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映画『ジョーカー』と原因なき結果

私は薄寒いサスペンスの殺人シーンが好きです。特に突発的に人を殺してしまった後、呆然とたちすくんでしまう犯人の様子がなぜか心に残る。しかし、なぜ犯人は呆然としてしまうのか。ナイフや包丁で人を刺したら死ぬことは誰にもわかることです。しかし、犯人は自分のやってしまったことに驚き、茫然自失となってしまう。

ドラマでは警察や探偵が犯行の動機を解明しようとします。痴情のもつれ、金銭トラブルなど、殺人が起こった原因を解明しようとする。殺人を因果関係の中に位置付けようとする。原因なき結果など存在しないかのように。

『ジョーカー』が2019年に公開された。この映画は比較的、高評価を得ているようだが、哲学者・精神分析家スラヴォイ・ジジェクはインタビューで『ジョーカー』について次のように言っていました。(うろ覚えで要約しますが、詳細を知りたい方はYouTubeで検索すると出てくると思います。英語のインタビューです。)

ジョーカーの起源を描く事はそれ自体が不可能である。なぜなら、ジョーカーの誕生を合理的に因果関係として描くことができないからである。というのは、ジョーカーがカリスマ的な犯罪者へと変貌した原因が貧困、精神疾患、対人関係、社会不安などであると描くということは、同じ状況に置かれた人間が全員ジョーカーのようにならないとおかしい、ということを意味するからだ。

ジジェクはジョーカーという存在は「奇跡miracle」であるとインタビューの中で述べています。奇跡とは神の恩寵の現れであり、その意味や、なぜそうなのかという原因を人間が合理的に説明することができない類の現象です。ジョーカーという存在は本来そのような存在のはずなのです。ジョーカーは因果性によって説明できない。

先程、ジョーカーの誕生の理由を描けるとすれば、同じ環境下の人間が全員ジョーカーにならないとおかしいと述べましたが、この映画のラストシーンは実際にジョーカーのようなピエロのマスクをつけた暴徒の群れが街を飲み込んでゆく様が描かれています。つまり、皆がジョーカーになったかのように描かれる。

しかし、このジョーカーの模倣者達はジョーカーではありません。模倣者達はコピーであり、オリジナルであるジョーカーとは異なる存在です。コピーはその存在をオリジナルに依存しているという点で、決してオリジナルにはなれない。

2008年、秋葉原で通り魔事件があった。ニュースなどでもさまざまに犯人の背景が詮索された。親からの過度の抑圧や勉学における挫折、コミュニケーションの不全と孤立など、原因を探ろうとする報道が加熱していったように記憶している。

『ジョーカー』と同じ構造をしている。犯人と同じように、親からの抑圧を受け、勉強で上手くいかず、社会から孤立した人間はいくらでも居るはずである。しかし、なぜ彼が、彼だけがあのような犯行に至ったのか。それを考えるためには原因を特定しようとすること自体が無意味になる事態を考慮する必要がある。

当然、結果には原因がある。しかし、原因と結果が存在することと、それを語ることの間には大きな違いがあるように思われる。それゆえ原因なき結果を語るための言葉を創らねばならない。


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