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【ホームスティ】ガチャに失敗した男の末路。~前編~

こんにちは、Shimonです。

今回は私が経験した2度の海外留学についてのお話です。


1. なぜ留学することになった?

そもそも、私がなぜ留学したかの経緯からお話させて頂きます。

あれは高校2年の秋、今でも鮮明に覚えています。

ある日、学校から帰宅した私は当然母にこう言い渡されました。

「交換留学申し込んだから、来週試験に行ってきて。」

「・・・は?」(猫ミーム風)

訳も分からず何の話かと聞いたところ、前に私が留学したいと言っていたから申し込んだと言うのです。

ちなみに留学したいと言ったのは中学生の頃の話です。

色々言いたいことはありますが、当時の母は絶対王政で反論の余地はありませんでした。

私としては、行きたくない訳ではないが部活を最後までやりきりたい。という思いが強く、あまり乗り気ではありませんでした。

ただ、試験があるということだったのでどうせ落ちるだろうと思ってあまり深く考えずに試験会場へ向かいました。

なぜなら、高校時代の英語の成績は底辺でした。

試験内容は筆記試験と面接の2種類で、筆記試験は受ける前に勉強時間が設けられ、過去問のようなものを解いていくのですが、合格ラインになるまでやらされます。(免許取得のあれみたい)

その時点で、これ落とす気ないやつだ・・・

と察していましたが、もっと衝撃的だったのは面接官が従姉だったと言うこと。

まんまとはめられました。

母には仲良しの姉が居るのですが、その娘(従姉)が数年前に留学しており

その伝手で私を留学させようとしていた、というのが事の真相でした。

当然の如く合格した私は翌年の夏から1年間、突然アメリカに渡ることとなったのです。

2. はじめてのホームスティ

そもそもホームスティ先というのは受け入れて貰う側に選択権はありません。

留学斡旋会社または、学校側が募集し、応募のあった中から色々な条件を絞りその人にマッチングする家庭を選択されます。

つまり、完全にガチャ運で決まってしまいます。

私が人生初のアメリカでホームステイすることになったのは父母息子2人の計4人家族のところでした。

息子くんたちは上が小学5年生、下が幼稚園生でとても賑やかな家庭でした。

母親は小学校の校長先生、父親は協会に勤めており、当時はまだ珍しい主夫でした。

お金にも多少余裕があるのか家も大きく、海外ドラマそのままの環境でした。

留学中の生活はルールが曖昧で、ホームスティ先によって大きく違いが出ます。

留学生の受け入れに募集する人の目的は大きく2つに分かれており、

1つは、ボランティアとして良心的に迎えたい場合

そしてもう1つは、支援金目的の場合です。

留学中の生活資金は基本ホストファミリー側が負担することになるため、家賃、食費、共有日用品など多少の支援金が普及されるようになっています。

そのため、その支援金目的のためだけに好きでもなく留学生を受け入れる家庭もあるということです。

私は無事、前者のホームスティ先をGETできたという訳です。

留学中は特に大きな問題もなく、とても楽しい日々を終えることが出来ました。

(詳細は今後記事にするかもしれません。)

3. 2度目の留学を決意した経緯

無事、はじめての海外生活を終えた私に待っていたのはまさかの留年生活でした。

実は留学が決まった当時、在学中に長期留学をした学生の前例がなく、留学している間を休学扱いにするかどうかの取り決めがありました。

私の従姉は高校3年の夏に留学し1年後に帰国した際、そのまま卒業資格を得たパターンだったので同様にして卒業させて欲しいとお願いをしていました。

その後、留学中に学校側からの連絡は一切ありませんでした。

しかし、帰国して数日後、突然連絡が入り

「出席日数が足りないから卒業させることは出来ない。」

と言ってきたのです。

あまりにも唐突な要望で母親が学校に乗り込んで直談判に行きましたが、学校側は卒業させるとは言っていないの一点張り。

よくよく話を聞くと、なんと当時の担任が学校側にちゃんと話を通していなかったのです。(後々当時の同級生に聞いたのですが、卒業式の日にクラスを罵倒するような最低な奴だったそうです。)

まさか高校で留年することになるとは思ってもみませんでした。

しかし、決まってしまったことはしょうがない。

私は残り半年の高校生活を誰も知らない後輩達と過ごすことになったのです。

私が通っていた高校は偏差値60越えの中々な進学校だったため、高校3年生の夏は受験戦争の真っ最中でした。

進学校の受験生はめちゃくちゃ怖いです。

ほぼクラス全員が休み時間も放課後もとにかく永遠に勉強しています。

そんな中、訳も分からないアメリカ帰りのアホな先輩がある日突然クラスにやってくる訳です。

そりゃ浮きましたよ。

なんたって私は留学している間に留学前の2.5年分の記憶(勉強)をすっかり無くしてしまったのですから。

授業なんて聞いても1ミリも分かりませんでした。w

これは出席日数どころではなく、そもそも学力的に卒業出来ない危機に陥ってしまったのです。

不安だった学校生活にも少しずつ慣れてきた頃、期末試験はやってきました。

勿論結果は散々なものでした。(ほぼ全て赤点)

流石に不味いと思った担任教師。

なんと、私には秘密で各担当教科の先生にこいつは訳ありだから卒業させてやって欲しい。と言う様なお願い文を出して回っていたのです。
(掃除の時間にとある先生の机に置かれていたのを見てしまいました。)

前回の担任とは打って変わってとても優しい先生でした。

その先生のおかげで各教科の先生が特別補修(ほぼ次の試験問題)をしてくれたり、特別課題(簡単なやつ)を出してくれたりと

様々な方法で私が卒業出来るように成績を調整してくださったのでした。

(その節は本当にありがとうございました。大変なご迷惑をお掛けしました。)

かと言ってお察しの通り、私の学力が戻った訳ではございません。

在学中の私は思いました。

「きっとあと1年勉強したところで来年の受験にも間に合わないだろう。」

そうなれば残された道は1つしかありませんでした。

アメリカの大学に行くしかない。

流石に高卒で働く覚悟はなかったので私にはこの選択肢しかありませんでした。

そして、母にその旨を伝えたところ

「授業料が年間60万円以内で行けるところがあるなら行っても良い。」

と言われた訳です。

「・・・は?」

当時は円高だったので少し安くはなっていましたが、それでも州立大学に外国人留学生が入学する場合、年間約200万円程はかかるのが普通でした。

流石に無理ゲーだとは思いましたが、このままいくと地獄の浪人生活が待っていることになるので

とにかく必死で留学斡旋業者に片っ端から連絡し、資料を取り寄せました。

勿論、州立大学は絶対に無理だったのでCollege(単位制大学)で授業料が激安なところをいくつかピックアップし、なんとか希望にあう学校を見つけることが出来ました。

・・・後編へ続く











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