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白い紫陽花のドライフラワー

最近、引っ越しをしました。書類や本は幾つかの段ボールに分けて入れ、お皿や花瓶は真っ白な梱包材で包みました。荷物を準備する中で一番気を遣ったのが、ずっと花瓶に入れて飾っていたドライフラワーの包み方でした。

白い紫陽花のドライフラワーが2本あるのですが、花びら(正式には花弁では無くてガクという部位なのだそうです)がとても繊細で、触るとすぐに落ちてしまいます。白いシート状の梱包材で花束の様に包んで、段ボールの一番上にそっと入れました。

なぜ、私がこれほどまでにこのドライフラワーを大切にするのかといえば、それは、ずっと上手くいってなかった時期に頂いた、思いがけないプレゼントだったからです。

数年前、私はうつ病がひどくなって会社を辞め、寝たきりの日々を過ごしていました。
ある夏の終わりの、まだ暑さの残る日でした。その日はうっすらと曇っていました。このままではいけないと思い、久し振りにシャワーを浴びて、散歩に出かけました。

行先は布団の中で決めていました。近所にある小さい雑貨屋さんで花瓶を買おうとしていたのです。この灰色の部屋の中に花でもあれば気分がよくなるだろう、そして前を向く元気が出るだろう、だからまず素敵な花瓶を買おう、と思いました。

私はスマートフォンを頼りに、じわじわと汗ばみながらその雑貨店を探しました。普段通る道から少し離れた路地をきょろきょろと見回しながら、私はゆっくりと歩を進めました。平日の昼間だったからでしょうか、誰もいない道からさらに一歩身を引くように、そのお店は存在していました。

小さい扉が開いていました。中に女性が一人何か作業しているのが見えました。しかしあまりに静かな小さい店だったので、私は遠慮に遠慮を重ねて何分もの間、声を掛けるか否か、逡巡していました。
「すみません……すみません、中を見てもいいですか」
「ああ、いらっしゃいませ。どうぞ」
勇気を出して声を掛けると、女性は快く招き入れてくれました。

お目当ての花瓶が、幾つものドライフラワーの束がつりさげられたその下に並べられていました。
「ここにある品物の半分はハンドメイド、もう半分は私が気に入って仕入れたものなんですよ」
きょろきょろと品物を見て回る私に、店員さんが声を掛けてくれました。
お皿、箸置き、ランチョンマット、巾着袋、エプロン、アクセサリー、花瓶にキャンドル……。丁寧に作られ、店員さんに選ばれた品々が小さな店内に所狭しと並べられており、私は目移りしてばかりいました。

「大学生さん?」
と、店員さんに尋ねられました。
「いえ、社会人ですが、最近うつ病で仕事を辞めて……」
「そうだったんですね」
そう受け止めてくれた店員さんの、静かで優しそうな雰囲気に飲み込まれたのでしょうか、私は言葉を続けていました。
「その、元気になりたくて、お花が家にあれば……」
そこまで言うと、私は喉が詰まったようになり、目から温かい涙がじわりと浮かんできました。
「お花があれば、前を向けるだろうと思って、そのための花瓶を、今日は買いに来たんです」

そう言い終わると私は、今まで苦しんできた灰色の日々が思い出されて、息が詰まって何も喋れなくなってしまいました。
店員さんは突然立ったまま泣き出した私をゆっくり慰めるように、御自身の話をぽつぽつとしてくれました。

私達は今日初めて出会ったにも関わらず、長い間話をしていました。親の話、兄弟の話、仕事の話、お店の話……。話が終わるころ、私の涙はすっかり引いていました。

透明のガラス瓶の周りを鉄のワイヤーで囲ったデザインの花瓶と、同じく鉄のワイヤーで装飾されたガラスのコップを手に取り、お会計をしようと店員さんに差し出しました。

その時でした。
「そうだ、これ持って行ってよ」
そう言うと店員さんはたくさんのドライフラワーの中から、紫陽花のドライフラワーを2本、私が買おうとした花瓶に挿してくれたのです。
 
「いえ、そんな、無料で頂くわけには……」
「わたしからの応援の気持ちだから、受け取って」
 
そのまま、手際よく茎の先端を整えた店員さんは、花瓶と一緒に紫陽花も包んでくれたのです。
 
私は恐縮しながらも、何度もお礼を言いました。
「あなたには頑張って欲しいから。いや、頑張らなくてもいいんだよ。自分のペースでやっていけば、ね」
と店員さんが言うので、私はまた泣きそうになりました。

そうしたことがあって、私はこのドライフラワーを見るたびに、あの店員さんのことを思い出します。私は独りじゃない、と思い出します。

引っ越してしまったから、もう会えないかもしれないけれど、私が大切に持って来た紫陽花のドライフラワーを見るたびに、私はあの日のことをきっと何度も何度も思い出します。

あの時は本当にありがとうございました。

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