことが「好き」を生み出す入り口になる、かも

ふだんから、できるだけ食わず嫌いをしないようにしている。

食べ物もそうだけど、映画でも本でも何でも。
食べたり見たり読んだりする前に「ああ、これダメそう」って思って手をつけないってことをできるだけしないようにしている。

苦手そうと思って食べてみたらなかなか美味しかったり、見てみたらけっこう好きだったってことがある。
どんなものも見てみないとやっぱりわかならない。
はじめから決めつけて避けてしまうのは損するなと。
アニメやドラマもとりあえず1話目は見てみる。
AIもとりあえず使ってみる。
当たり前のことなんだけど、でもやっぱり大事な事だと思ってる。

苦手だった「ナス」がいつの間にか「大好物」に変わっていたり、大嫌いだった「掃除」が、いつの間にか楽しいことになったのだって、苦手に向き合った結果だと思っている。

ゲームは好きだけど、レースゲームにはどうしても興味がもてなくて、そもそも苦手なのでほとんどやったことがなかったけど、PS5を買ったらセットでついてきた「グランツーリスモ7」を気が進まないままやってみたら、いつの間にか面白さにとりつかれて、結局半年間毎日遊んでいたのは去年のことだ。結局エンディングを見てからもしばらくやり続けてた。昨日は映画版「グランツーリスモ」を見に行ってあまりに気分が高まりすぎて号泣していた。

最近では、どうでもよさそうだからスルーしようと思っていた「Gメン」って映画が、見てみたら自分にとって大好きな映画になったというようなこともある。
「アルキメデスの大戦」とかちょっと古いけど「BRAVE HEARTS 海猿」とか、まったく期待してないで見に行ったら大当たりだったり、意外なものが面白いと、それはふつうに面白い映画に出逢うよりも嬉しいことだったりする。

苦手に向き合ってみたらじつは、好きなものだったってことは本当によくある。

最近「オアシス」という映画を見た。
2002年の韓国映画。
わたしは20年ほど前に一度この映画を見て、「うわ、この映画苦手だ」って思った。
なのでこの映画は良い記憶として残っていなかった。
当時、この映画を見て気分が落ちて立ち直れなくなった。
その頃の日記を読むとずっと何週間もずっと咳が止まらなくて体調が優れず、精神的にも不安定で、あまり良い状態ではなかったようだ。
決定打になったのがこの「オアシス」だった。
交通事故で人を殺した罪で服役していた青年と、事故の被害者の娘で重度の脳性麻痺を持つ娘が出逢う映画。
とにかくどぎつくて、本当につらい気持ちになった。当時のブログにこんなことを書き残してた。

タイトルがオアシスってーから、これは完全に癒されるだろうなと思ってセレクト。しかし、これが、まあ、なんちゅうか、本当にネガティブに追い打ちをかけるダークな映画で、望みはあるけど救いがないというか、とことんまで落ち込んでしまった。

その映画が映画館でリバイバル上映をしていると聞いたので、約20年ぶりに見直してみた。
ずっとイヤな思い出として引っかかっていた映画だからだ。
見てみたらびっくり。
素晴らしい映画だった。
どこがダークなんだ、こんなにきれいな映画だったのか。
確かにやってることはどぎつい。
野良犬みたいな男と、脳性麻痺で動けない女性が恋に落ちる。
出会いは最悪だ。障害で動けない女性に、男が無理矢理襲いかかる。
マジか…。正直、うわってなる。
でもこの2人が心を通わせて初めて外に出るところでいきなり世界が変わる。
そこから涙があふれてきて、そこからは最後までほとんどずっと泣いていた。
涙が止まらなかった。
2人だけにしかわからない世界の話。
周囲の人間からは徹底的に蔑まされ、誰にも必要とされていない2人が、お互いがお互いの存在だけを必要とし、そこで生きる希望を見いだしていく。
人が生きる意味とは何かを問うような、とてつもない映画だった。
自分のことを唯一わかってくれる人と出逢う映画。
そんな唯一無二の相手を見つける映画。
「見つけた系」って勝手に呼んでるけど、いちばん好きなタイプの映画だった。
生涯ベストに入る一本だと思った。
なぜあの頃、この映画の素晴らしさに気がつかなかったのか。
この映画に出会い直すのに20年近くかかってしまった。
「苦手」に向き合い直してみたら、生涯で「一番好きかも」と思えるような恋愛映画に出会えた。
一度「苦手」を経験したことが引き金になったのかもしれないけど、心への響き方がとてつもなかった。

時間をおいてみることで受け入れられるものがある。
先日読んだ本もそうだった。
「未来をつくる言葉」という本。
世界と言葉をめぐる思索についての本。
数ヶ月前に読んだときは、書いてある言葉が自分の中の触れたくないような感情を刺激してきて、追い詰められる思いがして途中で読むのをやめてしまった。
先日、ふと手に取って読みなおしてみたら、すんなり読めた。
いやむしろこの本に書かれた思索に心地よさすら感じた。
数ヶ月前に息苦しくなったあの負の感情はなんだったんだろう。
あのときダメだった気持ちが弾みになってより心地よさを感じた気がする。
少し時間を空けみることで自分の中で何か変化があったみたいだ。

ここのところそうやって、なかなか向き合えなかったものに向き合うようなことをしている。
10年前に買って本棚に刺さったままでなかなか読み出せなかった「九月、東京の路上で 」も読んだ。
今から100年前の9月、関東大震災の後の東京で起きた朝鮮人虐殺の記録。
なかなか読む気になれない一冊だった。
先日「福田村事件」を見てきたこともあって、読むなら今年しかないと思って意を決して読んだ。
衝撃的だったけど、これは読まなくていけいない本だった。
ただ記録として冷静に事実を記す、そのことに特化した本。
だからこそ伝わってくるものがある。
目の前で起きていることを子ども達が記した日記がたまらなかった。
大人たちの行動を見て当たり前のように虐殺を肯定してしまう。
それは大人たちも同じで、最初はその非人道的な行いに疑問を感じていた人たちが、政府が警察がそれをよしとすれば当たり前のように、そこへ右へ習えしてしまう。
人間の弱さと怖さがそこにある。
これは今でも起き続けていることだ。大なり小なり存在する。
最近もそれまで恐れていたものを、叩いてもいいとなった瞬間にいっせいに袋だたきにするような世界を見てぞっとした。
ふつうにこんなことが毎日のように起きている。
「正義」と言われるものの怖さに改めて気づかされる一冊だった。

自分の苦手に向き合い直す。
いま自分はそういう時期なのかもしれない。

わたしにとっての最大に苦手なことは「書くこと」だ。
その苦手なことに長く向き合っている。
この3年半くらい「書く」ことに真剣に向き合ってきた。
本当に血反吐を吐く思いでこのことに向き合い続けていたら、自分の中に変化が起き始めている。
以前は、話す方が楽だと思っていた。
書くと思考が止まっていた。
うまく書こうとして、よくみせようとして、ちっとも内面を言語化できなかった。
だから素直な感情や思考は話す方がダイレクトに伝わると思っていた。
でも最近、それは違っていたのかもしれないと思うようになった。
口から発するのが楽だったのは、適当なことで、どうにかノリで言い切れていただけで、たぶん深く考えてなかっただけだ。浅かったんだ…そう思うようになった。

いまは、書くことを通して、以前よりはっきり自分の中の思考が言葉になるようになってきている。
「書く」こと自体への苦手意識はまだあるけど、書く事への抵抗はかなり減った。

もう、今や書くことが意外に「好き」なんじゃないかなと…。
「書く」ことが大の苦手で「嫌い」だったはずなのに。
この3ヶ月くらいは毎日書く習慣を続けていて、そのことでかなり自分の中に変化が起きてきているのを感じている。
書くことが好き…かも!? まさかそんなことを言い出す日が来るなんて、正直自分がいちばんびびっている。

本当に「苦手」に向き合うことが、「好き」を生み出す入り口になるんじゃないかと、そう思えてきている。

まだ道の途中であるけど、続けることは変わることなんだと身をもって感じてきている。


この記事が参加している募集

#習慣にしていること

130,707件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?