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味覚と記憶あるいは恋愛とトラウマ

2007年のピクサー映画『レミーのおいしいレストラン』には味覚が幼少期の記憶を呼び起こすシーンがある。ラタトゥイユを口に入れたとたん、幼い日の出来事や母親が作ってくれた料理の味、暖かな家庭の雰囲気が過去の記憶として呼び起こされる。

記憶という言葉はさまざまな使い方がされる。多くは個人の過去の経験を現在に呼び起こす事を意味するが、大きな災害や事件など、社会全体が共有する非人称的な記憶も存在する。

ドイツ語には記憶を意味する単語が二つある。GedächtnisとErinnerungの二つである。Gedächtnisにはgedachtという語が入っている。gedachtは「denken=考える(英:thikn)」の過去分詞で、考えられたものという意味である。つまり、Gedächtnisには考えることによって思い出された記憶という言葉のイメージがつきまとう。それゆえ、単に記憶という意味のみならず、記憶力という意味も持つのがGedächtnisだ。この場合、記憶は思考によって現在に呼び起こされる。

対してErinnerungはその中にinnerが入っていることから分かるように、心の中=innerに入っていくというイメージを持つ言葉である。こちらは考えることで呼び起こされた記憶ではなく、心の奥底=innerに引き摺り込まれるようにして湧き上がってくる記憶を意味する。そこでは記憶の方がわれわれを捉える。

プルーストの『失われた時を求めて』では、マドレーヌを口にした瞬間、不意に幼少期の思い出が主人公を捉える。『レミーのおいしいレストラン』や『失われた時を求めて』における記憶の作用はErinnerungである。記憶は思考と関係なく、われわれを過去に連れ去る。

こうした記憶の作用には一種の抗い難さがある。努力して昨日の朝食を思い出すのとは異なり、味覚や嗅覚による記憶にはどこかしら強制力があるように思われるのだ。

記憶とは確かに時間的な概念だが、記憶と過去は異なる。東日本大震災は教科書に過去の出来事として記されているし、さまざまな記録は残り続けるだろう。しかし、震災の記憶とは単なる過去の出来事ではない。この差異は主観/客観の差異とは異なる。なぜならそこにはあの抗い難くわれわれを過去に連れ去ってしまう引力は存在しないからだ。

哲学者・精神分析家であるスラヴォイ・ジジェクは『ジジェク、革命を語る』という著作(だったと思う)で、恋愛とトラウマの構造的類似性について非常にわかりやすい説明をしている。

トラウマの典型例として帰還兵のPTSDが挙げられる。彼らは戦場で強烈な体験をし、母国に帰った後もその経験がフラッシュバックしてくる。記憶は自ら呼び起こすのではなく、記憶の方が彼らを捉える。実は恋愛も同じである。誰かに恋をすると、気がつくとその人のことを考えてしまっているというのは典型的な症状?だ。他に集中しなくてはいけないことがあっても、PTSDのように好きな人のことが頭から離れず、作業が進まないというのは多くの人が経験することだろう。

人間の心は容易に何かに囚われてしまうのだ。そこには意志とは関係ない強制力が伴う。われわれの心のうちには、このような作用が常に働いている。人間の心は決して理性や合理的推論からのみ出来上がっているのではない。戦争経験、震災の記憶、恋愛感情、幼少期の暖かな家庭。それらは本来全て等しくトラウマ的なのだ。

過去の失敗や嫌な出来事について、過去を乗り越えろなどという人もいるが、そもそも乗り越えられる過去など大したものではない。向き合うことすらできずに、引き摺り込まれる記憶というものが存在する。しかしそれら全てが悪いものではない。ジジェクのいう通り、恋愛など強烈な快楽を与えてくれるし、『レミーのおいしいレストラン』のように母親の穏やかな愛情に浸ることもできる。

ふとした瞬間にわれわれを捉え連れ去ってしまう記憶。味覚や嗅覚さまざまな味わいの中には常にその危険と期待が混在している。

『レミーのおいしいレストラン』に登場する料理批評家が、かつての母親の味を求めたように、われわれも実はどこかで捉われる瞬間を求めている。記憶が現在を連れ去ってしまう経験の快に身を委ねてみてはどうだろうか。

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